自宅から職場は、都心から離れる方向になるので、朝の通勤電車は比較的空いていて、座っていくこともできます。
しかし、多くの場合、私はドアのところに立って、本を読んでいるか――
―― 空を見ています。
-----
いや、気取っている訳ではなくてですね、眺めているのが好きなんですよ。地デジアンテナの方向。
地元の中継局に向いていたり、東京タワーの方向を向いていたりと、結構バラバラ。
加えて、微妙に方向が違っていたりして、こういういい加減なアンテナ設置工事をするとは『プロの仕事』とは思えん、許せんなぁとか思いながら。
まったくアンテナが存在しない区域は、多分ケーブルテレビが強い地区だろうとか考えています。
-----
アンテナと言えば、今週末、角材と紐だけで実験用のGPSアンテナを立てました。今日、台風並の暴風雨が来たので、あわてて家の中に撤収しました。
アンテナごときで、結構な時間を費せる人生は、結構良い人生だと思います。
-----
(以下スルーして下さい)
ここで、先週末の実験結果の概要のメモ
1.実験結果
○1PPS信号ロックには、東西南北の全方向が開けている必要がある。但し、地平から45度程度あれば足る。
○家庭用のテレビケーブル(インピーダンス75Ω)で、GPS信号の伝送実験を強行。インピーダンス不整合(GPSケーブルは50Ω)だけど、1PPS信号は簡単に取得確認
○但し、3分岐させて、テレビアンテナまたは、ブースタ方向のケーブルと接続すると、即1PPSが消える(GPSロックが外れる)。利得がダウンが原因か、あるいは別の原因があるのか不明。
○またGPS信号を、そのまま家庭内のテレビケーブルに強行配信して、家の中での1PPS信号取得実験は当然に失敗。
2.考察
○インピーダンス整合器を使わなくても、1本のケーブルでは問題なく配信できることが分った。
○テレビケーブルからGPS信号を取得できない理由は、「分岐による利得ダウン」「ブースター等の経過する際の利得ダウン」などが考えられる。
3.今後の進めかた
○まず地デジやBSの信号レベルとGPSの信号レベルを正確に把握すること
○地デジ・BS用の市販ブースターがあるから、先ずはそこから今週末に再実験を開始する。
○その後は、GPSブースターをどっからか借りてきて、電波を増幅してテレビケーブル線に突っ込んでみよう(無茶は承知だ)。
以上
北朝鮮の衛星実験用のロケット発射が、国際連合安全保障理事会決議(以下、安保理決議)に違反ということで、現在国際的な非難を浴びています。
一方、日本は、あの「はやぶさ」を含めて、多くの人工衛星を打ち上げているのですが、こっちは安保理決議には引っかかっていないようです。
どこに違いがあるのかと、ちょっと気になったので、調べてみました。
-----
○「安保理決議1874」というものが、この対象らしい。
○概要は、2009年6月12日に国際連合の安全保障理事会で採択された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に関する決議。
○背景は、北朝鮮が2009年5月25日に行った核実験。
○内容は、経済制裁、公海上、海港、空港での兵器または部品などの強制検査し、破壊する権限を加盟国に与えること。
○ちなみに、安全保障理事会を構成する国、15カ国、全会一致で可決された。
(ちなみに常任理事国とは、米国、英国、中国、仏国、露国の5カ国、非常任理事国は、持ち回りで、今は、オーストリア、ブルキナファソ、コスタリカ、クロアチア、日本 、リビア、メキシコ、トルコ、ウガンダ、ベトナムの10カ国)
と、ここまでが客観的事実。
-----
以下、私の主観。
ということは、安保理決議は、国際条約ではない。いわゆるパリ条約やTrip条約のようなものではないのです。
つまり、<北>には、この決議を遵守する法的根拠はなく、そして、守らないからといって、国際司法裁判所に引っ張られる訳でもないことです。
そもそも、その成立プロセスからして、法的拘束力が生じる訳がない。
成立プロセスを擬人化して語れば、
