中学1年と小学3年の二人の娘達の自由研究に、今年初めて、私は、
「一切、手を出さない」
という方針を、貫き通しました。
-----
理由は2つあります。
(1)研究のプロ(私のこと)の手を借りることなく、自力でどれくらいの研究を成し遂げうるかを、客観的に確認する為。
私は、これまでの夏の全てで、ずっと手を貸してきたので、彼女らの実力(研究力)を知らないのです。
(2)このまま手を貸し続けたら、恐しい未来が待っているから。
最近、大学生の親が、教授に対してクレームをしているそうです。
なんでも、「課題の内容が難しいので、もっと簡単にしてくれ」というクレームだそうです。
-----
何のことか分からないでしょう?
私も分からなかったんです。
娘や息子の大学のレポートを親が代筆していて、その親が、課題の内容が難しくて、レポートが作成できない、と文句を言っているのだそうです。
大学に合格する程度の学力はあっても、自分でレポートを構成する力がない。
で、親に泣きつく、という訳です。
これが冗談ではなく、そして、レアケースでもないらしい、ということに、私は、心底恐怖を覚えました。
このまま、私が自由研究に手を差し延べれば、間違いなく、「レポートすら構成できない人間を、二人作ってしまう」
と。
-----
レポートとは、
「起承転結の創作小説」であり、
「客観性を条件とした自己主張」であり、
「他人を説得する武器」です。
レポートも書けないような人間が、どの世界であれ、必要とされる訳がない。
少くとも私は、そんな奴、部下にはいらない。
-----
そのような訳で、今回は、私は全てオブザーバとなっていました。
求められれば、アドバイスはしましたが、レポートの構成を教えたり、実験の結論を誘導することは、止めました。
事実、次女の実験結果は、「エネルギー保存法則」に反しており、誤認に基づく結論となってしまったのですが、私は、敢えてそれを「看過」することにしました。
研究の結果よりは、今は、レポートを最後まで書き切る力を伸ばすことの方が、はるかに重要だ、と考えたからです。
-----
でも、嫁さんの顔色が悪い。
凄い憂鬱そうです。
研究の考察が、
「いろいろなことが分った」
「これからも、もっと色々な研究をやっていきたい」
では、無理もありません。
-----
嫁さん;『これって、考察と呼ぶものなの』
私:『うん、感想にすらなっていない』
嫁さんは、『書き直しさせる』と言っていました。