日本人には「三国志ファン」が多いように思いますが、どうも、ゲームから入った方(または、ゲームしかやっていない方)にが、困らされることがあります。
とにかく、私がこれほど明らさまに「うんざりしている顔」を見せているのに、得意気に恍惚とした表情で、三国志の人物名を片っぱしから上げて、悦に入っているのです。
―― 三国志の登場人物を多く知っていれば、インテリである
と思っているのかもしれません。
どうでも良いですが、私に「人名を並べるだけの知識」をひけらかすのは止めて下さい。
迷惑な上、鬱陶しいから。
その程度のことで「感心して貰える人」の方へ、どうぞ。
さて、私はと言えば、吉川英二の三国志を、ティーンの時に読んだだけですが、その時持った感想が、
『孔明。お前、しつこい』
です。
最後の方は、ほとんどゾンビのようで、食傷ぎみになりましたよ。
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先日もお話しましたが、今、酒見賢一さんの「泣き虫 弱虫 諸葛孔明」という本を読んでいます。
この本は、ティーンの時に私の感じてきた感想を、ズバズバと書いてくれて、本当に気持の良い本です。
なにより、三国志の主人公格の「劉備」を、とことん「バカ者」扱いしている点が良いです。
劉備の行動の中でも、三国志上最大の見せ場でありながら、しかし、よくよく考えると、低能な指導者の最悪の戦略である、20万人の民衆を巻き添えにする撤退戦のシーンが最高です。
劉備:「お前らみんな江陵に行きたいかーッ!」
民衆:「おう!」
劉備:「本当かーッ!」
民衆:「おう!」
劉備:「わしを信じるかーッ!」
民衆:「おう!」
劉備:「よっしゃ、まずは襄陽で昼飯ダァーッ!」
民衆:「おおう!」
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なるほど、あの中国史上、最低最悪の作戦は、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の乗りで実施された訳ですね。
ようやく理解できました。
私は、自分の書いたコラムに、「悪い評価」を書いてくる人が嫌いです。
・・・って、江端。何度、言っているんだ。いい加減しつこいぞ。
という声が聞こえてきそうですが。
えっと、今日はその話がしたいのではなくて、いわゆる「低評価」に対する、耐性、受容体の話です。
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Youtubeのコメントなどを見ていて、気がつくことが、あるコンテンツの「低評価」に対する、激しい憎悪です。
「なぜ、低評価をつけるのか理解できない」
という意見が、よく見られますし、
特に著作者自身の場合は、
「自分の動画に毎回低評価が付く件」
「毎回、低評価する人はだれか探しています」
「低評価を付けている人を特定出来るのか」
とか、犯人探しの様相まで呈しています。
私は「大人げない」とは言いませんよ。私も腹を立てている「当事者の著作者」なのですから。
ただ、私の場合はTwitterなどのコメントが多いので、逆に「何がどう悪かったのか教えて下さい」と聞けますし、実際に聞いています。
良いコメントと改善提案を貰える場合もあれば、「なんだ?その理由」と首をかしげる場合もありますし、逃げてしまう人もいます。
まあ、それはさておき、「低評価」の話に戻します。
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著作者自身でない場合では、特に「アニメソング」「ドラマ」なんかで、この「低評価」への非難コメントが多いです。
でも、これは仕方ないです。
アニメソングやドラマ主題歌は、アニメ等の内容(登場人物、背景、ストーリー)と一体化して聴取されるものだからです。
「この歌絶対にいいから!」と薦められた場合などは、想像できます。
→ アニメの内容を全然知らない人が、その歌を聞く
→ なにがどういいのか良く分からない。特に歌詞の内容が理解できない
→ 滅茶苦茶な数の「高評価」ボタンが押されている
→ なんか騙されたみたいだ。
→ えい!低評価ボタンをポチッと
と、こんな感じです。
もし、信じられないのであれば、20年~30年くらい前に流行ったアニメやドラマの主題歌を聞いてみて下さい。
あなただって、絶対に「この歌の、どこが、どう、心の琴線に触れる訳?」と思えるはずです。
もちろん、単なる臍(へそ)曲がりで、低評価ボタンを押す人もいると思うのですが、上記のような正当な理由(?)で押されている場合がある(そして、そっちの方が多い)と私は思っています。
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私が心配しているのは、耐性の弱さや、受容体の小ささです。
何かのアクションを起こせば、必ずその逆方向のベクトルが発生する ―― これは、自然法則です。