(1)乱暴者で、隣の家に時々火を投げつけたりする、皆から評判の悪い"K"君がいた。
(2)彼が学校を欠席していた時に、『K君がこれ以上悪いことする、またはしそうになったら、皆で文句をいってもいいし、必要ならやっつけてもいい』というルールを、「K君抜き」で作った。
(3)K君は自分で作った花火を試してみたいと思っている。けど、回りの皆が、それは、K君のクラスの友達の家を放火する為の予備的な実験だ、と決めつけて、『みんな(ただしK君を除く)で決めた、(K君にだけ使われる)ルールなのに、ルール違反だぞ』と言っている、と。
まあ、こんな感じですかね。
-----
「はやぶさ打ち上げ」と「今回の<北>のロケット打ち上げ」の間には、本質的な差はない、ということです。
ただ、「これまでの<北>の所業が悪すぎて、国際的に額面通りに信じて貰えていない」という、この一言に尽き、「北」から見れば、「卑怯な欠席裁判をやられた」と思えるでしょう。
# いや、実際には、出席してヤジっていたと思うけどさ。
そこへ行くと、我が国は国際的な優等生です。(但し戦後の常任理事国支配の体制下で、という意味ですけど)
我が国は、間違っても、人工衛星ロケットに核弾頭を乗せて、どこかの国に飛ばす、というような疑いはかけられていない訳ですよ。
-----
「北」は勝手にルールを作られるだけの所業をしてきたし、していると思う。
少なくとも、この点において、私に疑義はない。<北>を擁護する言葉など、一言もない。
しかし、だ。
(1)国際法と国内法の調整や論理の組立てで、法律の学者が実務者が、どれほど苦しい理論を作りだして、非常に長い時間を経て、それを定説にまで高めていることを知っている ―― ちょっとばかり条約や法律を勉強している私としては、
(2)
(a)現時点で、世界を100回近く全滅させる程度の核兵器を保有し、自然環境を根底から破壊するような核実験を2000回以上やってきた常任理事国ふぜいが、
(b)「安保理決議」を、国際法、または国際条約のように語り、あたかも絶対的正義のごとく主張しているという事実や、
(3)
(a)我が国は、全ての核兵器保有国(<北>は勿論、常任理事国も含む)に対して、何の後ろめたさもなく彼らを批判できる絶対的優位な立場にありながら、
(b)「安保理決議」の意義や効力について、国民に何も知らせることなく、だらだらと報道を続けるだけの我が国の政府やマスコミを、
―― 心底から、不快に思う。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』
大きな目的を達するには、それに直接あたるより、周辺から攻めるのが良いという諺(ことわざ)です。
これは、恋愛でも良く語らせます。
本命の彼女、彼氏から攻めるのではなく、友人、両親から、徐々に攻める方が良いという、恋愛戦略として語られますが ――
―― 嘘っぱちです。
他のことは知りませんが、こと恋愛に関しては。
『将を射んと欲すれば「将」を射よ』
が正しい。
-----
いわゆる「ご両親」に対する演技では、どこでも100%の評価を得ていた私です(私は、その気になれば、抜群のインターフェースを発揮できる)。
が、「ご両親」に気に入られることは何の意味のない、というあたりまえのことに気がつくのに、私は、呆れるほど時間がかかったのです。
『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』
大きな目的を達するには、それに直接あたるより、周辺から攻めるのが良いという諺(ことわざ)です。
これは、恋愛でも良く語らせます。
本命の彼女、彼氏から攻めるのではなく、友人、両親から、徐々に攻める方が良いという、恋愛戦略として語られますが ――
―― 嘘っぱちです。
他のことは知りませんが、こと恋愛に関しては。
『将を射んと欲すれば「将」を射よ』
が正しい。
-----
いわゆる「ご両親」に対する演技では、どこでも100%の評価を得ていた私です(私は、その気になれば、抜群のインターフェースを発揮できる)。
