Up: 江端さんのホームペー
ジ
1991年11月16日、ついにこの日が来た。
この日がくるのを複雑な気持ちで待っていた昨日までとは違う、本当の今日である。
午前8時、少しの緊張の面もちで透き通った朝の空気の中を歩く。
昨日宿に着いたのは夜の10時過ぎだったので、回りの風景がよく分からなかったが、ここは何の建物もなく、空を妨げるものが何もない。
私の視界が空だけで何も見えなくなる。
空は抜けるように青い。
雲もない。
まるで夜の闇が、そのまま光源を持ったまま時間が過ぎて行ったような気がする。
宿からDZ(ドロップゾーン・着地地点)までは、歩いて約10分。
DZは、川沿いの広い公園の中にある。
北の水平線近くに、カラフルな熱気球が小さく見える。
しかし、あの熱気球は、5000フィートも上がっていないだろう。
なぜなら、それが見えて確かめられるから。
10000フィートでは、頭上にいたとしても、小さな飛行機なら、とても見つけることはできない。
いわんや人間など認識できるであろうか。
しかし、そこがこれから私の出かけて、そして、再び私の住む地上へ戻ってくる折り返し地点なのである。
今思えば、魔がさしたとしかしか思えない。
勿論前から興味はあったのは否定しない。
しかし、日本でそれができることは知らなかったのだ。
だから、あの情報誌を見たときは、目を疑ったものだった。
あるのだ。
日本でも関東エリアだけで4箇所、勿論都心からはかなり離れているが、一日かけるつもりで行けない距離ではない。
勉強と研究の日々だけの学生時代、とは言わないまでも、少々遊び方にはスマートさが欠けていると自覚は持っているし、今一つ世間の若者が楽しいと感じているものを素直に楽しいと感じることのできない性格だなあと、思っていた。
しかし、これではいかん、一つ、世間と迎合する何かを作らねば、と真剣に思うようになってきたのは、悪い友人たちに無理矢理誘われてつれて行かされたスキーがきっかけであった。
かなり病みつきになってしまって、ついにカナダまで出かける羽目になってしまったが。
しかし、本当の軽さやスマートさからは、やはり無縁であるようだが、まあ、生まれついてのものもあろうし仕方がないでしょうと思うようにした。いずれにしろ私はここで一つの教訓を得た。
『ミーハー文化が存在するのには、存在するなりの理由が必ずある!』
と言うわけで、私は批判だけして立ち去る評論家を一切やめて、とりあえず何も言わずに何かをやってみようと思いだした訳である。
会社に就職して入ったのクラブが、テニス部と山岳部。
今は、昼休みのコート取り争いで、昼飯も食べないで先輩と熾烈な闘いを展開している毎日である。
しかし、それでもやはり何かが足りない。うまく言えないのだが、人がやっていることを、追っかけてやるのは何か性に合わないと言うのであろうか、私は折角の休日も何となくくすぶってもったいない日々を送っていた。
ああ、あのインドで伝染病(実際はただの風邪)で生死をさまよったり、カナダで、氷河のクレパスを横におそるおそる滑走したり、ネパールで飛行名簿に自分の名前がのっていなかった時のあの恐怖と戦慄、そして無事生還したときの喜び、もうこの様なことはないのかなあと、寮の部屋でくすぶっていたときだった。
スカイダイビングの記事を目にしたのは。
気がついたら、すでに申し込みをしていて、日時も決まってしまった。
ただ、さすがに少しは思慮ができてきたのか、ダイビングの仕方はタンデム、いわゆるインストラクターとの二人乗りを選んだ。講習を受けて跳ぶには時間と金がとてもかかるので、今回はとりあえず跳んでみてからと言う気持ちでこちらを選んだ。
心の奥底では、死ぬなら誰かを道連れにしないと気が済まない、と言う気持ちがあったかと聞かれれば、全くあった。
パラシュートが開かなかったら「馬鹿!、ボケ!、カス!、ドジ!、・・」とあらんかぎり罵倒してやりたいと思うのが人情であろう。