「高評価」があれば、かならず「低評価」が存在する。
こういうことを理解できずに、社会人になること自体には全然問題はありませんが、そのようことを理解できないと、逆ベクトルが存在していることだけで「苦しむ」ことになることです。
勿論、このような心ない(ように見える)「低評価」に慣れる必要はありません。
しかし、その背景や理屈を推測して、耐性を付けて、受容体を大きくすることは、何かを創作する人には、特に必要な能力だろうと思っています。
現実に、私は、これまで、そのような「低評価」に相当する仕打ちで、潰れた人を多く見ています。とても残念なことだと思います。
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で、一人の創作者として、私が取っている手段は、明快です。
■ 評価が見える環境を作らない
私の場合、ブログにコメント欄を付けていません。これでバッチリです。非難の言葉は聞こえてこないからです(賞賛の言葉も聞こえてこないですが)。
■ Twitterの評価は見ない
特に批判を受けそうなコラムを書いた場合には、見ないようにします。カウントだけ見ていれば良いのです。本当にまずいことなら、別のルート(編集部経由とかで)でも教えてくれるでしょうから。
■ 相手をトコトン調べる
大抵の場合、「悪い評価」を書いてくる人って、評価されるものを創作していない人が多いのですよ。Twitterのコメント履歴を見ても、非難や転送ばかりで、「何も生み出していない」。
はっきり言えば、その場の気分で好きなことを言うだけの、軽薄で浅学な人が多いように思えます(経験的には、学生が多いようです)。
■ 「絶対許せない」と思ったらトコトン闘う
公開の場(ネットでは埒があがらんから、直接会う)に引きずり出して、徹底的に議論するのです。これは負荷が多きて面倒です。
しかし、この提案をすると、大抵の人は黙ってしまいますが。
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To:創作に係わる全ての皆さん
「低評価」は、万有引力のような自然法則です。あまり気にしないで下さい。
To:創作物を評価する人
当然あなたがどのような評価をするかは、あなたの自由です。
但し、私の著作物だけは、非難してはなりません。
ロンドンのユーストン駅の人通りの少ない夜の歩道で、薬でラリっている若者に、絡まれそうになりました。
原則、私は、こういう奴を見ると、全力疾走で逃亡することにしています。こういう場面を逃げまくったことで、今の私がいます。
が、私の五感が「危険」のアラートを発していなかった(どうも、ラリっているだけの陽気なアホに見えた)ので、手を出してくた奴の脇を掻い潜って、そのまま、奴の背後に回って、合気道の構えの姿勢を取りました。
# 17歳の時に、合気道5級
私は、その日、仕事で最高に不快な思いをしており、ただでさえ悪いと言われている、私の目付きは"最凶"でした。
その邪眼で、正面から睨めつけたら、彼等(二人組)は目線をそらして、そのまま去っていきました。
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外国でこういうことは、絶対にやってはいけないのです。
20代の前半、安全でない海外をリュックで歩いてきた私は、そのことをよく知っています。
しかし、それ以上に、その時の私の機嫌は、最低の状態にあったのです。
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『ここで奴等と殴り合いしたら、少しはスッキリするかな』という位に。
所用があって、実家(名古屋)に帰省していました。
姉と事前に錬りに練った施設回り等の処理を遂行するのに、親父の車を利用したのですが、CDから流れてくる曲に閉口していました。
♪愛しても、ああ、愛しても、あーあーあ、人の妻~(「さざんかの宿」という歌らしい)
『人の妻に横恋慕するなよ。最初から対象リストから外しておけよ、気持ち悪い奴だな』と思う私は、たぶん、条理を越えた恋愛を、一生理解できないまま死んでいくタイプです。
1ミリたりとも、残念とは思いませんが。
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「そんなCD、スイッチを切って聞かなければよいだろうが」という、あなたは正しい。
しかし、私はそのCDコンポのスイッチをオフにすると、多分、そのことを忘れたまま、車を降りることになります。
そして、親父は、CDコンポのスイッチを入れる場所がわからないまま、これからずっとその、CDを聞くことができないままになります。
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「デジタルデバイド」という言葉がありますが、本当に機械が使えない人の、その「驚異的な使えなさ」に、そのような言葉を使っている人は、全然分かっていないと思うのです。
