ある寒い冬の夜のことでした。
研究所を出て、王禅寺の森の横の道を一人で歩いて
いると、木枯らしが落ち葉の一群を突然空に巻き上がります。突刺さるような冷気の
塊に対して、私は思わずコートの襟を立てて後ろに顔を向けました。車道の明かりに
照らされた部分だけがライトアップされて、舞い上がる落ち葉の一群が一瞬黒雲のよ
うに見えた後には、恐いくらいに凍てついた冬の星々が広がっています。コートにく
るまり少し背中を丸めて、私は考えごとをしながら一人でとぼとぼと王禅寺の丘を降
りて行きました。
最初の信号交差点に差し掛かった時、私は車道で止まっている軽車両を見つけました 。その車は歩道側によることもなく、まさしく車道のど真ん中で、停止ランプを点滅さ せながら停止していました。交差点の真ん中当たりで止まっているので、道路に差し掛 かった車が慌ててブレーキを踏んで、その車を回避していました。
変だな、と思った私は、その車のドアを軽く叩いて運転手に合図をしました。
出て来た運転手は、ハイティーンと思われるちょとぱっとしない感じの風貌の青年で
、眼鏡をかけていました。車から出て来た彼に私が「どうしました?」と尋ねると、彼
はいきなり私に問いかけて来たのでした。
「自動車の運転できますか?!」
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滅多に無いことですが、私は完全に思考が停止し頭が真っ白になりました。そして何 秒かの後に、ようやく「は?」と聞き返したのでした。
彼はどうやらこの交差点まで自動車を運転した来たまではよかったが、丘を駆けあが る時に必要となる坂道発進ができない、と言った様子でしたが、なによりも彼はマニュ アルの車の運転そのものが出来ない様でした。
私が彼に替わって運転席に座ると、彼が「クラッチ」だと主張するペダルをおもいっ きり踏み込んで試たのですが、どれだけ踏んでも全然踏み込むことが出来ません。勿論 ギアを入れることも出来ません。とにかく、道の真ん中に置いておくことは出来ないと 考えた私は、その車を後退させて歩道に乗りあげさせようとしましたが、ニュートラル 状態にも出来ないので、どこにも車を動かせません。ギアの表示版は、全く訳のわから ない方向を向いていますし、何度キーを入れてエンジンを動かそうにもすぐダウンして しまい、このままではバッテリーが上がってしまう様な気がして来ました。
『何か変だなあ。』
私はもう一度落ち着いて、マニュアル車の感覚を思い出しました。そして左足で見 えない足元の闇に向かってキックを入れると、グニャリと柔らかいものを押す感覚。
そうです。それがクラッチだったのです。彼がクラッチと主張していたものは実はブ レーキだったのです。ここまで解れば後は簡単です。私はクラッチを踏み込み、坂道を 後ろ向きに落ちていく力を利用して、そのまま歩道に乗りあげました。眼鏡の青年は、 私の素早いハンドル操作を唖然としながら見ていました。
(アホ。お前がブレーキをクラッチと言い張らなければ、とっくに脱出は出来ていたん だよ。)
しかし余計なことは言わずに、私は彼にクラッチの位置とギアの操作方法を教えよう としました。
(ええい、仕方ない。乗りかかった船・・じゃなくて、車だ!)
私は返事の代わりに、車をいきなり発信させて、王禅寺の丘を駆けあがって行きまし た。ドアを閉めるのを忘れていたので、カーブに差し掛かったところでで勢い良くドア が開きましたが、ハンドルを片手で握りながら、そのまま空にもう一方の手を差し伸べ 、ドアを捕まえると派手に引き戻しました。この時、一寸したスパイ映画のヒーローの 様な気分になったのは否めません。
王禅寺寮の方向に左折すると、そのままテニスコートのクラブハウスの前を通り過ぎ
、琴平クラブの前のロータリで車を一回転させると、そのままギアをセカンドに入れ、
猛烈な勢いで王禅寺寮から離れていきました。
彼の車を彼の自宅に送って行く途中、彼は私の運転技術をべた賞めし、日立 の方は親切だと連発していたようですが、私はとっとと彼と車をどこぞに置き去りにし 、この任務を終了したいだけでした。車を彼の家の前まで運び私は車を降りました。彼 の「バイクで寮まで送る」と言う申し出を断ったのは言うまでも有りません。
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『古い技術は新しい技術に淘汰される。』
これは真実ですし、やがてマニュアルの自動車は世の中からなくなるかも知れません。
しかし、運転の仕方も解らないまま車を発進させるような精神構造の人だけは、必ず
生き残るのです。
『ま、それもいいか。』と、自動販売機で買ったホットコーヒーを片手に、凍った光 を放つ冬の星々見ながら、再び私は寮に向かってとぼとぼ歩いて行きました。