が、「ご両親」に気に入られることは何の意味のない、というあたりまえのことに気がつくのに、私は、呆れるほど時間がかかったのです。
(To be continued)
(Continuation from yesterday)
付き合ってきた彼女達には、私の、その浅学で、狭量で、卑怯な人間性を、直ちに見破られてた ―― のだろうと思います。
とは言え、「浅学」「狭量」「卑怯」は、上書きできない、私の本質的な属性であったし、「優しさ」とか「愛情」やらを、自分の属性だと主張する程、私はずうずうしくもありません。
-----
『将を射んと欲すれば「将」を射よ』の戦略として、私は
「誠実」
を全面に出しました。
「恋愛における誠実」とは、ぶっちゃけて言えば「恋愛の2トラックを実施しない」。意訳すれば「二股かけない」で、まあ良いでしょう。
# そもそも「2トラック」できるだけの器量もなかったけどさ。
しかし、私の「誠実」戦略ほど「不誠実」なものはなかったと思います。
なにしろ、「誠実」であることのメリットは、誠実そのものではないと思っていましたから。
-----
私の考える「誠実」のメリットは、以下の通りです。
(1)安い
「誠実」はコストが安いです。嘘をつきそれを重ねることに比べると、高等な技術や知能は不要で、リスクもありません
(2)簡単
また「誠実」はシンプルです。2つめの誠実とか、複数シナリオを必要せず、ただ、どのような場面であれ、誠実であることだけを実施すれば足ります。
(3)長期戦略向け
さらに「誠実」は、長期戦略に向いており、今のトレンドにも会っています。晩婚化がデフォルトになっている以上、姑息な「技」を駆使した短期戦略より、勝率が高いです。
-----
つまり、「誠実」とは、
○頭が悪くて、
○トラブルに高速に対処する能力もなく、
○学力も知識も乏しく、
○そもそも「愛」という無体物を理解できない、
○浅学で、狭量で、卑怯な
そういう人間に適した、
『最適戦略』
そのものなのです。
ネガティブデータという言葉を御存じでしょうか。仮説を覆すデータのことで、簡単に言えば、失敗データです。
こういうデータが、下手をすると成功データよりも貴重であることは、その分野の当業者の方であれば、ご存知だと思います。
なにしろ、特許出願では、ネガティブデータを引例として、特許出願の拒絶ができるという考えもあるくらいです。
我が国にしたところで、打ち上げ費用だけで100億、ロケット本体の費用が1500億もかかるロケット発射に何度失敗し、そして、その失敗データが、どれだけ次のロケット開発に貢献してくれたか ――
その効果は図り知れないものがあります。
----
『<北>がミサイル実験を「失敗」した』と繰り返し報道されていますが、開発者の観点から言えば、当然に必要なプロセスです。
『<北>がミサイル実験を「実施」した』という事実が問題なのです。ロケットが爆発するまでのデータは取得できたハズだからです。
私としては、『<北>が失敗を認めた』ということの方が、はるかに脅威に感じます。
彼等は正しい技術開発のアプローチを歩み出したのかもしれません。
このような正しいアプローチに基づく技術開発は、いずれ必ず成功するからです。
『力のない主人公が、様々な苦難に直面しつつも、それらを乗り超えて、最後には成功する』
という、予定調和的なドラマが多いですよね。
でも、時々思うんですよ。
「前向きに、意気揚々として、希望を持って『夢を諦める』ドラマ」ってないものですかね。
-----
「諦める」とまで言わなくとも、
○「夢」の閾値(しきいち)を下げる
○「夢」のベータバージョンをリリースする
○「夢」を一旦、留保する
○「夢」へのアプローチ、または対象を変更する
ということは、私達が生きていく為に、日常的に、普通に行っていることです。
「夢」を究極に追求するということは、その為に究極的に不利益を詰み上げる覚悟を持つということです。
その不利益とは、恋人ができなかったり、社会的信用を失ったり、収入が得られなくなったり、下手をすると衣食住にも不足する、と言うことです。