敢えて言うのであれば
―― スイッチデバイド
スイッチの持つ意味を理解する為には、少なくとも、ある程度のマルチメディアの知識が前提となります。
このメディアに対する知識なしに、「トラック」「ダウンロード」「メモリポッド」などはもちろん、「音楽をファイルで渡す」という観念を理解することなど、絶対に無理です。
特に老齢による各種障害が伴った場合の、「スイッチデバイド」は、『冗談抜きで』命に関わります。
電話がかけられれば上級、下手をすると居間の電気の切り方、ストーブの消し方も、記憶から消え去るからです。
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話を戻します。
私が父の車の環境を変えない為には、いっさいの装置に手を触れないことです。
つまり、
『人妻への思慕の念を大声で謡いあげる、変態の主張』
を、私は我慢して聞き続けなければならかったのです。
今回の選挙、私の観点は、
■TPP賛成
■消費税増税(福祉財源化)賛成 (消費税30%以上でも認容)
■憲法改正反対
■安楽死法案化支持
■アジア各国の労働者の積極的受け入れ(人口が3億人以上の増加でもOK)
■弱腰外交の継続
でした。
が、この全てに同意できる人は、相当少ないでしょうし、はっきりいって一人もいないのではないかと思います(ちょっと極論に過ぎると自分でも思う)。
おかげで、選挙の支持政党探しに、酷く苦労しました。
争点にすらなってもいないことも含んでいますからね。
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ただ、上記の観点についてですが、私はこれらを意地になって固執したいと思っている訳ではありません。
誰かに論理的に説得して貰えれば、いつでも180度意見を変えられる、優柔不断さ・・もとい、柔軟性、フィレキシビリティがあると思っています。
事実、私は、自分の持論をクルクル変えており、人生トータルすると、
―― 4回転ジャンプ
くらいは回っているかと思うのです。
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ただですね、逃げられない最前線の塹壕に放り込まれれば、自動的に自分の観点は決まります。本当に簡単です。
例えば「高齢者介護問題」。
今、日本の介護の体制は、この悪夢の財政難の状況下において、贔屓(ひいき)目なく見ても、かなり厚く、本当によくやっていると思っています。
間違いなく厚く、そして、それでもこの程度が限界なのです。
我々の世代は、普通にその辺の道ばたで、猫や犬の死骸のように、人間の死骸が放置される時代になる ―― これは、私の中では、かなり確信に近いです。
(毎度、私が言っていることですが)「自分で電卓叩いてみる」と、そういう未来しか見えてこないのですよ。私の計算ミスなら、本当に良いのですが。
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私は、道ばたで自分の屍(しかばね)が腐臭をさらしていることには、全然抵抗はありません。
しかし、「死」のフェーズで、文字通り「死ぬほど苦しむ」ことだけは勘弁してほしいのです。
例えば、24時間、胃カメラを飲まされているような地獄にあって、しかも死ぬことも許されないような拷問があったら、私は死んでしまう。
# ・・いや、そうじゃないんだが、こういう状態をどのように表現すれば良いか、分からん
いずれにしても、私は、誰に対しても、何に対しても、そんな拷問を受けるほど悪いことはしていないと思う。
法治国家や福祉国家という国家のメンツの為に、絶望の地獄の苦しみ続けられることだけは、ごめんなのですよ。
また、世界を一定の客観性をもって認知できない状態になって、閉じていく世界を見ながら生きている自分の存在にも耐えられないのです。
# が、そういう状態になった自分が、不幸かどうかは、正直よく分からないのですが
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死に向かう者の苦痛に呻く悲痛な声が、どの家からも普通に聞こえてくる時代が始まる。
だからせめて、人間が、自分の意志で、人間らしい最期が迎えられる社会の実現を。
―― と、思ってしまう訳です。
そういう視点から、最初の方を見て頂くと、上記の私の考え方の一端を理解頂けるのではないかと思っています。
ただ、今回の選挙で、私の戯言を叩き潰すに足る数値データを提示して、明るい未来を客観的に示してくれた立候補者は、一人もいなかったように思います。
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まあ、いずれにしても、こんな話は、誰からも同意して頂く必要もなく、こんな戯言は、私一人が勝手にほざいて、勝手に悲観して、自己完結していれば良いのです。
そして、これが、私の戯言になってくれるのであれば、
―― 本当に嬉しい