(Continuation from yesterday)
それでも、私は、このような「コンテンツ原理主義者」の気持ちが、分からない訳ではないのです。
On the other hand, I could understand the feeling of "contents fundamentalist" a little.
この「コンテンツ毀損」の私の経験として、真っ先に上げられるものとして、
In my experiments, I could pick up first
「『さよならジュピター』の映画化」
the movie version of "Bye-bye Jupiter"
があります。
私は映画館を出て、泣きましたよ ―― くやしくて、残念で。
After going out the movie theater, I cried with frustration and shame
だが、この作品を、どうしても映画化したかった、故 小松左京先生のお気持ちが、何よりも優先されることは、当時、ティーンエイジャであった、あの頃の私ですら理解できました。
However, the priority respect was the feeling of Komatsu Sakyou-sensei of blessed memory, who had wanted to make the movie. and I knew well that, even when I was a teenager.
もちろん、逆のパターンだってあります。
Of course, I had an opposite case.
「るろうに剣心」の実写化(映画)を、私は、ロンドンから日本に向かう飛行機の中で、たまたま(本当にたまたま)見たのですが ―― 本当に、びっくりしました。
When I was on the plane from London to Tokyo, I was really surprised to watch the movie "Rurouni-Kenshin" performed by actors.
これは、「るろうに剣心」であって「るろうに剣心」ではない、新しい(そして素晴しい)世界観の再構築である、と、感激しました。
I was moved that "this is, a new "Rurouni-Kenshin" is coming," and I thought a new wonderful world-view was generated.
つまり、
That means, from the viewpoint of
(1)クリエータ等が持つ権利の保護
(1)Protection of the creator's property right,
と、
and
(2)新しい世界観の発生の機会担保
(2)Opportunity of the new generated world-view.
という二つの観点から、私達、コンテンツ消費者ふぜいが、それを批判・非難することは、理不尽なのです。
it is an unreasonable action for us, just content consumers, to blame the creator's challenge toward a new contents styles.
むしろ、そのようなクリエータを、些細な力であっても支えて上げることのできる、「コンテンツ消費者」であるべきだ、と、私は思うのです。
If anything, I think that we must be good supporters for the creators, even if the support is trivial matter.
(To be continued)