金曜日の夜、栃木県のDZのそばの民宿に泊まるために、珍しく定時で退社する私と職場のMさんとの会話
Mさん「おっ、今日は早いですね、定時ですか?」
江端 「・・・・」
私の頭の中には、入社以来の出来事が走馬燈のように流れた。
Mさん「?」
江端 「・・仕事、がんばって下さい。」
Mさん「はあ?」
江端 「きっと、帰ってきますから。」(力づよく)
Mさん「はい?」
そこに、仕事の先輩であるTさんが入ってきた。Tさんには私が、「跳ぶ」ことを教えてある。
江端 「Tさん、行ってきます。」
Tさん「気をつけてね。」
江端 「もし、帰れなかったら、××の件と、SS送別会の幹事の件よろしくお願いします。」
Tさん「ああ、分かった。」
江端 「それじゃ。」
と、ポカンとしているユニットのメンバーを後に私は会社を後にした。余談であるが、一緒に跳ばないかと何人か誘ったのに、誰も「よし、行こうか」と言ってくれなかった。
DZには、朝8時の集合に合わせて、20人ほどの人が集まってきていた。
昨夜民宿で同室となった、いびきと歯ぎしりの酷い叔父さんは北海道から来ていた。
朝食の時、民宿の食堂で見た女の子は、話の内容から、連れもなく一人で講習を受けに来ていた今年社会人一年生のOLだそうだ。
多分友人も誘っては見たが、誰も来なかったのだろうなと思うと、とても親近感がわいてきた。
私はこういう、自分のやりたいことをちゃんと分かっていて、仲間と群れない女の子がとても好きだ。
彼女は、昨日地上訓練を終えて、今日のファーストジャンプが単独ジャンプと言うことで、緊張が隠せない。
こういう話を聞くと、タンデムで跳ぶ自分がずいぶん情けないような気がする。
「スカイダイビングと言ってもそんなに大した速度ではありません。高々時速200Kmですし、新幹線と同じくらいですから。」
どこの世界に、新幹線の速度と人間の日常生活をごちゃ混ぜにする奴がいるのか。
「タンデムの方は、本当に何もしなくていいです。インストラクターが全部操縦しますから。ただ落下中にインストラクターの操作を妨害するようなことだけは決してしないで下さい。」
一体、間違いなく自分の命に関わるような冗談をする奴が、かつて存在したのであろうか。
「では、少し落下中の姿勢について練習しましょう。」
と言うわけで、パラシュートが開くまでの姿勢と、パラシュートが開いてからすべきことを簡単に10分くらい受ける。
こんないい加減な講習で、空に行ってもいいのだろうかと少し心配になってきた。
私は、その日最初のジャンプのグループに入ることになった。
タンデムで跳ぶ人と一緒にライトバンに乗り込む。
インストラクター二人、カメラが一人合計5人で、滑走路のある、川沿いの土手に向かう。
15分も乗ったであろうか、車から降りたところは、だだっぴろい野原であった。そこに、セスナが無造作に置かれてあった。このセスナはジェットエンジンが搭載されていて、300メートルの滑走で離陸ができるものだそうだ。
インストラクターが私に話しかけてきたが、ダイビング用の帽子が耳まですっぽりとかぶさり、声がよく聞こえない。
秋の風が、野原の草の動きで見える。
突然セスナがプロペラエンジンのアイドリングを始め、けたたましい音で何も聞こえなくなる。
セスナに乗り込む前、空を見ていた。
インストラクターが何か叫んでいるようだが、全く聞こえない。
空は雲ひとつない快晴である。
視界全部が空一杯になる。
これから私の行く空はどこだろうか。
そこには何かがあるだろうか。
何か知らないものが待っているだろうか。
私はセスナに乗り込んだ。
合計7名を乗せたセスナはゆっくり動き始めた。
野原の不整地面の形がそのままセスナに伝わってくる。
ジープにでも乗っているような感触である。
大きなカーブを描いて、ふっとセスナが止まった。
