上海から南京を経由して西安に向かう中国大陸鉄道の列車の中で、私は一人でぽけー っと外の風景を眺めていました。一面に続く砂漠の草原の中にある大きな河は、もう一 時間前から列車の線路に添って、変わらぬ風景を見せ続けていました。
悠久に流れる果てしなく大きい湖のような河を見ながら、色々と揺れていた私の気持
ちが少しずつ、一カ所に集まりつつあるのを感じました。
(そろそろ引き際・・かな。)
春が来る気配を少しずつ感じさせながらも、まだまだ寒かった大学2年の3月上旬の ことです。
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たった一回だけ大学のデモにまで出陣した私は、これまた一度だけでしたけど、S寮
寮長として拡声器で道行く学生達にアジテーションをしたこともあります。
江端 :「大学当局はぁ、このような巨大なコンピュータシステムをぉ、関西学研都市
構想におけるシンクタンクとして機能させぇ、学生達の主体的運動を抹殺せ
んと画策しているのでありま〜〜す!!」
その他:「よーし!!」「異議な〜し!!」
なお、このコンピュータは、あの使いにくさをほこるh立の大型コンピュータでした
が、h立社のコンピュータに限らず、この地球上に『学生達の主体的な運動を抹殺する
』ような機能を持つコンピュータなどありはしません。勘違いも甚だしい。なにしろ、
コンピュータを研究している私が言うのだから間違いありません。
まあ、このようにハイテク関係では、かなり勉強不足のところも多くありましたが、
社会的な問題意識を人一倍持ち、寮生同志で深夜に渡る激論を繰り広げたり、実践的運
動に励んだりしているうちに、心ならずも2年生の後半には寮長に就任させられてしま
うことになります。
そして皮肉なことにも、この寮長就任こそが、私にS寮を出ていく事を決意させる きっかけとなるのです。
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寮長就任後、私はこれまでのS寮の方針を根幹から変えてしまうような、まさに革命
的な方針を、気づかれないように密かに打ち出します。
それは「大学当局との話し合いの再開」です。
私は1969年以来20年近くにも渡って続けられてきた、大学当局との不毛な闘争 にピリオドを打ちたいと考えました。理論による正しさを押し進めるのではなくて、現 実の話に合った具体的な方法で、当局との関係を改善して行く必要があると考えたので す。
それに、私は現在のS寮の存在がかなり危ういものではないかと心配だったのです。 それは「S寮は大学の施設である」と言うことです。
つまり、大学が「S寮を取り壊すよ。」と言われたら、私たちはもう終わりなのです。 大学当局を激しく非難しているとは言え、物理的な攻撃を加えられたら、どうしようも ありません。
例えば、電気水道を止められたり、食堂の職員を引き上げられたら、私たちの生活の 基盤が壊れてしまいます。
「学生の生存を脅かすのか!!」とか、「我々の主体的な学習施設を破壊するのか! !」とか、色々言えるとしても、当局が本当にやる気になれば今なら簡単にできるので す。勿論ストライキとが、寮に居座って徹底的に闘争を続けることはできます。が、そ れは恐らく効果を果たさないでしょう。
なぜなら、寮生は全学生と比べてみれば明らかなように圧倒的にその人数が少なく、 しかも寮の活動はほとんど理解されていませんでしたから。寮生が、いわゆるあの学生 運動の衣装でアジテーションしたりビラを配ったりしたりしても、多くの学生は素通り です。だれもその話を聞こうとすらしないのです。
私はすこしずつですが、S寮が存続できているのは「学生による大衆的な支援」どこ ろか「大学当局のお情け」だからじゃないかと思わざるを得なくなってきました。S寮 が廃寮の危機に陥ったとしても、恐らく大衆運動には発展しないような気がしてきまし た。
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なぜ私がこのように思うようになってきたかと聞かれれば、たまたま私が理系の学生
だったからだと思います。
理系の学生が文系の学生と決定的に違うところがあるとすれば、それは「実験レポー 」ではないかと思います。どんなに試験前に勉強しようと、良い点を取ろうと、親の仇 のように単位を取ろうと、それだけでは決して卒業はできないのです。
週2回以上の8時間にも及ぶ実験は、その数倍以上のレポート作成時間を必要としま した。また不十分な考察をしているレポートを提出しようものなら、たちまち『再提出 』の判が押されて突っ返されます。私たちは、常に複雑な計算を必要とするための電卓 やポケットコンピュータが手放せませんでした。
しかしそれ以上に絶対的に重要不可欠なものがありました。
仲間です。
膨大な時間、複雑な計算、理論的な考察。立ちはだかる諸問題をたった一人で解決す る事など、はなっから不可能なのです。私たちの学問は、甘っちょろい友情ではなく、 鉄のパートナーシップが大前提となっていたのです。
