午後3時30分になる。
着なれない黒の礼服と白のネクタイ、スリーピースに繕って右のポケットに差し込ん でいる白いハンカチが、少しだけ見えるように胸に手をやる。
スタンドマイクは心持ち低くセッティングされているので、下を眺めているような姿 勢になってしまう。
Mさんが入口の辺りでちらとドアの外を眺めた後、ひとまわり大きな真っ白いハンカ チを上下に大きく振り、壇上の私に目線で合図をする。
会場の照明がふっと落ちる。
私は小さくうなずいて、ふうっと一つ息を吐く。
ゆっくり、大きな声でしゃべるんだぞ、と自分で言い聞かせ、大きく息を吸い込む。
そして、いつもより1オクターブは高い声で一気にしゃべりだした。
「大変長らくお待たせいたしました。ただ今より新郎新婦のご入場でございます。どう
ぞ盛大な拍手でお迎え下さい。」
ドアがゆっくり開いて、薄暗がりの中で2つの人影が前方に進んでくる。
二つの影ががドアをゆっくりと通り抜けて会場に入ってきたとき、スポットライトの 光が新郎新婦の右側から絞りを開くようにゆっくりと二人の姿を照らし出す。
盛大な拍手とワーグナーの結婚行進曲が会場を浸す。
二人は十数秒ほどそこに立ち続けた後、一緒に深々とゆっくりとおじぎをする。
会場はひときわ大きな拍手に包まれる。
そして美しい新婦を携えゆっくりと、しかししっかりと歩いている古田さんは、本当 に凛々しい立派な花婿であった。
とても嬉しいような、それでいてどこか寂しいようなそんな気持ちで会場の拍手を促
している私であった。
「大変長らくお待たせいたしました。ただ今から古田家、西村家ご両家の結婚披露宴 を開催させて頂きます。」
私は、男性としては珍しく高音域の通りの良い声をしていると言われている。また地 声も大きいので、私がしゃべり出すとみんながちょっとびっくりしたようにこちらを見 るのを感じることができる。
「本日この良き日に当たりまして、司会を仰せつかりました私は、新郎の大学時代の 友人で江端と申します。この度のお祝いの司会という大役を仰せつかり大変光栄に思っ ています。」
ちょっと、息を入れて、
「何かと不慣れなため、お聞き苦しい点があるかとは存じますが、この度の御慶事に 免じまして、何卒御勘弁下さい。」
媒酌人の紹介と挨拶を促している頃には、すっかりと落ちついて、自分のしゃべって いるペースが随分速くなっているのにも気がついていた。
会場は物音もなく、静かであった。司会者より出席者の方がずっと緊張しているよう に見える。
「ご披露宴に先立ちまして、ご媒酌の労をおとり頂きました・・・」と、媒酌人を紹 介する。
披露宴における媒酌人の最大の仕事は、あらかじめ用意してあった原稿を広げて、新 郎と新婦の様々な情報を、披露宴に集まった人たちに述べることである。勿論、私は あらかじめ新郎からそのような情報は貰って知っていたが、改めて媒酌人の台詞を聞 いていると、本当に二人とも立派な経歴の持ち主で、私はうらやましくなってしまう。
なにしろ、新郎の卒論テーマが『磁場解析』で、新婦の卒論テーマは『遺伝子工学』 ときたものである。人生を大切に生きてきた人たちの真価は、こういう時に威力を発 揮するもんだと、しみじみと思えたものである。
引き続いて来賓の挨拶である。新郎側と新婦側から一人づつ挨拶が行われる。これは
、新郎と新婦の職場紹介といったところである。
さて、いよいよウエディングケーキのカットである。私の緊張もクライマックスに達
する。
会場の照明がゆっくり落ちていく。
「ただ今から、新郎新婦のお二人によりまして、ウエディングケーキにナイフを入れ て頂きます。」と言うと同時に、音楽が静かに流れ出す。
二人が立ち上がってケーキに近づくのを見計らって、私はアナウンスをする。
「お二人が、これからの人生を力をあわせて進んで行く誓いの儀式でございます。カ メラをお持ちの方はどうぞご用意下さい。お二人がナイフにケーキを入れましたら、皆 様どうぞ盛大な拍手をお願いいたします。」
さあ、私が事前のシミュレーションで最も悩んだ場面がやってきた。
ケーキにナイフを入れる状況をアナウンスした方が良いのか否か。
私は背伸びするように二人が持っているナイフの切っ先を探し続け、気がつかない間 に訳の分からないアナウンスをしていたようである。
「ただ今、ウエディングケーキにナイフが入ろうとしています。あ、ただ今お二人に よって、入りました。おめでとうございます。」
カメラのフラッシュの嵐の中で、動くことの出来ない二人。一生の内の半分以上のフ
ラッシュを、この一瞬に浴びているんだなあと思うと、なんとも感慨深いものがある。
その後、出席者全員による乾杯を行って、式の前半が終了した。