セスナは立ち向かうかのように広い野原の原野に立っている。
エンジン音がひときわ高い音でうなり始める。
耳が抜けるような金属音。
離陸だ。
乗り込んだ全員が少し固くなっている。
がくんと後ろへの軽い衝撃と共に、外の風景が凄い勢いで後ろに飛び始めた。
引き戻されるようなGで、体が後ろに傾く。
セスナの車輪が野原をスキップしているようにバウンドし、自力で姿勢をもとに戻せない。
そうして、外を見ていたら、突然、本当にそれは突然に風景が消えて、窓は真っ青な空で一色になった。
あわてて、窓にくっついて下を見ると、まるでおもちゃのように小さくて、頼りなく家や車が整然と並んでいた。
それらのひとつひとつを見ていると、それがさらに小さくなり、どんどん小さくなり、点になり、いつの間にか、それらにあったところが、ひとつの町にしか見えなくなっている。
もう加速は感じないのに、背中が押しつけられる。セスナが、機首を上げたまま上昇し続ける。
インストラクターが何か言っているが、エンジン音でよく聞こえない。
しゃべるときはどうしても怒鳴っているようになってしまう。
「君は、 (ゴーーー『風の音』) だ!」
「はいー?、何ですかーー」
地上10000フィート、約3000メートルの上空は、雲の上。氷点下のジェット気流の世界である。
セスナに入ってくる風はごうごうと音を立て、ジェットエンジンの金属音と、プロペラの回転音の凄まじい不協和音である。
「もう少し体をくっつけてー!」
「はい!」
機内で二人の体を金属具でつなげる。
私は背中にインストラクターを背負うような感じである。
しかし、なかなかつながらない。
ジャンプポイントが近づいてくる。
インストラクターも私も必死である。
やっとカチャと金具がつながる音がした。ほっとして気を抜くと、今度は紐を強く締め付けるように言われた。
「もっと、力いっぱい引っ張ってーー」
インストラクターが騒音に負けまいと必死に叫ぶ。
「はいーー!」
こっちも必死だ。
しかし、控えめに言っても腕力があるとは言えない私は、十分な力で紐を引っ張れない。別のインストラクターが横から手を出してきて、紐を引っ張り上げる。ぐっと胸の圧迫される感覚がして、息苦しくなったが、もう何も言われないところを見ると、十分な強さで引き上げができたようである。
ようやくほっとして窓の外を見る。地平線が陸と空を分けあっている。
しかし、その境界線は薄く霞み、ぼんやりしてはっきりと見えない。
その地平線をずっと目で追っていくと、大きくぐるっとまわって確かにひとつの巨大な円になる。
地球が本当に球であることを知識では知ってはいたが、本当は解っていなかったのだと実感する。
セスナが大きく旋回して、窓から差し込む光線の方向も変わる。
一瞬地上が手に届く所にあるような錯覚で、目が眩みそうになる。
空に落ちていくような気持ちになる。
丸いカーブを描いた地平線の彼方まで広がる大地は、凍り付いたように止まり全く現実感がない。
凄まじい騒音の中、セスナとセスナの中にいる人間だけが生きていて、世界中は死に絶えような静寂の中にいた。
私は私のいる世界から、10000フィート離れて、初めて私のいる世界を見た。
突然、インストラクターが怒鳴るように話しかける。
「君はぁーー2番目にぃーー飛ぶからね!」
「はい!ー」
相変わらず、飛行機の中は、ものすごい音と寒さである。
ジャンプポイントに来たようである。
パイロットがインストラクターに目線で合図する。
それを受けて、インストラクターがセスナのドアを全開にする。
と同時に上空10000フィート突き刺すような風が、体全体に体当たりしてくる。
そして、セスナの胴体に大きく開いた空間の向こうには、虚無の空間が果てしなく広がっていた。
うすい雲が、凄いスピードで動いている。
雲は、私の立っている足の下よりもっと下に広がり、地上がさらに果てしなく下の方に霞んで見える。
あっ!
