随分疲れていましたが、私はその日名古屋の実家に立ち寄り一泊することを連絡して おきました。実家では、家族全員が私の帰りを待っていました。私が被災地の状況を詳 しく話すと、今更ながらその惨状に声もないといった様子でした。
今回の地震では名古屋でも相当の揺れがあったそうで、地震後すぐにテレビをつけて
NHKを見ていたそうです。「地震の15分後で、NHKがヘリを飛ばしていたけど、
『まだ火災が発生した様子はありません』などと、のんきな放送をしていたぞ。」と言
っていました。初期報道の難しさと言うこともあるのでしょうが、この段階で倒壊した
家屋を正確に確認できていたら、もう少し救援方法も変わってきたのかもしれません。
「あんたがね、」と母は言いました。「『被災地に行って来ます。』と書いたファッ クスを送って来た時、どんなに嬉しかったか。」
母の生まれた所が今回最大の被災地となった神戸市長田区であることを、私は今回初 めて知りました。
「私もどうしたらいいのか良く分からなかったのだけど、あんたが被災地に行ってくれ たので、『これでいいわ』と思ってねえ。」
(そりゃ、どこかロジックが間違っていないかな?)と思いながらも、私は黙ってい
ましたが。
父が「空襲で名古屋の街が、本当に瓦礫だけの焼け野原になった時、『一体この街は
復興するのか?』とおもったけどな、それでもちゃんと復興したんだ。なんとかなるも
のだぞ。」と言います。
私は神戸が復興するか否かに関しては、あまり心配していません。多分大丈夫だろう と言う、根拠のない確信があります。と言うか、私はそんなマクロな視点には興味がな いのです。私が心配で心配で仕方がないのは、食料のないテント暮らしを余儀なくされ ている避難所の人達のことなのです。
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次の日、私は和田さんと約束してた「生卵300個」を買いに出かけました。姉に自 動車を貸して貰い、適当なスーパーマーケットで10個入りパックを30個買ったので すが、これが段ボール2箱にもなるとは計算外でした。運送の途中で生卵が割れないよ うに、新聞紙でクッションを作り、なんとか箱詰めをしました。
この物資を「神戸市」宛に送ったら、どこに届けられるか全然保証できず、最も効率
よく届けられるか保証できないことは既に述べました。ですから、私は『個人的な流通
経路』を使うことにしたのです。
まず私は、被災地から比較的近くでボランティアをしている方のお家の住所を教えて もらい、宅配便を使って物資を送ります。このお宅は、和田さんの知り合いの方のお家 で、被災地の外にあるので、物資を滞り無く送ることができます。和田さんは物資の到 着を確認すると、そのお宅まで物資を取りに出かける訳です。ボランティアがここまで しなくては、ろくな炊き出しもできないと言う事実は、大変問題だとおもいます。
ともあれ、こうして私は「生卵300個」を無事に被災地に届け、昼過ぎに新幹線に
乗って美しが丘寮に帰って来ました。
慌ただしく過ぎ去った3日間でしたが、肉体的には勿論、精神的にも相当疲れた、と 言うのが私の本音です。