私が高校生の頃、私の母は葡萄を潰して発酵させ、そのジュースを搾り取って ガラスの大瓶に保存していました。このジュースはとても美味しくて、酒の飲め ない父を取り残して母と晩酌していたものでした。
これがワインです。
もっともアルコール度がどの程度のものか解りませんが、高校生の私が飲めたのです
から、大したものではなかったでしょうが、その宝石の様な味はずっと忘れられないも
のでした。高校卒業後、さらに一年間きっちりと勉強して、その後京都横浜と自宅を
離れすでに9年もあったある日のこと、私は近くの大きな本屋で一冊の本に出会いま
した。
それが『日曜日の遊び方 秘密のワイン造り』(青海遥著 雄鶏社)です。
この本は最近流行のDIY(Do it yourself)シリーズの一冊ですが、誰でも手にはいる 家庭の道具を作ってワインを作る方法がきめ細かく書かれていて、暗記するほど繰り 返し読み、アンダーラインを引いたりして、少しぼろぼろになってきましたが、現在 も大切にしている一冊です。
私が特に興味を持ったのは、酵母と補糖の話でした。日本でワイン酵母が手に入ら ないなら、パン酵母を使えばよいと言う著者の姿勢はちょっとした驚きでした。
(その手があったか!)と私は目から鱗が落ちる想いでした。
また、アルコール度数を上げるために砂糖を加えるのですが、その算出の仕方を読ん でいるうちに、高校の生物の時間を思い出していました。『無酸素発酵』というアル コール特有の発酵が雑菌の混入を妨げている仕組みを読み進めるにつれ、自然界の見 事な作用に感動してしまいました。そして、この本を読んでいるうちに、
「おい、まだまだ学ぶことはいっぱいあるぞ!!」
と嬉しくなってきてしまいました。
なにより、巻頭のカラー写真に写っている手作りワインの美味しそうなこと!!
その本を手にいれた週末の日曜日、色々な必要な道具を買う為に、私が町田の
東急ハンズに出かけたのは言うまでもありません。
さて、ハンズの中をうろうろしながら、私は発酵容器になりそうな物を探していまし
た。2〜3リットルの容量があってできればガラスまたは陶器がいいのですが、適当
な物が見つからなかったので、2リットル入りのタッパー(空気穴つき560円)と
空気穴に付けるビニールホースを1メートル(50円)を買いました。その他、コル
ク栓4つ(400円)なども。
ハンズは色々な調理用品が揃っていて、麦芽を粉状にしたモルト(250円)が手に 入りました。また全然関係ないのですが、思わず33種のスパイス入りのカレーセッ トを買ってしまった私です。でも、やっぱりワイン酵母は手に入りませんでした。
次に私はデパートの地下食品売り場に行きました。パン用のドライ酵母(350円)、 100パーセント濃縮還元グレープジュース2リットル(600円)、グラニュー糖 1キログラム(200円)を買いナップサックに詰めて、駅に向かいました。途中の 果物屋でレモンを一個(100円)、薬局で消毒用アルコールを一本(500円)買っ て、そのまま寮に帰ってきました。
しめて、ワイン製造装置(発酵装置)610円、材料費900円、その他もろもの
の雑費で850円。史上最小のワインワイナリー・エバタの資本が町田駅周辺に投下
されたのでした。
寮に帰ると、すでにどっぷりと日が暮れて真っ暗になっていました。さすがに秋も 深まってくると日の入りが早いなあと関心していたりもしていたのですが、私はその 日近所の床屋に予約を入れていたので、のんびりしている訳にはいきませんでした。
今になって思うと、そんなに急ぐ必要はなかったのですが、私は早速買ってきた材
料でスタータボトルを作り始めました。
パンを作り時、パンの生地にいきなり酵母を入れてもうまく発酵しない時があり ます。これは酵母に元気がないからです。それで発酵をうまく成功させるために酵 母のパワーをのアップさせるものが、スタータボトルです。
単にパワーアップだけでなく酵母を節約することもできますし、またパン酵母を 使うとせっかくのワインにパンの匂いがついてしまうことがありますが、この匂い を消したりする効果があるのです。
まず300cc程度のハーフボトルの瓶をアルコールで殺菌します。コップに 半分程度の水を沸かして、この中にモルトを15g溶かし、そのままぬるくなるま で冷してから、グレープジュース100ccと一緒に瓶の中に入れます。レモンを 半分に切って、絞り汁も瓶に入れてから、小さじ一杯のドライ酵母を瓶の中に入れ ます。最後にガーゼで瓶の蓋をして、そのまま二日間放置します。
と書くと、正確に量を測って入れたように見えますが、これらは全て目分量で行
いました。
