昨日、嫁さんに、今回の技術コラムの話をしました。
そこで、いわゆる「薄い本」の話にも言及しました。
嫁さんは、「汚い物を見る」ように私を見て(なぜ私?)、私に問いかけました。
―― その「薄い本」なるものを、(あなたが)守るべき価値があるの?
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実は、私には、「薄い本」を守るべき価値があると考えています。
それは、「薄い本」を、表現を制限する側に立つ者達からの「弾圧の標的」としておく為です。
「薄い本」を、橋頭堡(きょうとほ)としておくことで、私の著作の表現の自由を、間接的に守る、と。
一番攻撃されやすい所を死守することで、私の創作活動を担保する。
うん。いつもながら思うが、我ながら清々しい程の「卑劣さ」だ。
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しかし、私は、公には上記の本音は言わず、以下のように語る奴です。
■表現の自由は、創作という能力を与えられた人間固有の財産である。
■価値観は時代や歴史とともに推移し、現在は唾棄すべき表現の一態様で あったとしても、未来には優れた価値として認められ得ることもある。
■始皇帝、ナチスドイツ、そして広義の意味では戦前の日本の官憲の、い わゆる「焚書坑儒」が、貴重な文化の連続性を破壊してきたのは事実である。
■表現が公序良俗、教育の観点から問題があるのであれば、流通経路に対 して制限を加えるべきであり、創作そのもの制限するのは誤っている。
とまあ、このように、それらしいことを、もっともらしく言うことはできるんですが、 それを、本気で信じている訳ではないのです。
『私に関係のない文化がどうなろうが、知ったことか』が、私の基本スタンスです。
と言いながら、私には、「それでも、人間が創り出したものならば、守らなければならない」という、強烈な「すりこみ」があるのも事実なのです。
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私が、「文化の徹底的な破壊」を魂のレベルで実感したのは、20代の中国大陸の一人旅でした。
―― (仏教を含めて)宗教遺産の美術品が、ほとんど破壊され尽している
10代から、一人旅の寺社巡りをしていた私には、かなり衝撃でした
「一体、何をしに中国大陸まできたのやら」という気持でした。
理由は明快です。
人生の晩年でとち狂った、あの阿呆のやらかした「文化大革命(文革)」というやつです。
「文革」の最中、仏教美術品、仏教建造物は、「薄い本」に匹敵する程、いや多分、それ以上に為政者と(それに洗脳された民衆にとって)、唾棄すべき、許されざる、人類最大の汚点の創作物、と考えられていた訳です。
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「薄い本」と「文革」。
どう考えたって、この2つは無関係で、論理付け不可能な独立した事象です。
ただ、私はそういう理由を越えて、「人間の創作物を破壊し尽くす」という、考えや行為が、全ての理屈を越えて、
―― 怖い
のです。