12月最初の土曜日、第3京浜から用賀を経て首都高速に入ったところで 、私は助手席に座っている彼女に地図を渡して言いました。
『新宿インターで下りたいんだ。現在地は用賀を入ってところだから、渋 谷方面に向かって地図で追いかけて。』
彼女は黙って地図を受け取るとしばらく地図を見ていましたが、数分後、 私がしゃべっていても相槌を打たなくなり、そのまま黙りこくってしまいま した。
不審に思った私が、『どうかした?』と彼女に問いかけると、彼女は、う
つろな目をしてぐったりした顔を上げて、一言言いました。
『・・・酔った。』
---------
私が、日本で初めて開発された頃からずっと興味を持っていたアイテム、 『カーナビゲーションシステム』−−『カーナビ』とは、自動車に搭載した 小型のテレビに、常に自分の車の位置とその周辺地図が表示される装置のこ とです。GPS(Global Positioning System)と言う装置が、アメリカの軍 事衛星から飛んでくる電波をキャッチし、その衛星の位置情報から自分の車 の位置(緯度・経度・高度)を割り出します。
しかし、電波の伝搬状況が悪い時や、トンネルなど電波の届かない時には
GPSが正常に作動しません。そこで最近、カーナビはGPSに加え、『ジ
ャイロ』と言う装置を併用しています。ジャイロは自分の車の速度や、加速
度を計算して、GPSが作動しないときも自律的に自分の車の位置を計算し
ますので、『自律走法装置』とも呼ばれます。
私がカーナビに興味を持っていた理由は、次のエピソードを読んでいただ ければ明らかです。
私が学生の頃、父と母が私の京都の下宿に遊びに来ました。この時、父の
運転する自動車の助手席に座って、私は京都を案内していました。
そうこうしている内に、父は『京都は一体どうなっているんだ!』と当た り散らすようになります。
私は私で、バイクでツーリングしていた時などは、目的地を数十キロも外
れて走り続けるなど日常茶飯事でしたし、雪崩で封鎖された山道に迷い込み
日没までに脱出できなかったら、間違いなく凍死していたと思われること
もありました。
つまり江端家の一族は、酷い『方向音痴』だったのです。
---------
現在のところ、カーナビは決して安い買い物ではありません。カーナビを 買うつもりになれば、パソコンが一台買えてしまうくらいです。また、数年も立たない 内にカーナビの機能はますます充実し、コストが下がる ことは確実です。ハイテクアイテムの『先物買いをすれば、絶対損をする』 と言う原則は、今なお健在です。
ですが、私はこういうハイテクアイテムが大好きなのです。
中山・ド・エルカンターレに言わせて曰く『江端、貴様、またこのような
小市民アイテムに走りよって!』と非難されるわけですが、こういう「小市
民アイテム」を嗜好する思慮のない若者のよって、日本の製造メーカが野心
的な製品を作る原動力になっていることを、特に、私たち技術者は決して忘
れてはなりません。
こういう状況に加え、冬のボーナスと言う時期も都合が悪かったと思いま す。『カーナビを購入すべきか、否か』と悩みに悩んで崖っぷちに立たされ た私を、指でちょんと押して突き落としてしまったのが、彼女のひとこと『 ・・・酔った。』であったことは言うまでもありません。
---------
結局、私は『私たち製造業に関わる技術者は、このような「役にたつかど ーか、全然分からない小市民アイテム」にお金を払う義務があるのだ!』と か、『彼女の車酔いを直すことは出来ないだからやむを得ないのだ。』とか 、『遺伝子は利己的なのだ。』と訳の分からない言い訳を自分に施し、カー ナビの資料収集に走り回ったのでした。
------------------
私の選んだカーナビは、富士通テンの「カーマーティ」と言う機種でした 。『GPSとジャイロがついていていれば、後の機能は何もいらない。ディ スプレイも小さくて良いから、値段は最低の物を。』と言う条件で、その店 に余っていて埃をかぶっていて、いかにも在庫処分品と言う感じで無造作に 詰まれていた最後の一台を買いました。
カーマーティは、マルチメディア対応であると言うことがセールスポイン
トらしく、CDも聞けるし、ゲームも出来るらしいのですが、あまりよく売
れている機種ではないようです。
