震災から1年を経過しても、私には1995年の阪神・淡路大震災の記憶の方が、今でも鮮明に残っている。
『何が違うんだろう』と今日一日考えていた。
私が朧げながらに思いついたことは
―― 映像ごときでは伝えられない
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壊滅した街の、風の流れ、冷たさ、空気の乾き方、街の匂い。
心底まで冷える地面、慟哭を現わさない無表情の顔。
数日を過ぎれば自分だけは逃げだせると思う安堵感とその嫌悪感。
僅かでもあれ、それを現実に感じれたか感じれなかったか、の違いであると思い至った。
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「映像」ごときで、分かった気になってたまるか。
「義援金」ごときで免罪符を買ったような気になってたまるか。
「絆」などという言葉遊びで満足してたまるものか。
「同情」して「涙」を流す程度のことで、自分を救済してなるものか。
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「試練」だと。笑わせるな。
不可逆な「死」に「試練」の要素が一欠片もあってたまるものか。
そんな理屈、私は絶対に認めない。
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私は理不尽な殺戮を気紛れに平然と行う、天を恨み、自然を憎む。
『やられたら、やりかえす』
今、その方法を考えているところだ。
http://www.kobore.net/tex/alone95/node3.html