2013-08-26の日記と、2013-08-28の日記を見比べて頂くと分かりますが、私は、全く同じ題材を使って、真逆の結論を導いています。
こういう文章ができてしまうと、「正しさ」というものは、あまり実体として意味がないような気がしてきます。
例えば、中国の学生達の「反日デモ」を見ていて、嫁さんや娘も憤慨していたりするのですが、私は家族に聞いてきました。
―― ねえ、仮にね、中国に生まれていて、中国で教育をされていて、あの若者と同じ年齢くらいだったとしたら、
―― 「自分があのデモ隊の中にはいなかった」、と言い切れる?
と、問うたことがあります。
嫁さんや娘達は『それは意味のない仮説だ』と、私の問いを即座に切り捨てました。
「だって、私達は日本人であり、今まさに、この時代に生きているのだから」と。
うん。私も、それでいいと思う。
そのような、無限の成立しうる仮説を前提に、自分の考え方を、いちいち検証していたら、何もできないし、何も主張できなくなります。
それは、分かってはいるのです。
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ちょっと話は、逸れるのですが、1960年、70年の安保闘争や学生運動の時代、「反米デモ」は、今の「反日デモ」の比ではなかったように思うのです。
しかも、日米安全保障条約は、「日本を守る」ことが表向きの目的だったのです(勿論、冷戦を背景として、米国の利益も非常に大きかったのですが)から。
あの時の、アメリカの人たちは、あの「反米デモ」をどのように見ていたんだろうなぁ、と最近、気になっています。
これを調べたら、「一本」書けないかなぁとも考えています。
それはさておき。
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私は、たまたま生まれた場所や、たまたま生まれた時代によって、左右される価値観で、本気で怒ったりすることを、「本気」ではできないのです。
それは、これまで、色々な本を それこそ ―― 左であれ右であれ、唯物論であれ唯心論であれ、宗教であれ哲学であれ、―― 読んできた結果、
つまるところ、私にとって「普遍的」「絶対的」なものを、私は見つけることができなかったからだ、と思っています。
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比して、「技術」というのは、絶対です。
動作が早いもの、価格が安いもの、多機能なもの、高性能なものが、
―― 絶対の正義です。
前提も、考察も、理念も、背景も、思いも、正義も、悪も、なにもかも無関係にすっとばして、必ず「正解」に辿りつくことができる、私が見る限り、現世における、絶対の真理です。
私がエンジニア(技術者)であり続けていることの理由の一つには、哲学的アポリアに心を砕くこともなく、世の中の矛盾と直面することもなく、世論に煩わされることもなく、日々を生きていけることにあります。
つまり、
「エンジニアは、生きていくのがラクチンな職業だ」
という面は、確かにあると思っています。