その時突然、私の中で何かのメーターが振り切れて、とんだ。
私は自分が一体何をしようとしていたのか解らなくなっていた。
どうして私はここにいるのか。ここで何をしようとしているのか。
全く恐怖はなかった。ただ本当に全く解らなっていた。
ここから飛ぶのか。飛んでどうするのだ。何かあるのか。
私は、一体何をしているのか。
インストラクターが叫ぶ。
「右足をーータラップに置いてぇーー、置いたらぁー体をーセスナの機首の方向に向けてー」
「はっっいっ!」
呆然としながらも、声を張り上げている自分の声を覚めたように聞いている自分がいた。
一番目の組が、ドアに張り付いたと思った次の瞬間、消えた。
『吸い込まれていく』なんて生やさしいものではない。
完全にこの空間から突然消去したと言ってもいいくらい一瞬の出来事であった。
本当に恐くなってきた。
もうすぐ私も消え去るのであろうか。
インストラクターが背中でGOを指示する。
右足をタラップにかける。この時、私の体は半分以上セスナの外にいた。多分風がものすごかったであろうが、何も感じれなかった。ただ、体にぴったりとフィットしている筈の降下用のウエァが、ばたばたと激しい勢いで振動し、音をたてていた。
真後ろで、インストラクターが何か叫んでいる。
「イグジット(exit、出口)から手をー離して! 」
「はい!」
「だからぁー、手を離せってば!!」
「えっ?」
セスナの右側面に大きく開いたドアから、体半分を空中に投げだした不安定な体勢のまま、こわごわとイグジットの上の方を見れば、ドアのスライドレールにがっちりと握って、離すもんかとばかりにがんばっている自分の左手を発見した。
でも、手を離したらおっこちてしまう、などと本末転倒なことを考えながらも、なんとか左手に言うことを聞かせると、インストラクターが後ろからぐいっと体を押してきた。
(えっ、本気で飛ぶつもりですか?)
そして体が、横に倒れたと思った瞬間!
私の体は、助走も加速もなしに、いきなり時速200kmの世界に投げ込まれた。
耳元は風を切る裂くもの凄い音で麻痺し、今だかつて体験したことにないスピードで落ちていく自分を感じる。
しかし、真下に向かって目の眩むような速度で落下している筈なのに、この世界のどの方向にも重力の方向を感じることができない。
空気ぬき用にレンズに小さな穴のあいた落下用のゴーグルに、容赦なく秒速50mを駆け抜ける氷のような空気が、ぶつかって入り込んでくる。
泣きそうな形相で地上をにらみつける私の眼が濡れているのは、風圧のためであろうか、恐怖のためであろうか。
落下を認識しつつ、体が落下を認めていない。
完全に麻痺した重力感。
この頼りない感じが恐怖を呼び起こし、体が必死で何か確かなものをほしがっている。
そして、信じられないことに、こんなに凄い速度で地球に向かっている筈なのに、少しも地面が近づいてこない。どんなに時間が経っても、町の区画や田畑の境界や道路の線がそのままの形で変わらない。
絶叫こそしてはいないが、心の中であらんかぎりの声を張り上げていた。
(これは、悪夢だ、早く、早く終わってくれーーー、おれが悪かったーー、かんべんしてくれーーーー)
落下の途中で、地上講習で受けた基本姿勢を思いだして、必死になって逆えびぞりの体勢を取る。
インストラクターが手を伸ばしてさかんに何か合図をしているようだ。
しかし何をしているのか全く解らない。
切り裂く風の音で、勿論声なんか聞こえる筈もなく、何か重要なことを忘れたことがあったのかと不安になる。
もしかして、金具の付け方をまちがえたのだろうか。または、基本姿勢を間違えてパラシュートが開かないのだろうか。
墜落の場面が、脳裏をよぎる。
私は本当に後悔していた。
とにかく、インストラクターが手を伸ばしているので、同じように手を伸ばして見た。しかし、本当に何を指示しているのか全く解らなかった。
ふっと地上を見直すと、とんでもない事実を発見した。
地上の形が全く変わってしまっていたのだ。
(おい、ちょっと待てよ!)
まさに、低い倍率から高い倍率に換えたときの顕微鏡のギャップそのものであった。
(本当に、墜落するーーーー!)