私達は、そういう人を、日常的に「バカだ、アホだ」と陰口を叩いている一方で、「下町でロケットの部品を製造している話」に感動します。
ぶっちゃけて言えば、
「夢」は叶うことで、遡及してプロセスが評価され、
「夢」が叶わなかったら、一生バカにされ続ける、
と言うことです。
-----
「夢を諦める」ことは、もっと前向きに、もっと高く評価されるべきだ、と思うのです。
そして、
『私は自分のやりたいことが分からない』
という若い方達に、
「大丈夫。殆どの人が『分っていない』。そして、殆どの人が、別段、やりたいことを目指して生きている訳でもない」
と、きちんと教えて上げたいと思うんですよ。
その為には、「ドラマ」は、てっとり早い手段かな、と。
-----
♪あなたの夢を諦めないで~(岡村孝子)
と言う歌があります。
私も、何度か、そういう内容の手紙を貰ったことがあります。
でも、突っ込んでしまうんですよ。
「お前はどうなんだ?」
って。
私は「自分が嫌い」と思ったことがありません。
だから、色々な歌の中で登場するこの手のフレーズの意味が、よく分からないのです。
失敗をして激しく落ち込みますが、それでも自分が「駄目な奴だなぁ」とは思いますが、決して「嫌い」ではありません。
頭が悪く、要領もよくなく、空気も読めず、浅学、卑怯、狭量でも、「うんうん、お前は『いい奴』だ」と思っています。
#
友人に「お前みたいに幸せな奴は見たことがない」と言われたことがありますが、何を言われたのか、今も良く分かりません。
-----
だから、自分を構成する属性だって大好きです。
それが、悪すぎる目付きや、重すぎる体重や、故障を繰り返す腕や脚、そして、
異様に値の高い、AST(GOT)、γ-GTP(肝機能障害の指標)
すらも、それは私の愛すべき大切な「個性」なのだと信じています。
私が、位置情報サービスの研究を行ってきたという話は、すでに何度か致しました。
この研究を進める上で、最も大変だったことは、技術開発ではありませんでした。
傲って(おごって)いると思われると嫌なのですが、詰るところ、技術というものは、金と人があれば、ある程度まではなんとかなるものなのです。
-----
位置情報サービスの研究の最大の敵は「嫌悪感」でした。
いわゆる「どこにいるか第三者に知られるのが嫌」という奴です。
「プライバシー」という言葉で良く語られてましたが、この「嫌悪感」なるやつは、まったく異なる観点から、我々の研究を技術開発を徹底的に邪魔しまくりました。
『そんな、プライバシーの侵害になるサービスが流行る訳がない』だの『人格権の侵害』だの、と、まあ色々言われて、研究の邪魔になること、まあ果てしなかったこと。
-----
私は、その度に思ったものです。
「あんたは、あんたの時間に、突然、予告もなく割り込んで、プライバシーを平気で破壊する機械 ―― 携帯電話 ―― を持ち歩いているが、それは良いのか?」
とか、
「世界中の地図を開示され、さらに自宅の外観写真まで公開されて、大騒ぎしていたのに、今は、もうどうでも良くなったのか?」
とか、
「殆どの駅に、ほぼ間断なく設置されている監視カメラは、あんたの顔を完璧に記録しているが、これは気にならないのか?」
とか。
私が不愉快に思うのは、プライバシーを標榜するくせに、その取扱に一貫性がなく、論理破綻していることです。
-----
しかし、まあ、「嫌悪感」とはそういうものだということは理解しています。
完璧に論理的であることは、人間であることを否定するようなものでしょうから。
それと、年頃に至ってない娘を持つ父親としては、娘達の位置情報は勿論、電話、メールアドレス、その他、ありとあらゆる情報が、第三者に漏洩することは、やはり心配ではあります。
とは言え、我々の存在している場所が完全に把握され、第三者に共有されることは、時間の問題だと思います。
#Facebookで、私はこれを確信しましたね(後日語ります)。
-----
では、ここで一つのテーゼを提供してみたいと思います。
世界の全ての人間の位置情報が、全て開示された世界において、何が起こるか?
