小学生の3年の頃だったと思います。
私が国語で66点の点数を取って帰って来た時、母親に凄まじい勢いで叱られ、玄関の外に引きずり出されたことがあります。
平均点という観念がなかった私の母親は、『テストというものは、大体80点位で、よく勉強すれば100点を取れるもの』という前提(というか思い込み)があったのだと思います。
66点は、クラスの最高点でした。
子供心に「無知は迷惑」と思ったものです。
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私達が、義務教育課程にあったころ(多分今でもそうだと思うが)偏差値教育批判がありました。
私は、一貫して、
『何をバカなことを言っていやがる』
と思ってきましたし、これからもこの考えは変えないと思います。
偏差値くらい物事の正確に把握させてくれる道具はありませんし、これほどに公平な指標はないのではないかと思います。
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「偏差値」を非難する人は、人生で一度も偏差値を理解しようとしたことがなく、たった一度の計算もやったことがないのではないかと疑っています。
偏差値を非難する人は、クラス40人のなかで100点が35人いる場合の95点を取ることと、50点が35人いる場合の95点の優劣も区別できていないのではないかと邪推しています。
なるほど平均点が違うので、後者の95点の方が価値があるとは判ります。
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では、一つの例を。
クラス10人で2つのテストを行いました。
これをテストAとテストBといいます。
テストAの結果は、52、44、65、86、19、39、89、79、36、91点となり、
テストBの結果は、51、43、65、76、53、59、65、59、58、71点となりました。
テストAで65点とった人と、テストBで65点を取った人は、どっちが優秀でしょうか。
ちなみにどちらも平均点は60点になります。
これを、『平均値が同じだから両方の65点は同じ価値だ』とか言う阿呆がいるから、偏差値が必要なんです。
詳しいことは割愛しますが、テストAの偏差(ばらつき)は約25点で、テストBは9点です。
テストBの方の65点が圧倒的に優秀であることは・・
え?・・、分からない?
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じゃあ、
57、58、59、60、61、62、63、64、65、66点の中の65点と
10、20、30、40、50、60、70、80、90、100点中の65点
なら判りますか。
上の列の65点はトップクラスになりますが、下の列の65点は、平均<よりちょっと良いくらいの成績です。
偏差値とは、母集団の性質を反映した上で正しい結果を教えてくれる、人類が生み出した至宝の計算方式です。
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偏差値の凄い所は、時間的にも普遍性を持っている点です。
「偏差値60の学校」という言い方は、その入学の難しさ語るにおいて100年後であっても同じように使えるという点にあります。
その時代の教育水準や環境によって、母集団の傾向が変動したとしても、その母集団の一人にとって、その学校に入学することの難しさは、絶対的かつ普遍的に「偏差値60の難しさ」なのです。
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「個性」だの「感性」だのという指標は、個人の主観に基づく不確かな基準であり、嘘のまじる余地が満載であると思います。
しかし、偏差値の持つ「冷酷なまでの公平性」は、このような「あいまいさ」を排して、評価するという点で圧倒的に優れています。
「個性や人柄や将来可能性などの主観的な要因を徹底的に排して、ただ『学力』だけを基準とする」という潔さがあり、そこには審美性すら感じます。
偏差値が良くないというのであれば、代替の手段を提示して貰えれば良いのですが、そういうものもなく、ただ反対という点に、偏差値反対を叫ぶ人の『無知性』を感じてしまうのです。
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私は大学生時代に、PC-8001Mk2というパソコンを使って、自分でプログラミングして、学習塾の生徒の成績を管理していました。 たった5人の学習塾のクラスでも、偏差値を算出していました。
# エクセルとかのスプレッドシートは、まだ存在しない時代の話です。
# まだ「ロータス1-2-3」もなかった。
稚拙とはいえ、統計計算パッケージとデータベースを自作していたのです。
あの、滅茶苦茶に記述しにくいBASIC言語で。
統計とプログラミングに興味があり、それなりに時間を自由にできた時代の話とはいえ、よくやっていたものだと思います。