昨日の続きです。
我が国の最高法規である憲法に、「矛盾」があり「ねじれ」がある、というお話をしました。
「矛盾」や「ねじれ」を、それを「ない」状態にしようとすることを、私は、正面から批判することはできません。
でもね ―― と、私は思うのですよ。
日本国憲法は、「我が国の最高法規」であると同時に、「人類の考えうる究極の理想論」でもあるのだ、とか、
あるいは、「日本国憲法第9条は『夢と魔法の国』の話である」とか、「日本国民の共通理念であり、信仰である」とか、
―― それじゃ、ダメですか?
夢だっていいじゃないか。
世界中から嘲笑されたっていいじゃないか
と。
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「今さら、それを言うか!」「卑怯だぞ!!」
これまで、ロジックや法律論で、色々なコラムを寄稿し、反論を封殺してきた江端が、その論旨展開はないだろう、という罵声が、パソコンの前までにも聞こえてきそうです。
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でも、やっぱり、私は「日本国憲法」は、やっぱり「念仏」や「聖書」や「コーラン」であって欲しいと思う。
例えば、新約聖書(の、マルコ福音書)に出てくる、あの超有名で、未だに私には訳が分からないフレーズ
『神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)』
を、
「このフレーズを残したままでは、新約聖書の解釈の一貫性を欠く」
「山ほどの解釈があって、面倒だ」
「うん、そうだな。今後は、聖書から、このフレーズは削除しよう」
というくらいの「乱暴さ」を感じるのです。
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「詭弁だ!法律と宗教を一緒くたにするとは、お前こそ乱暴にも程があるぞ!!」
という声も聞こえてきました。
うん、うん。分かっています。
もう少しだけ、我慢して聞いて下さい。
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私は、これまで、一人旅をしてきたアジアの国々で、太平洋戦争中の日本軍による非道行為に関して、うんざりする程、非難(正確には「お前は、日本軍が何をやってきたか知っているか?」という質問を)されてきたのです。
正直、『文句なら、当時の日本人に言ってくれよ』とは思いました。
でも、その国の人達は、無茶ぶりを承知の上で、旅の途中にあった日本人の若者に、どうしても「それ」を伝えたかったのだ、ということは、本当によく分かりました。
その想いが、あまりに、強く、切なく、悲しすぎて、私にそのような発言をすることを躊躇させました。
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私は、以下のように応えていました。
「私自身は『申し訳ない』とは言えません。私はそこにいなかったからです」
「でも、我が国は法治国家の最高法規である憲法で『いかなる形においても、絶対に戦争をしない』ことを明文化しています」
「日本人は、絶対に、この憲法を未来永劫守っていくはずです」
「日本人が、この憲法を守り続けることで、私達日本人の過去の反省と未来の誠意を、どうか信じて貰えないでしょうか」
―― と言ってしまったのですよ。
そう。かなり、たくさんのアジアの人たちに。
だって、私にとって、日本国憲法とは「神聖にして犯されざる法典」と信じ、そして、それを全く疑ったことがなかったからです。
その「法典」の内容を、削除・変更することを、我が国の国民が「支持する時代がくる」など、予想もできなかったのです。
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―― 私は、やっぱり「嘘つき」になるのかなぁ
と思うと、切ない気持になります。
(続く)