私には、一つの仮説があります。
「どーでも良くなる」
-----
我々は他人の行動やプロセスには興味がなくなり、
その人の嗜好や属性も気にならなくなり、
その人と私との間におけるインターフェースだけが重要な要素になる、と。
隠されない(隠すことができなくなった)本人のプライバシーは、本人の属性としての個性と同化します。
その気の遠くなるような膨大な種類の価値観は、もはや、その人が「何を嗜好しているか」という観点を消滅させてします。
ただ、「その人」と「私」の関係性は、「価値があるか/ないか」のみの価値観で支配される世界になる、ということです。
-----
うーん、これでは良く分からないか。
では、卑近な例ではあるが、実施例を提示してみよう。
例えば、
「ゴスロリの衣装を着ている上司(男性)に、書類の決裁の印鑑を貰いに行く」
「パンクファッションをしている銀行員に、融資の相談をする」
「幼女趣味であることが分っている社長の会社に、入社する」
というイメージでしょうか。
# うーん、上手くないなぁ・・・。まだ私も整理しきれていないのです。
要するに、ありとあらゆる人間としての属性を切り捨てた、究極の「インタフェース社会」の具現化、と言えるものになるのだろう、と考えています。
友達リクエストを提出し、相手側から了承して貰うと「友達になる」。
「友人とは何か」をずっと考えてきた私の前に、アッケラカンとFacebookが提示した「友人の定義」。
「なるほど」と感心しました。
将来、お見合いの釣書に「Facebookの友達の数」を記入することになるかもしれません。
下手をすると、お見合いのその場でパソコンや携帯電話で、直接調べることになるのかも。
# こういうことが冗談ではなく、本当に実現してしまうのが、この時代の怖さですが。
-----
ま、それはさておき、この「Facebookの友達リクエスト」ですが、これを拡張すると、凄いことになりそうです。
○恋人リクエストを提出し、相手側から了承して貰うと「恋人にな<る」。
○結婚リクエストを提出し、相手側から了承して貰うと「夫婦になる」。
という程度までは、簡単に想到(そうとう)できると思う。
-----
もっとエゲツないことを考えてみました。
○生徒リクエストを提出し、相手から了承貰うと「教師になる」。
○部下リクエストを提出し、相手側から了承して貰うと「上司になる」。
了承の来ない教諭や管理職は、生徒や部下がゼロのまま、その職位に留まることになる、と。
うん。
インターフェースが支配する世界の一つの実施例として、私は、是非見てみたいぞ。
Facebookの話題の続編です。
今年の1月1日に、Facebookのアカウントの取得をしたのですが、その後、一回もログインができない状態になっており、先日まで放置しておりました。
しかし、放置できない理由(もうすぐ分かります)が生じまして、アカウントの取得をして貰う為に、身分証明書を送付して、アカウントをアクティベートして貰いました。
そして初めて見るFacebookのページの友人候補リスト(で良いのかな)を見て、背筋に悪寒が走りました。
「どうやって、このシステムは、私が10年以上も前に出会って、その後、完璧に忘れていた人までも、見付け出してくるんだ」、と。
まあ、Gmailのメールアドレスから逆引きする、というメカニズムくらいは理解できる。
しかし、そこから先の二次的探索のやり方が全然推測できない。しかも、その探索結果は、あまり外れていない様に思える。
-----
私は今、「やんちゃ」をしていた時代の『後』に、インターネットが登場してきたことを、心から感謝しています。
今の若い人は、大変だなぁ、と思います。
「若気の至り」は、全記録されています。
一つの例としては、「昔の彼女や彼氏の話が、一生付いて回る」と考えれば、分かりやすいでしょうか。
-----
「プライベート丸裸」
覚悟した方が良いでしょう。
「『山 山に非ず これを山という(金剛般若経)』
わかるか、岡」(エースをねらえ!)
岡選手が、
(そんなもん分かるか!
まったく、突然、訳の分からんことを言い出す、迷惑なコーチだなぁ)
と、思ったかどうかは、不明です。
-----
昨夜、嫁さんに、私のツイッターのページを見せながら、ツイッターの仕組みを説明していました。
嫁:「なるほど、この『ツイート』に出てくる発言が、あるテーマについて皆で議論をしている様子な訳ね」
私:「うんにゃ、そうじゃない。これらの発言には、何の関連性もなく、共通のテーマなどない」
嫁:「え、じゃあ、皆が、バラバラに、なんの脈絡もなく、なんの背景の説明もなく、勝手に発言しているだけなの?」
私:「その通り。どういう意図で発言されたかも不明で、その発言の意味を読みとることも、事実上不可能」