カーナビの面白いところは、単に自分の位置を示すだけではなく、様々な 情報を提供してくれるところにあります。例えばスキー場のナビソフトウェ アをセットすると、スキー場までの詳しい道路情報(地元の人しか知らない ような道路情報など)は勿論、リフトの営業時間、リフト券の値段、駐車場 の収容台数、周辺宿泊施設、その他スキー場の施設など詳細に紹介してくれ ます。温泉、ゴルフ場、アミューズメント施設は言うに及ばず、最新の機種 のカーナビでは、ラブホテルの場所、値段、内装の概要、ホテルの入り方の 裏道までもがデフォルトで搭載されているそうです。
---------
12月中頃の週末、私の自動車を取りに行くため、東急あざみ野駅から、
歩いて15分くらいのところにある、自動車アイテム専用の店「オートバッ
クス」に向かいました。
店員のお兄さんは、駐車場にある私の車に案内して、フロントガラスの台に
設置されたディスプレイ見ながらを助手席でコントローラーを操作し始めま
した。私はその操作を運転席に座って眺めていましたが、店員のお兄さんの
説明は、今一つクリアでなく、よく分かりませんでした。
店員のお兄ちゃんは再三謝っていましたが、私の仕事は、マニュアルを読 んでワークステーションやパソコンなどのマシンを動かすことですから、カ ーナビのマニュアルを読むことは、それほど面倒とは思えなかったのです。
しかし、違う仕事をされている方々には、やはり大変な苦労がいるのしょ う。
一度デートの時に、『ワープロの使い方が分からない。』と言う彼女の言 葉に、私は素直な疑問として『マニュアル読めば?』と応えました。しかし その時彼女は私に向かって『やな奴。』と言って相手にしてく れませんでした。
それ以来、私はマニュアルに関して余計なことは言わないようにしていま
す。
『田舎じゃあるまいし、横浜にそんな道があるかい!』と思いましたが、
私は黙っていました。
『はっはっはっ。』じゃない!!
それを、売りつける前に言わんかい!!!
------------------
すっかり日の沈むのが早くなった12月の夜、私は東名川崎インターから 、首都方向に向かって時速120km近くの速度で走行していました。冬の 首都高速は空気が澄み渡り、高速を照らすオレンジ色の照明灯の列が都心の 光の束に向かってカーブを描きながら延びていました。
しかし、私はそのような美しい都心の夜景を眺めることもなく、3秒で1
00メートルを走り去る風景も、前の車も後続車も全く気にしないで、カー
ナビのディスプレイを食い入るように見ていました。気がつくと、手の届き
そうなところに、前の車のテールランプがあり、あわてて急ブレーキを踏ん
でいました。
高速運転をしているとよく分かるのですが、カーナビが現在位置を表示す るのには、約1〜2秒の時間遅れがあり、数十メートルのずれに少し ストレスを感じます。
また、慣れてくるとあまり気にならないのですが、現在地点を表示する三 角(▲)のカーソルが正確に道路の上に乗らなくてイライラします。カーソ ルの種類には、「子犬」や「ゴジラ」のアイテムもあるので、それに変えて みました。が、「子犬」は地図の上でお座りをしたり昼寝をしたりするし、 「ゴジラ」は火を吐くので、見ていて全然落ちつきません。やはり、誤差で イライラするのを我慢して三角のカーソルに戻しました。
---------
ジャイロの学習も終わったと思われた頃、適当なインターから首都高速を 下りました。そして通りがかったコンビニエンスストアの駐車場に車を止め ると、「自動ルート設定機能」の操作を始めました。
電話番号で日立美しが丘寮周辺の地図を検索し(IIS機能)、美しが丘寮の
位置をゴール地点としてマークして、ルート検索を行わせました。、ホット
コーヒーを飲みながら待つこと約5分、ポーンと言う電子音の後で、画面に
は予想所要時間が表示され、スピーカーから年の頃にして20歳後半と思わ
れる落ちついた感じの女性の声が響きました。
ところが、所用時間を見て私は首を傾げていました。『どうしてここから 美しが丘寮まで1時間以上もかかるのだろう。』 私はふに落ちませんでし たが、それでも案内された通りにハンドルを切り始めました。
ディスプレイにはルートが赤い色の矢印で示され、交差点の500メート ル前、50メートル前、直前の3回、女性の声が警告を発し、50メートル 前に来ると交差点の形状がディスプレイの隅に拡大表示されます。
この「自動ルート設定機能」は、なかなか役に立つ機能で、ぼーっと運転
していても必ずポイントに近づくと警告してくれるので、一人で運転してい
るときはとても助かります。曲がるポイントを間違えた時には、『コースは
斜め右です。』と教えてくれます。