と突然、がくんと強い衝撃があった。
自分の体が勢いよく上に吹っ飛んだと思った。
パラシュートが開いていた。
体にパラシュートを結合したベルトが、一瞬のたたきつけるようなショックで関節を締め付けて激しい痛みを感じる。
この地点でも、地上1000メートル近い上空にいることには違いないが、着地に失敗してもとりあえず、墜落死だけは免れると思ってほっとした。
骨の2、3本なら喜んでくれてやると本気で思った。
足元に着地地点を探す。
確かDZには、20メートル四方もの巨大な青いビニールシートが2枚、目印として置かれていたはずだ。
そのシートの上で寝そべって講習を受けていたはずなのだが、何も見えない。
家も自動車の形も認識できない。
東京タワーからでも、米粒ほどの大きさの自動車が列をなして走っているのが見えたのに。
しかし、東京タワーは確か300メートル以上あったはず。
(ん・・と言うことは、何か? ここは、東京タワーより高いの・・か?)
先ほどは、スピードの恐怖で何も解らなかったが、今度は下界を見る余裕がある分、高さの恐怖がわいてきた。
高いところから下を見ると、足が痛くなってすくんでしまうと言ったあの感じが甦ってくる。
インストラクターが背中から声をかける。
「大丈夫か?」
恐らくは、真っ青な顔色になっていたであろう私は、なんとか答える。
「だ、大丈夫・・だと思います。」
インストラクターや自分のしゃべっている声が、あまりはっきりと聞こえない。
これは、昔、大学の音響研究室の無響室に入ったときの感じに似ている。
無響室では、部屋の壁に音が吸収されて、会話するにもお互いが向き合っていないとできない。
ここは、無響室など比較にならないほどの完全に反射のない広がった空間である。投げかける全てのものを、完全に吸収してしまう静寂の空間である。
インストラクターがキャノピーを握るように指示する。キャノピーとは、パラシュートの左端と右端につながった電車の吊り取手のようなもので、左手と右手でつかめるようになっていて、パラシュートの速度や方向を自由に操縦することができる。
「はい、懸垂して」
(懸垂? ああ、キャノピーを引き下げるのか。)
渾身の力を込めて引き下げようとする。
しかし、引き下がらない。
ちょうど、体操競技の吊り輪で、十字懸垂をするような感じである。
非力な私に引き下げれるわけがない。
「もう一度!」
しかし、引き下がらない。
(あああ、筋肉トレーニングしとけばよかった。)
パラシュートが開いたからと言っても、着地に失敗すれば、足の骨をおるくらいの速度で下降しているのである。
キャノピーを操縦できなければ、着地失敗どころか最悪の場合、DZに帰れない。それどころか、川や道路に墜落の可能性もある。
「もう一度!!」
インストラクターの声にも焦りが感じられる。
やはり下がらない。
地面にぶつかるのか?
冷たいものが、頭をよぎる。
「違う違う!、体を上に上げなさい」
そうか、キャノピーを下げるのではなくて、体を上に上げることが目的だったのだ。
今度は、簡単に引き下がった。
カチンと音がして、何かの金具が外れたようだ。と同時にインストラクターと私の体が少し離れて、自由が効くようになった。
今度こそ、ほっとして安心した。
「はい、一度ここでブレーキの練習をしてみましょう。」
2本のキャノピーをインストラクターと私の二人で握る。
どうもうまく握れず、2、3回握り直す。
「キャノピーを一気に引き下ろしてぇーーーーー、はい!今だ!!」
力を込めて、引っ張ったその瞬間、時間が止まった。
落下の感覚がなくなり、空中でふわりと浮いている自分を感じる。
耳障りな切り裂く風の音が消えた。
静かに流れている秋の風が聞こえる。そして、微かに下界の音が聞こえる。
その微かな音が、この静寂の世界を、より一層深く感じさせる。
先ほどまでの、全ての存在を否定し拒否する冷たい静寂ではなく、そこには、何か包み込むような静かで凛とした静寂があった。
それは、とても美しく、素晴らしくものに感じる何かであった。
キャノピーをもとに戻すと、再び落下が始まった。
DZのポイントである、青いシートが本当に点のように見えてきた。