嫁:「では、このツイッターの目的は何なの」
私:「目的は、ただ単に自分が『つぶやく』ことと、ただ単に他人の『つぶやき』を見ることだけ」
嫁:「いや、そういうことを尋ねているんではなくて、この『ツイッター』というシステムによって得られる『利用者の利益』のことを質問しているの」
私:「その質問をしたい気持ちはよく分かるよ。でも、敢えていえば、その利益は、『つぶやく』ことと『つぶやき』を見ること、となるんだろうなぁ」
嫁:「あのさ・・・、楽しい?」
私:「いや、全然」
嫁:「もの凄い時間の無駄使い、じゃないの?」
私:「全く、疑いなく、その通りだと思う」
嫁:「なんで、そんなことやっているの?」
私:「『ITの研究員』だから」
嫁:「?」
私:「エンターテーメント性としての価値は、正直、私には全然分からないんだけどね」
と言った後で、以下の様なことを説明しました。
-----
一つは、私が発明者となっている特許発明との関係を調べる必要があったこと。
そして、もう一つは、利用者としての「ツイッター」(Facebook,
その他、同類のサービスも)を理解する必要があった為です。
我々IT通信のエンジニアは、これまで緊急災害速報のシステムを色々考えてきました。
しかし、これらの全てのシステムは、「ツイッター」の効力の前には、――正直、忸怩たる想いはあるけど
―― 遠く及ばない、と認めざるを得なかった為です。
-----
という訳で、今の私は、
「ツイート
ツイートに非ず これをツイッターという」
という心境です。
物事を評価する時、私達は、自分の持っている専門知識から導入するしかありません。
例えば、
○ラーメン屋の店長が、ラーメンの製造プロセスから、我が国のロケット開発プロセスを論じることもできますし、
○半導体の技術者が、半導体設計手法から、有名パティシエが作るケーキにおけるフルーツのデコレーションを論じることもできますし、
○経済学者が、マクロ経済の観点から、自分の家の家計簿のレビューをして、支出管理を行なうこともできます。
これらは、いずれも有効な示唆であったり、優れた助言となることもあります。
が、これを逆からに言うと、我々は、
○所詮は自分の経験した事項からでしか物事を評価でず、
○その範囲は限定的かつ狭小で、
○大くの場合あまり役に立たない、
とも、言える訳です。
-----
長い前置きでした。
何が言いたいかというと、昨日話しました「ツイッター」の件の続きです。
『「ツイッター」って、何かに似ているなー、なんだったかなぁーー』と思いながら、一日過ごしていたのですが、ようやく気がつきました。
脳神経ネットワーク(ニューラルネットワーク)です。
脳細胞は、成人を超えた当たりから、一方的に死んでいくだけです。
それなら、成人式を超えたあたりから、人間は一方的にバカになっていくだけのようにも思われます。
そうならないのは、脳細胞がお互いに連結(シナプス結合)して、相互に連絡を取り合っており、このシナプス結合が複雑になるほど、難しい計算や、高度な概念に到達することができる、らしいのです。
つまり、頭はコキ使ってさえいれば、一方的にバカになっていくことからは逃げることができる、ということなのです。
「ツイッター」を構成する、我々ユーザ一人一人は、直ぐに死んでしまうような脆弱な脳細胞なのです。
しかし、その脳細胞を普段から緩やかに繋ぎあっていれば、全体としては、一種の巨大の知的システムとして動く
――
のかなぁ・・・と、まあ、こんな風に理解した訳です。
で、災害の緊急時の通信インフラとしては、腰が抜けるような目覚しい効果を発揮する、と。
一件意味のないあの「ツイート」は、シナプス結合を維持する役目を果たしている、と・・・、まあ思い至った訳なのです。
-----
訳なのですが・・・、訳なのですが、、、ねぇ。
なんで私がニューラルネットワークに想到したか、というと、それは、私が、たまたまニューラルネットワークの研究の論文で卒業したからです。
私が、たまたま持っていた知識のストックとマッチングできたからです。
で、こういうことを、自慢気に語るのって「凄く下品」だなぁ、と思いまして。
で、冒頭の25行にも及ぶ、一件無関係な論述は「江端は下品じゃないよ」と暗に主張したかったのです。
#
しかし、このような言い訳は、私の「下品な品性」を、逆説的に立証しているな。
ある日のこと、娘が、突然
「『失恋』って、日常の生活に影響するもの?」
という質問をしてきました。
私は、反射的に
「する。多大な影響を与える。『失恋』はしないに越したことはない」
と応えました。
-----
「そっかー、やっぱりなー」と呟いていたので、父親としてアドバイスをしてやりました。
