「初雪」

江端さんのひとりごと

「初雪」

2000/09/23

 私は、毎日1時間10分かけて、コロラド州のフォートコリンズ市にある、ヒューレットパッカード社に出社しています(*1)。

 先日、9月半ばに一週間の夏休みを取りましたが、その後も、毎日、Harmony Road沿いの原っぱを元気に歩いています。

(*1)江端さんのひとりごと「徒歩通勤」

 コロラド州はアメリカ合衆国の中央部にあり、一年を通じて湿度が低く、夏もすごしやすい所なのですが、高度1500m以上の高原地帯であるため、日差しの強さが激しく、日中に素肌をさらしていると、肌が焼けている音が聞こえてきそうなくらいです。

 毎朝朝8時頃に家を出て会社に向かうのですが、帽子と水の入ったペットボトルを忘れて出た日には、会社につく頃には、会社の駐車場の真中を、ふらつきながらジグザグに歩くことになります。

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 3日前の朝。

 いつも通り、私は半袖のYシャツに半ズボン、ナイキのキャップ、スニーカと言う姿で、ペットボトルの水をあおりながら出社しました。

 その日も、照りつける太陽で、ふらふらになりながら会社にたどりついたのですが、建屋に入った瞬間、クーラーの爽やかな冷気が全身をおおい、思わず安堵の溜息が出きました。

 その日も、いつもと同じように、その足でそのまま自動販売機のジュースに向いました。

 2日前の朝。

 いつもより、ちょっと涼しい朝でした。

 来週、衣替えだな、と考えながら、たまたまクローゼットの一番手前に掛っていた長袖のYシャツとスラックスを掴み出して着ました。

 その日の凛とした澄んだ空気は、睡眠不足の肌に心地よく、秋の始まりを感じさせるものでした。

 今週末は、ロッキーマウンテンの紅葉を見に行こうかな、などと考えながら、いつものように英語テープの入ったウォークマンのスイッチを入れました。

 昨日の朝。

 ドアを開けた瞬間、厚い鉄板の様な冷気の壁にぶつかり、家の中に叩き戻されました。

 私は、クローゼットの奥の方から、冬用の綿入りのウインドブレーカーを取り出して、再度ドアを開けました。

 --- 澄みきった抜けるような真っ青なコロラドの空と、肌を焼く灼熱の太陽光線

 そんなものは、もはやどこにもありません。

 手を伸ばせば届きそうな低い空と、そこに広がる黒い雲。そして、時折思い出したように吹きつける風が、正面から顔にぶつかり、その冷たさで耳を切り落とされそうなくらい痛かったです。

 30分くらい歩いていたら、体全体がかじかんできて、あまりの寒さにテープの英語なぞ、まったく頭に入ってきません。

 ときおり吹きつける寒風に踊らされながら、ようやく会社にたどりつき、建屋に入った瞬間、その暖かさに思わず安堵の溜息が出ました。

 その日は、ジュースの自動販売機を通りすぎて、コーヒーサーバに向かい、コーヒーカップの熱さで手に血が通い始めたのを感じながら、目を細めながらコーヒーを啜りました。

 その日の帰りの夕方、会社まで自動車で迎えに来てくれた嫁さんと、助手席に座っていた私は、Harmony通りとRemay通りの交差点の所に立っている1st Bankの電光掲示板の表示を見て、驚きの声を上げました。

  38度(摂氏2度)

 「まだ9月だよなあ」と言いながら、お互いに顔を見あわせました。

 この日は金曜日で、我が家は、毎週金曜日には、ESL(*2)の英語の講師の先生に家庭教師をして貰っているのですが、この授業の後には、私は近くの酒屋にフォートコリンズの地ビールを買いに行くことにしています。

(*2)English Second Langage

 その日は、あまりの寒さ(気温は、確実に氷点下)に、冬用のダンボールから厚手の冬用セータとジーパンを引張り出し、さらにその上からウインドブレーカを着込んでから、外にでました。

 駐車場から車を出すと、夜の道路はガス(霧)がたちこめて、非常に視界が悪くなっていました。

 街路灯に照らされたガスは、なにやら幻想的な光景のように見えました。

 そして、夜の11時。

 アパート内のオレンジ色の照明灯に、小さくゆっくりと降りてくる小さな粒を見付けたのは、私でした。

 驚いた嫁さんは、興奮しながら日本の親戚にFAXのメッセージを書き始めていました。

 夏から冬への季節の移行に、わずか3日。

 秋は、一体どこにいったんだろう、と呟きながら、私たちは夫婦は呆然と初雪の風景を眺めていました。

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 そして今日。

 昨日降った雪は溶けてなくなったのですが、灰色の雲が全天を覆う天気だったので、予定していた週末のロッキーマウンテンの紅葉は諦めて、防寒具の買い出しに走り回っていました。

 家族全員分の、頭と耳をすっぽり包む毛糸の帽子、極寒地仕様の長靴と手袋を買い込み、コロラドの越冬体制に入りました。

 その後、私は、来週始めに締切となる急ぎの仕事があったので、会社に出かけ、仕事を片づけていました。

 仕事の内容をメールで日本に出し終えた夜の7時半、帰り仕度をして、ナップザックを背負って駐車場に出ようとした時、窓の外に広がる光景に、私は、今度こそ本当に声を失いました。

 --- 果して、私は、今日中に家に着くことが出来るだろうか

 HP内の広大な駐車場を照らす無数のオレンジ色の照明灯の光が照らしていたものは、オレンジ色の光の軌跡を描きながら自由落下している、建屋からでも形が確認できるほどの大粒の大量の雪の束と、その雪が作りだした一面の銀世界でした。

 雪の降る駐車場の中を走って、車に飛びこむやいなや、暖房を全開にして、車の中が暖まるのを待ち、ゆっくりと車を動かし始めました。

 街の灯の少ない夜のHarmonyで、フロントガラスに叩きつけられる大量の雪に悪戦苦闘しながら、車の中で聞いていたラジオの天気予報によれば、この雪は明日の朝まで降りつづき、最悪の場合、明日終日降り続けるとのこと。

 ラジオの声は、この雪は本物なので、外に出ている人はすぐに家の中に入るように警告を出していました。

 そして、今なお、雪は激しく降りつづけており、この様子では明日の朝までには15cm以上の積雪となることは、間違いなさそうです。

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 9月23日。

 秋分の日の今日。

 フォートコリンズの街は、我々に有無を言わせることなく、わずか一日で、その長く厳しい冬の始まりを、高らかに宣言したのでありました。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)