私と同じくらいの年齢の得体の知れないお兄さん、それに男子大学生3人、そして私 は、和田さんの指揮下で、300人分のお粥の炊き出しを行う為に準備を始めました。 福祉センタから、大鍋3つとその他必要な食器を持ち出し、公園で薪を盛大に燃やし始 めます。私は市森さん(元105U)直伝の「北米インディアン方式」で、一発着火に 成功。大学生からの尊敬を勝ち得ます。
私達が着々と準備を進めていると、通りがかりの人達が集まって来て何をしているの か聞いて行くので、その度に事情を説明せねばなりませんでした。
私はこの時、聞き間違えたのだと思いました。
マスコミは大きな避難所にしか回らず、そこのことだけを取材して「食料は十分にあ ります。」などと放送してしまうので、結果としてさらに食料事情が悪くなってしまっ ているとのこと。和田さんは勿論、朝日ボランティアのスタッフが事あるごとにくり返 しつぶやいていたことでした。本当に怒っておられた様子です。
また、この避難所にはやく300人の人がいるのですが、全員に食べ物が渡るだけの
量がないと、供給できないのだそうです。もし一部の人だけに食べ物がいけば、騒乱状
態になるのだそうです。『そんな大袈裟な・・』と思った私でしたが、やがて私の方が
間違っていた事を思い知る事になります。
午前11時。3つの大鍋にはそれぞれ100リットルのお粥がぐつぐつ煮立って来ま した。私は鍋の底が焦げ付かないように、大きなしゃもじで鍋の中のお粥を回し続けて いました。
お塩を入れながら、味を調節する為に少し取って食べているとことを見られたのが良 くなかったのかもしれません。公園のおじいさんやおばあさん達が集まって来て、「も う食べれるのか」「まだ駄目なのか」と私達に迫って来ます。別の団体がおかずの炊き 出しをしているので、同時に出そうと目論んでいたので、「もう少しでできます!もう 少し待ってください!!」と叫んでいたのですが、一人のおじいさんが勝手にお粥をよ そって持っていってしまったので、私は『おたま』を持って姿をくらますことまでしな ければならなかったのです。
嘘みたいな話ですが本当です。
いつの間にか、3つの大鍋の前には長い列ができて、皆が待っています。私達は気ま ずい時間を我慢しながらGOサインが出るのを待っていました。そして、始めるように指 示が出た、私達は一斉に鍋を開けてプラスチック製の丼に溢れんばかりのお粥をついで は、並んでいる人達に渡し始めました。
その途中で、つい私は丼を渡す人を間違えたのですが、「あんたぁ!なんちゅうこと すんねん!!」ととてもすさまじい勢いで怒られてしまいました。その怒り方はほとん ど悲鳴に近いものだったので、背筋に寒いものが走ったのを覚えています。
ほぼ、全員に行き渡ったところで、丁度鍋も底を尽き、私達はほっとしていました。
(もし、何十人も残ったままお粥が無くなってしまっていたら・・・)と考えるだけで
、さっきの悲鳴の声が何十にも重なって聞こえてくるようでした。あたりまえのことで
すが、食料は生命そのものなのです。
出遅てやって来たお婆さんが、とても残念そうにしているのを見て、私達全員は3 つの鍋の底をしゃもじで擦って、米の一粒足りとも逃すまい!と言う迫力でお粥を取り 出しました。ようやく集まったそれは、高々コップ一杯分の糊のようになったおこげの 集まりでしたが、それでもおばあさんは美味しそうに食べて、私達に御礼を言ってくれ ました。
私はおばあさんの顔を見ることができなくなり、思わず顔を横に向けてしま
いました。
「だから、食料を送ってくれるなら300人分ないと駄目なの。」と言う和田さんに 、次に行う炊き出しの食料として、お粥に入れる卵300個を個人的に贈る事を約束し ました。