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2011-01-10 「自分の人生を終わりにしたかった」に関する一考察(その2) [長年日記]

(昨日の続きです)

(Continuation from yesterday)

私達が理解に苦しむのは、

「自分の人生を終わりにしたかった」

という要望に対して、

「全然関係の無い第三者を殺傷する」

という必要性です。

# 「動機付け」といっても良いのかも。

「自分の人生を終わりにしたかった」に対しては、一定期間放置すれば、人生は終わるようにDNAにプログラムされています。

望ましいことではありませんが、自ら終了させることも可能です。(ここでは、自殺の法的責任については論じないものとします)

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例えば、

(1)「自分の人生を終わりにしたかった」→

(2)「ついては、人生を終わりにしなくてすむ者達が、そのまま人生を生きているのが不愉快であり理不尽に感じる。そこで、そのような者を、巻き添えにしてやりたいと思った」

と言う動機付けなら、我々は激怒しながらも、その身勝手な理屈に対して納得した上で、犯人を憎むことができます。

しかしですね。

(1)「自分の人生を終わりにしたかった」→

(2)「ついては、死刑になりたかった」

では、全然、理解できない訳です。

(1)と(2)の間を埋めるべき、私達が理解可能な理由付けが存在しないからです。

(続く)

(To be continued)