40分近く運転を続け、私は訳の分からない閑散とした街に運ばれてきま
した。『一体ここは何処なんだ。』と、不安な気持ちが押さえられなくなっ
てきた頃、カーナビボイスのお姉さん(以後、『ナビギャル』と略す)が突
然しゃべり出しました。
(へ?中継地点? 何それ?)私は中継地点などをセットした覚えはあり ません。しかし、ディスプレイの中継地点を示す場所には『WP1』と書か れた旗が立っていました。
(あっ!そういえば・・・)
オートバックスのお兄ちゃんが、私にルート探索の説明をするとき、なに やら適当な地点にマークをしていたのを思い出しました。お兄ちゃんはその 後、説明が出来なくなってひた誤りに謝っていましたが、その兄ちゃんが登 録した情報は、まだ解除されずに残っていたのでした。さらに悪いことに、 その中継地点は、美しが丘寮からは、まるで違う方向のとんでもない地点だ ったのです。
『なんてことするんだ〜!オートバックスの兄ちゃん!!』、と私は車の
中で一人大声で怒っていたのでありました。
この先は、ゴールの美しが丘寮までのルートしかありませんので、私は設 定を変えずに、そのままカーナビの言うとおりに運転を続けました。
しかし、どういうルート探索のアルゴリズムの動作方針が採用されているのかは分かりませんが、カーナビは 、よりによって一度も通ったことのない細くて、しかも工事中の道を選ぶの で、私はでこぼこ道で飛び上がるシビックを押さえながら運転をするのに必 死でした。また、すでに5年近く住んでいるのにも関わらず、全く知らない 道があったことに、結構驚いていました。
美しが丘寮に近づいて、東急あざみの駅周辺に出る頃になると、私もリラ
ックスして運転をしていました。ここからなら、どうやっても帰り着く自信
があるからです。
あざみの駅の裏側の大きな道に出る交差点を、あと500メートルに控え
た時、ナビギャルが再びしゃべり出しました。
私は一人きりの車の中で、ナビギャルと会話をしていました。そして50
メートルまで近づいたとき、再び彼女は自分の主張を繰り返して言いました
。
そして、交差点直前。彼女は私にとどめを刺すように言ったのでした。
3度も、ギャルに強く念を押された私は、すっかり気が弱くなってきまし た。
また、コンピュータ至上主義者とは言わないまでも、コンピュータ技術者
としては、どうしてもコンピュータを信じたくなってしまうわけです。何し
ろコンピュータが搭載されているカーナビのことですから、素晴らしいルー
ト案内を考えているに違いない、と信じたい気持ちもありました。
私は渋々、ハンドルを左に切りました。当然、ディスプレイ上のカーソル
は予定のルートからどんどん離れていきます。私が訳が分からないといった
風に戸惑っているところに、彼女は、一言言ったのでありました。
「お前が、『行け』ゆーたんやろーが!!」と5年も昔に使っていた関西 弁が飛び出し、「このバグ野郎!」と罵りながら、それでも何とか私は美しが丘寮につきました。
また、GPSの誤差の影響のためか、今でも、ディスプレイ上で私の車は
、小学校の校庭や剣山スポーツガーデンのど真ん中を走り回っています。
一時はカーナビを返品してやろうか、と真剣に思いましたが、それでもこ のカーナビとつき合っている内に、このカーナビにはいろいろな「クセ」が あることが次第にはっきりしてきて、それを理解して使えばそれほど腹立た しいものでもなく、とても便利なアイテムであることは分かってきました。 ナビギャルの誤誘導も、よくよくマニュアルを読めば、避け得ない現象とし て記載されていました。
------------------
今や、マイコンが搭載されていない家電製品はありません。パソコンは恐 るべきスピードで性能が向上し、値段は劇的な低下の一途をたどっています 。しかしながら、お世辞にもこれらのコンピュータ製品が使いやすいとは言 えません。
コンピュータは万能ではありません。
コンピュータは人間の果てしない努力と歩み寄りで、初めてその能力を最大 限に発揮できるのです。
日常生活を便利にしたい、楽をしたい。そんな気持ちだけでパソコンやカ ーナビを使おうとしている人が間違っています。
どのような物であれ『愛と慈しみ』なくしては、うまくやっていくことは
出来ないのです。
---------
例を一つ。
「僕のどこが好きなの?」と彼女に訊ねた時に、「それは、あなたが『便
利』で『使いやすく』て『設定がしやすい』からよ。」と言われたら−−
−−−− 私なら絶対に怒る。