さて、旧約聖書には、世界最古の兄弟げんかであって、殺人事件に至ってしまった「カインのアベル殺し」の話が登場します。事件の概要は、以下の通りです。
(1)ある日2人はそれぞれの収穫物を神様にささげた。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子をささげた
(2)ところが、神様はアベルの供物に目を留めカインの供物は目を留めなかった
(3)ふてくされたカインは、アベルを野に誘い出し殺害する
(4)その後、神様からアベルの所在を尋ねられたカインは、神様に向かって『私の知ったことか』と言い放つ
この話については、「カインの礼儀がなっていなかった」とか「カインの収穫に至るプロセスに問題があった」など各種の解釈があるようです。私、実際に聖書を読んでみたことがあるのですが、『これ、どう考えたって、神様のマネジメント能力の欠如じゃないか』と思いました。クラスのガバナンスすらできない学校の教師を見るような能力の低さを感じました。
まあ、それにしても、アダムとイヴも、その子どものカインもアベルも、まったくこの家族ときたら、「喰うなと言われるもの(リンゴ)を喰い」「嫉妬で、簡単に弟を殺害する」という、目も当てられないほどの崩壊家庭です ―― この先祖にして、今の私たちあり、と納得できます。
私、これまで、『カルト宗教団体に所属していて、今は脱会している人の手記』を数多く読んできたのですが、その手記の中に「カインのアベル殺し」の話が頻繁に登場してくることに気が付きました。
そもそも、"つぼ"、"数珠"、"経書"、"高麗人参"を売りつける作業(修行?)は、普通に考えたって、楽しいものでないことは容易に想像できます。しかし、教団では、その売上額によって、教団への貢献度が評価される、らしいのです―― つまり、普通の会社のノルマと同じです。
つまり、信者とは、セールスマンであって、話術の長けた、魅力的な話や、あるいは、えげつない話を平気で語ることのできる ―― 先立たれた子どもや伴侶が「地獄で苦しんでいる」などの話で、恐怖と恫喝(どうかつ)で商品を売りつけることのできる ―― 信者が、信仰心の厚い信者として、教団内で出世していくわけです。
当然、カルト宗教団体の中でも、そういうことに長けていない人はいます。ノルマ未達で、叱責をされて、ふてくされる信者も出てくるそうです、『私はしょせん”カイン”であって、神様から愛されていないのです』とつぶやいて。
まあ、普通の会社なら、辞表をたたき付けて転職する、というアプローチが取れますが、『カルト宗教団体からの転宗』というのは、どういうものなのか分かりませんが、難しそうです。
カルト宗教団体では、この「カインのアベル殺し」のストーリーを使って、うまいこと信者を口説いているらしいです。つまり、いまくいかない信者は「神からの試練を受けている」というパラダイムに転換する訳です。つまり、「うまくいかないのは、神様に愛されているから」というロジックです。
まあ、これ、別に目新しいロジックではありません ―― 「お前を愛しているからこそ殴ってしまうのだ」とか言うDV夫や、「江端君はもっと上を目指せるからこそ厳しくしているのだ」と言い放つ上司と、別段変わるところはありません ―― はっきり言って、私ならバカ言ってんじゃねーぞと思いますが、カルト宗教団体の信者は、これをかなり真面目に受けとめているらしいです。
私は、統一教会の信者の人全部を知っている訳ではないのですが、基本的に、統一教会の信者の皆さんは”善人”だななぁ、と思っています。”素直”と言えば聞こえは言いですが”愚直”であるとも言えます。それに、宗教にとって教義は絶対ですから(加えて、統一教会の「原理」は、それなりに良くできている『物理学の教科書』のようで、反論しにくい内容になっていることも一因かもしれません)。
「神からの試練を受けている」と言われれば、信者は、その言葉に逆らうことはできません。「そんな神様、いらんわ」と言える人間なら、そもそもカルト宗教団体に入会するハズがないです(筆者のブログ)。それに、教団内では、結構えげつないマインドコントロールもあるようです(今回は言及しませんが)。
ある集団に属することになれば、誰であれ、必ずその集団の常識に染まります。それは、カルト宗教団体でも、学校でも、町内会でも、企業でも同じです ―― 問題は、そのマインドコンロールの内容が、社会的に認容される範囲内にあるかどうかの、一点です。