コンピュータが得意な者は、コンピュータセンタに入り浸り、仲間の分まで計算を出 してくれます。考察が得意な者は、実験装置の不備から、誤差が発生した原因を指摘し てくれます。時間のある者は、図書館に走りコピーを取ってきてくれます。レポート提 出日にの早朝、空が白々と明るくなってきても、お互いの下宿や自宅で電話が鳴り響き 、実験データの検証作業が続きました。
全ての行動は自分のためであると同時に、他人の為になっていたのです。そこには、
「強い者が弱い者を助ける」と言う古より多くの賢者達が実践を試み、ついに成功する
ことのなかった理想の共同体がありました。
そんなわけで、私はデモやアジテーションをする仲間と共に暮らすと言う非常に特殊 な立場にいながら、同時に平均的学生生活にどっぷりと浸ると言う、誠にご都合的な状 態にいることが出来たのです。ですから、S寮に対する意識や、学生運動に対する学生 の生の声を仲間達から直接聞くことも出来たのです。
で、それをまとめるとこんな感じでした。
『S寮は共産党の支部で、革命を目指している学生が集まっている。ときどき立て看板
やアジをやって、政治的非難をしていて、皇居を爆破しようとしたりサミットの要人を
暗殺しようとしている。ところで江端も共産党員なの?』
こ・・こりゃだめだ。と地面に這い蹲ってしまいそうなほどガックリきた私は、もは やどこからどう訂正をしたものやら判らず、座り込んでしまいました。
『大学当局が、学生を無視して何かをやらかすことを批判しているだけだよ』とすら言
う気力もなくなっていました。
こうして活動的な学生とそうでない学生との間には、すさまじいまでのギャップが発
生していたのです。
「政治的無関心のプチブルめ!」と「時代錯誤の運動家野郎が!」
てな感じでしょうか。活動的な学生は、まさに「活動」に忙しく講義にも出ないで、留
年なんぞは当たり前と言う感じで、ますます「普通」の学生から離れて行きます。「同
じ入学年度の同じ学部の同じ学科の人間と、話をしたことがない」と言う寮の先輩もい
ましたが、なんとも不気味な状態です。
このように同胞から離れたところで、どんなに同胞のために闘っていたって、支持を 得ることが出来るわけがないのは自明です。何と言っても今は1969年ではないので すから。
しかし、そこのところが寮の長老達、と言っても3、4、5・・年生ですが、彼らに
は全く判っていなかったように思えます。
寮長に就任した私は、小さいことから徐々に初めて行こうと思いました。
『圧倒的階級的怒りをもってして、同志諸君の鉄の意志を大学当局へぶつけろ!来たれ 学生大会へ!!』と言うビラは、『私たちが我慢の出来ないことを、みんなで一緒にな って大学の当局へ要求しましょう。学生大会は○月×日です。』と言う感じに変えて見 たり、従来いかめかしい文句で書かれていた立て看板を、イラストを入れてみたりする ように提案しました。
なによりあの学生運動独特のかっこうをやめて、普通のシャツにジーパン、頭髪もす っきり短くして、なるべく分かりやすい言葉のアジテーションや、ワープロやパソコン などのメカを利用し、過去の因習であるゲバ字(あの立て看板によくある字の角が強調 された文字)を排除し、作業の効率化を図ろうとしました。
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さて、ところがこの改革、そんなにすんなりとは行かなかったのです。
最初のうちは、寮を活性化するための私の小さな工夫の数々を、目を細めるように慈
悲の笑顔で見守っていた長老派たちも、どうやら江端は形式的な改革に留まらず本質的
な改革を目指していると気がついて、私に対して本格的な攻撃が加えられるようになり
ます。
これまで寮を運営してきた、いわば職業的運動家たる長老派は「一般学生に媚びを売 る行為だ。」と私のやり方に非難を始めました。
私はキョトンとしてしまいました。
まさに『それ』が目的だったからです。理解して貰うためには、しかも正しく現状を 理解して貰うためには、それが媚びであろうが何であろうがやることはやる!!、と言 う気持ちでしたから。なぜならその過程を抜きにして、S寮が多くの学生の支持を得ら れる訳あろうはずがないと考えたからです。
長老派の言い分は、「学生の意識を覚醒することは、学生に媚びることではない。」
と言うものでした。つまり、私たちの意識は私たちが従来やってきた手段にも反映され
ているはずだ。だから従来通りの手法で情報宣伝活動(情宣)を行い、極めて高い意識
を持っている小数の学生によって、寮が継続されて行けばよい、と。
私は唖然としました。
アホか・・。
こいつらは自分達を特別な何かと勘違いしている、と私は思わずにはいられません
でした。社会的な問題を持っている者だけが偉いのだと言うしょうもない特権意識を
感じて、私は実に不愉快でした。 大体S寮の置かれている極めて危機的な状況も判っ
ていないようでした。外から自分達を見れない者達が、必ず陥る落とし穴に落ちてい
ました。
いわんや、「大学当局との話し合いの再開」に関しては、もはや私と長老派の決裂は 明らかでした。
『理論的な正義が先ず先にある。』と言う長老と『時代と共に価値は推移する。きれ いごとで全てが片ずくものか。』と主張する私は真っ向から激突。寮会議や様々な場所 で激論が展開されました。
最後の方では、私もかなり腹が立ってきました。