「自分から告白するから失恋になる訳だ。そうならないように、コントロールすれば足るだろうが」
娘は、父親が何を言っているのか分からない風でしたので、続けて言いました。
「『自分から告白する』ではなく『相手に告らせる』だ。恋愛において、自分のリスクを取らない最適の戦略だ」
「それは、無理だよーーー」と、情けなさげに言う娘に、私は父親としてバシっと言ってやりました。
「何を弱気なことを言っているんだ。何の為に『演劇部』に所属しているんだ。こういう時の為だろうが。『女優』であるという気概を持て!」
-----
女性で芝居を演じている人であれば、――
それが小学校の学芸会の演目であったとしても ―― 立派な「女優」です。
昨日、「リスクを取らない恋愛戦略」の話をしましたが、それに関連するお話をしたいと思います。
-----
西尾維新の「物語シリーズ」は、町田図書館のご協力もありまして(インターネット予約しているだけだけど)、出版されているものは、あと2冊で全巻読破となります。
先日、「花物語」を読了したのですが、この本は、これまでの「物語シリーズ」とは一線を画する、かなり有用な示唆に溢れる実用書であると感じました。
ティーンエイジャには勿論ですが、全分野の全世代に対して、役に立つ至言に溢れています。
例えば、
=====
(その1)
「逃げの何が悪い?この世にあるほとんどの問題は、逃げることで解決するじゃないか。逃げて先送りにしているうちに、問題は問題じゃなくなってしまう――
『今このとき』に解決しようと思うから、人は苦労するんだよ」(沼地蝋花)
=====
これは、私もよく使う手法の一つです。
私の場合、
「来週のこの時間に、今のこの暗い気持ちを100%損うことなく持ち続けていることができたら、来週のこの時間に、アクション(会社を辞める等)を起こそう」
という、フレーズをよく使います。
問題の大きさによって、「1週間」とか「1ヶ月」とか、色々選ぶことにはなるのですが、現在のところ『アクション』は発動していません。
1週間もあると、別の案件がその問題を「押し出してしまう」からです。全部「押し出さない」にしても、100%を維持するのは難しいです。
1週間で80%残っている問題であれば、2ヶ月後に残っている確率は16%。半年後なら、0.4%程度にまで小さくなってしまいます。
「どんな問題も時が解決する」というのは嘘があるかもしれませんが、「時が忘却させる」という話であれば、簡単な等比級数で「裏」が取れます。
=====
(その2)
「大抵のことは逃げれば解決するのに、逃げたら負けだと思ってる奴が――本当に多い。」(沼地蝋花)
=====
これは、私も「停滞主義論」で、このホームページを立ち上げてきた時から、論じてきたことです。
停滞主義とは、「(1)停滞はラク(楽)である→(2)ラク(楽)であることは一般的に楽しい→(3)ここからラク(楽)から楽への回帰的な利益が得られる」というものです。
『もんじゅ』(高速増殖炉型)と名づけても良いかと思っています。
=====
(その3)
「――なあ、沼地。お前、『やらずに後悔するよりやって後悔する方がいい』という言葉について、どう思う?」
「負け犬の遠吠えだ」
「やらずに後悔した方がいいに決まっている」
「そうだな。私もそう思う。やって後悔する方がいいなんてことをいうのは、『やってしまった後悔』の味を知らない、無責任な第三者の台詞だ」
「だけど――― 一番いいのは、やって後悔しないことだ」
(神原駿河&沼地蝋花)
=====
これが「リスクを取らない恋愛戦略」に相当するのかな、と。
ちょっと違うか。いや、全然違うな。
こう言えば良いのかな。
『だけど――― 一番いいのは、後悔しないように仕組んだ後でやることだ』
うん。これ以上もないくらい卑怯だ。あまりの卑怯さで、清々しいくらい。
-----
と言う訳で、(ここから頂いたメールに対する私信になりますが)「失恋」の痛手は、解決する場合もあれば、解決しない場合もあります。
しかし、解決する場合は「等比級数」があなたを助けてくれるかもしれません。
食欲のご回復を、影ながらお祈りしております。
http://www.amazon.co.jp/花物語(講談社BOX)[単行本(ソフトカバー)]/dp/4062837714
昨日、大学のゼミの恩師の退官記念祝賀会に出席してきました。
場所は新大阪近くのホテル。出席人数200人超の大きなパーティで、先生のご人徳の賜物(たまもの)と言って良いでしょう。
しかし、当たり前ですが、関西と関東の間は、遠くて高くて時間がかかります。
大学とのコネクションを維持したい人(共同研究や依頼研究や、教授に博士論文の主査になって貰う等)は、大学の近くで就職して、居所を構えるべきだなぁ、と実感しました。
