先日、実家に帰省した時に、本棚にあった、高校の時に使っていた現代国語(以下「現国」という)の問題集を見つけました。
風呂の中に持ち込んで、2~3問、その問題を問いてみました。
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解けません。
全然分からないのです。
例えば、「下線部の『それ』は何を指しているのか10文字で答えよ」とか、「その時の作者の気持がもっとも強く表われた箇所を抜き出しなさい」とか、です。
皆さんも覚えがあると思います。
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それで、私、ようやく分かったのです。
現国の題材に使われる文章は、空前絶後の「悪文」である、と。
『よくもまあ、こんな分かりにくい文章を書くものだ。作者は恥しくないのかなぁ』と思ってしまいます。
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「下線部の『それ』は何を指しているのか」が試験の設問になるということは、「『それ』は何を指しているのか」が分からない人、つまり誤答する人が存在してくれないと、出題者としては困ります。
私なら『それ』が分かりにくいなら、『それ』とは記載せずに、何度でも同じフレーズを繰り返して記載します。
文章というのは、人に分かって貰うことを目的とするものであって、「謎解き」をするものではないのですから。
つまり、分かりにくい『それ』を平気で使っている作者は、「悪文」を書いていると思うのです。
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「その時の作者の気持がもっとも強く表われた箇所を抜き出しなさい」については、「そんなもん、作者でないと分かるか!」というのが正解です。
(しかし、「それを言っちゃあおしまいよ」なので、今回は敢えて触れません)
しかたがないので、一応解答の解説文を読むのですが、これが、全くストンと肚に落ちてこない。
そもそも、「作者の気持」が、こんな面倒くさい論理付けをしなければ説明できないのであれば、もはや、この設問の題材の文章は読むに当たらない「悪文」として確定してしまってもいいんじゃないでしょうか。
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もちろん、「文学」は、分かりやすく書くことを目的とする「テクニカルライティング」などとは、全く異なる世界の話なので、同じレベルで論じるのは間違っています。
しかし、訳の分からん文章を、一生懸命解読しながら読む時間があればら、私はその本をゴミ箱に捨てて、別の本を読みます。
実際に、今なお私は、読後3分で、その本をゴミ箱に直行させるということを、日常的に行っています。