床屋から帰ってくると、液体の表面から大きなあぶくが出てきて、ブツブツと音 が聞こえるほどに活発に活動していました。発酵を進めるために、ときどきボトル を振っていましたが、次の日には液体と澱に分離した状態になり、あまり変化しな くなっていました。
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それから2日後、帰宅してから、2リットル入りのタッパーと空気穴に付けるビニー ルホースを消毒用のアルコールで徹底的に洗いました。とにかく酒と言うやつ は、とてもデリケートでちょっとした雑菌で全然別のものにかわってしまうと、しつ こくしつこく本に書いてあったので。これは、どの本を見ても例外無く記述されてい ました。
その後タッパーをドライヤーで乾かしてから、100%グレープジュース2リッ ルに砂糖250グラムを入れて、これも十分に煮沸消毒したスプーンでかき回し ました。
次に、日曜日に作って丸2日置いたスタータボトルの酵母を静かにタッパーに 流し込み、蓋をしました。ここで失敗したのが、酵母を入れる前にレモンの絞り汁 を入れておくのですが、忘れてしまい酵母の後に入れてしまったことでした。
しかし、なんでレモンの絞り汁がいるのかと全く解りませんでしたので、今度著 者に連絡を取ってみようなどとと思いながら作業をしていました。
日曜日の夜には、ブクブクと泡を立てていたスタータボトルの酵母も、すっかりおと なしくなって、いましたので、私は「この酵母、元気なくなったからもうダメかな。」 とちょっと心配不安になっていました。ボトルの中の臭いをかいでみると、パン臭が かなり消えていました。
蓋をしたタッパーの空気穴にビニールホースを取り付けて、もう一方の先を空のペッ
トボトルの瓶に差し込んでそのままにしておきました。この空気穴は、アルコールの
製造過程で発生する二酸化炭素を出すために用意したものですが、タッパーのギリギ
リまでジュースが入ってしまったので、下手をするとジュースが出てきてしまうかも
しれなません。しかし、まあそれほど激しくは発酵しないだろう、と思っていました。
その時は。
ところで、アルコール発酵とは簡単に言えば、砂糖がエチルアルコールと二酸化炭 素(炭酸ガス)に分解される作用を言います。
実際はもうちょっと複雑なのですが、始まりと終わりを書けば上記のようになりま す。とにかくアルコールができればいいのです。ただ、この化学反応の凄いところは 、発酵を促すための触媒や付加物が何もいらないと言うところにあります。大抵の発 酵には、酸素や水が必要となるのに、アルコール発酵では必要がありません。適当な 温度と酵母があれば、真空の宇宙空間でもアルコールはできるのです。
しかも、ひとたびアルコールが生成されれば、他の雑菌を駆逐してしまう、と言う
のも凄い話です。こんな大自然の叙情詩とも言うべき美しい化学反応を、私物化する
日本国の法律はやっぱり間違っているのだ、と言う確信を新たにした私です。
酵母を入れて、2時間が経過しても一向に発酵する様子がないので、
「ま、しょうがない。ダメだったら直接ドライ酵母を振りかけてやれ。」
と乱暴なことを考えながら、その日は床につきました。
その日4時頃、たまたま目が醒めた私は、電気をつけて発酵装置を見にいきました。 驚いたことにビニールホースからどんどんジュースが流れ出して、ペットボトルの底 4cm程まで溜る程まで激しく発酵が行われていました。液体が押し出されていく様は、 丁度献血をしたとき、血液がホースを流れていく様子を思い出させるものでした。空 気穴から液体が吹き出しているのにも係わらず、密封されている筈のタッパーからは ジュースが飛び散っていて、装置の周辺は流れだしたグレープジュースでびしょぬれ になり、発酵のもの凄さを物語っていました。タッパーに耳を近付けると「ブクブク」 と言う音が聞こえて、なかなか飽きなく楽しめました。そして、5時頃まで電気をつ けたままにやにやしながら、ずっと眺めていた私でした。
次の朝、出社する前、ペットボトルに溜ったジュースの臭いをかいできたのですが、
凄い強烈なアルコールの香りで、ちょっとクラクラするほどでした。
その日の帰宅後、ペットボトルの中にこぼれ溢れたジュースが増えていないので、 「発酵が一段落ついたな。」と思い、ビニールホースを外して空気穴を閉じて、その ままビニールホースを洗いに行きました。ところが、部屋に帰ってタッパーを見ると、 蓋からジュースが吹きこぼれていてびっくりしました。この段階になっても、まだこ んなにたくさんの炭酸ガスが発生するのかと、かなり驚きました。
慌てて空気穴を 開けましたがこのままでは雑菌が入ってしまうので、再びビニールホースを取り付け て、ペットボトルに消毒用アルコールを薄めた液体を入れて、ホースを突っ込んでお きました。