それはさておき。
-----
先日、この「祝賀会」に関して、以下のような日記を書きました。
======
ここから
=====
楽観的な気休めを言うのは、もう止めましょう。
「いつか、どこかで、また出会える」ということが「ない」ことを、私達は知っている。
これからの人生で、再会する可能性が絶無であることを知っている。
会えるとしたら、多分、どっちかの葬式だろう。
しかし、葬式では、お互いに喋れないし、笑うこともできん。
そんなもんに、私は参列しない。勿論、私の方にも来なくていい。
-----
だから、最後にもう一度だけ、
動いていて、
喋っていて、
笑っている、
皆に会いたい。
私の人生で、苦しい時にいつでも支えてくれる、あの目も眩むような幸せな日々を一緒に作ってくれた皆に
――
―― 最後の最後に、もう一度、心からのお礼を言いたい。
====== ここまで
=====
てなことを書いていました。
教授が退官されることになれば、我々が結集する場は事実上無くなります。
結婚する人はもう大体結婚しているから結婚式で集まることもないだろうし、関東と関西では、個人的につきあうには距離が遠すぎる。
遠距離恋愛は、「恋愛」というファクターでギリギリコネクションを維持できる「場合」があり、多くの場合、恋愛は距離に負けます。
(それを、逆に戦略的に使うという手法もあります(今、この場で「江端メソッド」と命名)が、これは別の機会に)
ですから、このパーティの最後には、仲間が号泣するような感動的な別離シーンを予想していたのです。
-----
私が甘かった。
私の「可愛い後輩達」は、それが、人生最後の出会いであろうが、なかろうが、相変わらず、先輩をいじって楽しむことに、何の躊躇もありませんでした。
『関東なんぞに行ってから、江端さんは変わってしまった。守りに入ってしまった江端さんに、何の価値があるんですか』
『会社に慣れない?
そんなこと、最初からここにいる皆が分っていたのに、自分で理解するのに20年もかかったんですか』
『このタイミングで、舞台に乱入しないのですか?
江端さん、私はガッカリです』
いいですか。
この発言をしている彼等は、40台後半に差しかかった、全員がそれなりの社会的地位を有する、大人の男の会話であることを覚えておいて下さいね。大学生じゃないですよ。
帰りの新幹線のキップを握って会場を脱出しようとする私を、物理的に(暴力的に)取り押えて、帰宅を妨害しようとしました(20時台の新幹線に乗らないと、私は帰宅できない)。
彼等は、――
多分、その後、彼等は私をそのまま夜の大阪の街に放置して、自分達だけは終電で帰宅する ――
そうだ、だんだん、思い出してきたぞ。彼等はそういう奴等(やつら)だった。
間違っても『江端さん、私の家に泊まって下さい』などと殊勝なことを言う奴等ではない。
『まだ夜は寒いですから気をつけて。新聞紙が暖かいらしいですよ』くらいのことは、平気で言う奴等だ。
忘れていた訳ではないのですが、彼等と私の関係は、20年以上の時を経ても、何にも変っていませんでした(もっと変わって良いと、私は思う)。
-----
そして、彼等は、私の葬式にやって来る。
そして、その葬式の最初から最後まで、私の悪口に花を咲かせ、そして、大声で笑い続けるだろう。
そして、親族や関係者は、私を「そういう人間だったか」と誤認して、私の葬式は、ただの騒乱した宴会と化すだろう。間違いない。
嫌だ。
それだけは避けたい。
何も言えずに、棺の中で黙り続けなければならないなど
――
想像しただけでも、耐えられない。
-----
私は今、誇張、反語、いかなる逆説的な意味なく、心の底からお願いしたいのです。
『私の葬式には、絶対に来ないでくれ』
私の人生の最後の最後くらいは、
「私の尊厳と名誉を破壊するような行為に及ばないで欲しい」
と、今、土下座の気持ちで、お願い(懇願)に至っております。
This is one of the biggest cities in the
world.
(ここは世界でも最も大きな都市の一つです)
思えば、ここから英語との不協和音が始まったと思うのです。
『最も大きな都市が、どうしていくつもあるのか?』
-----
この言語的矛盾を飲み下せた者が「英語に愛される人間」となり、
あくまでその矛盾に対峙しようとした者が「英語に愛されない人間」となる
のだと思うのです。
とすれば、常日頃から論理的であることを要求されるエンジニアは、運命的に「英語に愛されない人間」となる、と。
つまり、
『エンジニア
= 英語に愛されない人間』
という等価式は、極めて論理的に帰納する結論であると言えます。