「では、孤立して、自ら自滅してみるか!?」と叫びたくなったものです。
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最終的に、信頼できる友人と思っていた前寮長のTが長老派に寝返り、私の敗北が濃 厚となった頃、前々から予定していた中国への旅の期日が近づいていました。
寮長としての最も重要な仕事である、「自治入寮選考」は、丁度、私が中国から返っ
て来る二日後に予定されていました。私は迷いましたが、今後の自分の身の振り方を考
える為にも、敢えて中国の旅に出ることにしました。
大陸鉄道から丸まる三日間、広大な大地をぼーっと見ながらひたすら考え続けていま した。
「私が一番やりたかったことは一体何だったのだろう」と。
嬉しかったのは、合格通知が届けられた日。
腹いっぱいに、電気の勉強ができると言う想いでした。勉強は難しく苦しいものでした
けど楽しかったし、仲間は親切で良い奴ばかりでした。工学部の先輩から2万円で貰っ
たパソコンで計算したトランジスタ回路の数値が、実験結果と合致したときの喜びは、
その後の喜びを全部足し算しても及び付かない程でした。
では、S寮はどうだったろうか。
S寮は様々な社会的な問題を私に与えてくれました。
自分の尊厳を傷つけるものには、命をかけて抵抗をしなければならないと教えてくれま
した。
しかし、それを『解決する方法』においては、どうだったのだろう。 20年もの間変わることなく、同じことをやってきて、時代の移り変わりに全く順応し ていませんでした。
そして、私はそれを変えたかったのですが、力及ばず、ついに変えることがことが出 来なかったようです。
もはやS寮から学ぶことはない、あとは一人で実践的に獲得して行くしかないようだ
と、揺れていた私の気持ちが、少しずつ集まって行きました。
私は蘭州から電報を打ちました。
『帰国を延期する。入寮選考には間に合わないので、入寮選考委員でよろしくやってく
れ。帰国後然るべき責任は取る。』
こうして2週間の旅は3週間に伸び、私は広大な中国大陸を一人さまよっていたので した。
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帰国後、しばらく名古屋の実家に帰り、退寮総括の準備をしていました。退寮総括と
は、寮生が退寮するときの手続きであり、寮生全員一致の賛成が得られないときは、寮
を去ることが出来ません。この様な手続きが出来ない人は、「脱寮」と言って、夜中に
ひっそりと荷物を運んで逃げ出したりしていましたけど。
私は退寮総括を以下ように締めくくりました。
最後にTを殴っておこうかなとも思ったのですが、止めておくことにしました。
その後、寮の後輩が引っ越し先のアパートに来ては、色々と相談を持ちかけてきまし た。私の手際のよい退寮の仕方に嘆した彼らは、どうすれあんなに後腐れなく退寮出来 るのかをしつこく尋ねるのでした。
そんな訳で、私は「退寮コンサルタント」として、退寮後もしばらくS寮と係わらざ るを得なかったのです。
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そして、大学3年から大学院を卒業するまでの4年間、私は岩倉のアパートで、まさ に水を得た魚のように、勉強、読書、実験に明け暮れ、水素爆弾を作るまでに至る、 いわゆる「大暴走の4年間」を送ることになります。
その後、入寮希望者は減り、寮を離れていく学生も多くなり、寮の存続がかなり危ぶ
まれていたのは事実のようです。
しかし、私にはもう関心がありませんでした。
私は、目の前に広がる電子工学の勉強に夢中になっていましたから。
『このガウス!この野郎!!任意の閉曲面に対する積分と全体積の積分が等価だなんて
、こいつ、いいところに気がついてやがるぜ!!ガウスの定理なんて名前まで貰いやが
って!!憎いね。』
古の偉人たちには大変申し訳なかったのですが、まあこんな感じで感動しながら勉強 していました。
結果的に、退寮と同時に、私は学生運動への興味を失ってしまったようです。
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それからしばらくして、フランスでは、現体制を崩壊させかねない大規模な学生デモ が展開されました。
学生に対する不当な政府の命令に怒った学生達は、誰が言い出すでもなくあっという 間に学生達による大衆的なデモに展開して、政府を恐怖のどん底に陥れます。そして政 府が学生達の要求を受け入れるや否や、あっという間に学生達は解散して平常な状態に 戻ったと聞きます。
私は下宿のテレビの前で、寝転がりながら一人このニュースを見ていました。
そして、テレビのスイッチを切って、しばらく天井をじっと見つめていた私は、しばら
忘れていた苦いものがこみ上げてくるのを押さえきれませんでした。
(しかし、何時になったら私の国の学生たちや、かつて学生だった者たちは、『人間ら
しく生きること』を真剣に考え出すのだろう)と私はそれを繰り返し繰り返し呟いてい
ました。
そして、その夜、私はウイスキーを浴びるほど呑み、ろれつの回らない口調で、訳の 判らないことをわめきちらし、そのまま床の上で眠ってしまいました。