要するに小学生の理科の時間に習った『水上置換法』です。外界の空気
を遮断する方法としては、絶対確実です。 すると、時計の針の動きに併せるように、
『ポコッ、ポコッ』と気体が泡になって出てきていました。炭酸ガスがでてきている
のですが、本当にジュースが生きて呼吸をしているような錯覚を起こさせる程でした。
密封したガラスや金属の容器に、葡萄ジュースと砂糖と酵母を放り込んで、混ぜ具あ いを調節してやれば、立派な時限爆弾になりそうです。特にオレンジのワインは、発 酵の勢いが激しく、発酵が完了する前に栓を閉めてしまったら、近くに人が通っただ けでも破裂してしまうそうです。まさに、生物兵器と呼ぶにふさわしいでしょう。殺 傷能力には欠けるとは言え、発酵前のジュースをワインとして送ってしまえば、相手 の部屋にジュースをぶちまけるというような嫌がらせができるでしょう。
余談です
が、私の部屋の物置棚には、先日造ったばかりのコルク栓で密封したオレンジのワイ
ンが2本あります。
酵母の仕込みから1週間経った次の日曜日「澱引き」をしました。不要になって沈澱 した酵母を取り除くために、上澄み液だけを取り出す作業です。その時2口ほど試飲 してみたんですが、本当にワインの味がしていてびっくりしていました。ワインを造っ ていながら変な話ですが、これほど完璧にワインの味がするとは思わなかったのです。 若干のパンの匂いが気になりましたが、それ以上にこくのある味に感動してしまいま した。
また、発酵装置を組み立てなおして上澄み液を入れ直しましたが、まだ例の
水上置換装置から気体が出てきていました。ちょうど2秒に1回の割合で、ゆっくり
とポコッ・・・ポコッ・・・と。この音を聞いていると眠くなり、発酵期間中は普段
より良く眠れたようでした。
さらに一週間後の日曜日、ワインの瓶詰め作業を行いました。ワインボトルは、各階 の階段の踊り場にある不要品置き場の一角に時々捨ててあるので、毎日チェックして いました。ワインボトルを水桶に一日放り込んでワインラベルを剥した後、専用の洗 浄ブラシを使って瓶の中を洗い、その後薬用アルコールで消毒して乾かしておきます。
ワインボトルにワインを入れる方法は、「澱引き」と同じ要領なのですが、これが なかなか難しいのです。やったことのある人なら分かると思いますが、まずビニール ホースにワインを引っ張るために、一度自分の口にくわえてから、おもいっきり吸い 込んで、ワインがホースを下ってくる途中ですばやく口を離して、ホースの端をワイ ンボトルに移しかえなくてはなりません。私はこれに何度も失敗してしまいました。 吸い込みすぎてワインを飲んでしまうは、ワインを大量に机の上にこぼしてしまうや らで、ようやく瓶詰めを終わったときには、部屋中がワインの香ばしい匂いでいっぱ いになっていました。
コルク栓も、アルコール液につけた後ドライヤーで乾かして
おきます。本当はコルク栓を打ちこむ装置があるといいのですが、今回は指を使って
ワインボトルに押し込みました。
こうしてようやく赤のヌーボワインの完成です。
着色料、酸化防止剤、その他ありとあらゆる添加物一切なし。純正と呼ぶにふさわし
いワインです。ワインボトルを光に照らして見ると、むらなく均一に透き通る美しい
エメラルドの赤が本当に見事です。これから物置棚の奥に置いて、一か月以上熟成し
て飲めるようになるはずです。
熟成すればもっと美味しくなりますが、この段階でも十分美味しいワインですから、
私は瓶詰めで余ったワインを先輩のNさんの部屋に持って行って、製造開始より20
日目、待ちに待ったワインの試飲会をささやかに開催しました。タッパーからコーヒー
カップに注いで飲むと言うスタイルは少々問題はありましたが。
まずアロマは、濃縮還元ジュースと言うこと もあり高貴な香りではありませんでしたが、しっかりしていました。ほんの少しパン の匂いがしなくもありません。ブーケは、 素人の私にはよく分かりませんでした。全体的に、芳醇でこくがあり、アルコール度 も高く力強い飲みごたえでした。
しかし、私とNさんを驚かせたのは、これほどの こくがありながら後味がすっきりしていると言うことでした。安いワインや保存状態 の悪いワインは、どんなに口当たりがよくても、苦みや酸っぱさがあり、その為続け て飲むことが苦しいくなります。しかし、このワインにはそのようなことが全く無い のです。ただのジュースのように楽しめるので、気をつけて飲まないと後でえらいこ とになりそうです。実際、部屋に帰る途中の階段で足元の危ない私でしたから。
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