本当に、あんな小さなポイントに本当に着地できるのであろうか。
インストラクターは、キャノピーを巧みに操縦して、パラシュートを回転させる。
「はい、右に旋回させてー」
インストラクターと一緒に右のキャノピーを引き下げる。
すると、美しい弧を描いて、パラシュートが旋回する。
「次は、左ー」
同じように、左のキャノピーを引き下げる。
体が、左に傾き、遠心力で体が少しだけ右に飛び出る。
下の方を見れば、最初にとんだグループが、DZに向かって着地体勢に入っている。
赤や緑の美しいカラフルなパラシュートが開き、まるで黄金色の大地に大輪の花が、ひらひらと落ちていくと言った感じである。
地上が近づいてくる。
DZの青色のポイントがはっきりと見え、そこにいる人や仮設テントにかかれた文字が読めるようにまでなる。
DZの横には、大きな川が流れている。そしてその川を河口方向に眼で追っていくと遠くに、大きな橋がかかっているのがわかる。
大地は、視界一杯に黄金色に輝いている。
ちらと、この瞬間がもう少し続いて欲しいと思ってしまう。
同じ速度で落下しているはずなのに、近づくにつれて地上が加速して大きくなってくる。
体全体に広がる大地に、恐怖を覚える。
本格的に着地の準備に入る。
インストラクターが着地の進入方向を指示する。
「一度DZの上を旋回し仮設テントの上を通過して、DZに対して真っ直ぐに入るよ。」
私は答える。
「はい。わかりました。」
私は今日、非常に自分でも驚くくらい従順だ。命がかかるということは、かくも人を従順たらしめるものか。
一度、ぐるっと大きく右に旋回し、仮設テントの上を通り過ぎる。
行きすぎて、駐車場の方に降りてしまわないかちょっと心配になる。
今度は左方向に旋回する。
真正面に、仮設テントとその向こうに広がったDZをとらえた!
旋回はもうない。
飛行機の着陸のように、真っ直ぐに入るだけである。
地上は、もう手の届くところにある。
インストラクターが最後の注意をする。
「十分に引きつけてから、両方のキャノピーを一気に引き下げるんだ。」
興奮して私は答える。
「はい!」
足元正面に見えていた仮設テントが、一瞬に後ろへ飛ぶ。
ポイントの青いシートが、眼の前に広がって後ろに消える。
地上が、凄い勢いで近づく。
足元を見ると、もうそこに地面がある。
キャノピーに力が入る。
しかし、インストラクターが私の手を押さえる。
「まだまだまだまだ・・・」
ぶつかる!と思った瞬間
「今だ!!」
インストラクターの大声の指示。
無我夢中で両方のキャノピーを引っ張る。
体が、ふわっと浮き、地面すれすれで、再び時間が止まった。
そして、軽くステップするように、トンとつま先から地上に触れて、ゆっくりと地上に舞い降りた。
もっとも、力んでいた私は、そのまま足がもつれて、インストラクターを巻き込み、パラシュートに引っ張られるまま、大地に倒れ込んで、ウエァの足のところを泥だらけにしてしまったが。
地上は静かだった。
先行したクループのメンバーが話をしているのが聞こえる。
インストラクターが止め金具を外してDZに広がったパラシュートを集めながら、私に調子を尋ねている。
草木が風になびいて揺れている。
私は、DZに立って、ただ空を見ていた。
後続のパラシュートが次々と私の頭上を鳥のように通り過ぎて舞い降りる。
何にも見えない空から、途切れ途切れに、微かにセスナのエンジン音が聞こえる。
機体が旋回して方向を変えるとき、太陽に反射してキラリと光る。
そしてしばらくすると、真っ青な空に、突然色とりどりの花が開く。
DZに立ち続けることが、後続の着地の妨げになるのは知っていた。
しかし、私は動くことができなかった。
私は、私の住む地上へ舞い戻ってきた。
生まれて初めて、大地を確かなものに感じていた。
私は、私が存在すると言うことを、体全体で理解することができた。
地上から、空を見る。
降りてくる人たちを、大地から見る。
こんな満ち足りた時間が、かつてあったであろうか。
草木が風になびいて揺れている。
私は、ただ空を見ていた。
空は、果てしなく青く、とても静寂であった。