海外で生活した人は、口を揃えて「日本の運行ダイヤの緻密さ、正確さ」を褒め称えます。
列車運行管理システムは、もとい、我が国が誇る、最高傑作の作品です。
その最高作品ですら、コントロールできないのだから、仕方がないのだ、
―― と、言い聞かせないと「切れそう」な自分を感じています。
なんで、30分の余裕を見て、なお、重要な会議に「遅着の連絡」を入れなければならないのだ。
なんで、私の出張の日の、その時間をピンポイントとして、人身事故が起きるのだ。
と。
私も、「自分だけに都合の悪いことが起っているという思い込みは、錯覚である」ということは、判っているのですが。
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文明国の所業にあるまじき非道であり、人権の観点からも許されざる行為であり、
人道上も、倫理上も、衛生上も、なにより、列車運行の安全上、大問題であることは分かっていますが ――
『人身事故で、バラバラになった遺体の破片を終日放置したまま、通常運転を強行する』
なんか、そういう現実と対峙したくなるなぁ、という想いを抑えられないことがあります。
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昔、ラジオ番組で聞いたことがあるのですが、高校生が、警察にお願いして、飛び込み自殺の現場写真を貸与して貰い、それを文化祭で展示したことがあったそうです。
もちろん、極めて真面目な自殺問題に対する取り組みの一貫として、です。
「凄いことを企画する高校生がいるもんだなぁ」とびっくりしたので、よく覚えています。
もの凄い反響があったようで、良い意味での自殺への「幻想破壊」がされた、ということのようです。
でも、今同じことをして、同じような効果が得られるか 私には判断つきかねます。
そのようなコンテンツは比較的簡単に入手できるようになってしまったからです。
それでもなお、私は、世の中にある、現実を、文学でも、絵画でも、写真でもなく、五感のリアルで感じ取ることを、―― それが、心に酷い怪我をさせることになったとしても ―― 必要ではないか、と思っています。
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例えば、「死刑執行の立ち会い制度」などは、その運用に関しては、まず死刑囚の同意を絶対的条件として、何重ものチェックや審査を行ったとしても、国民に開示する制度を用意すべきではないかと考えます。
我が国の国民の多数が「是」としている制度なのですから、その制度の実施状況を、国民自身でチェックできないというのは、やっぱり変だと思うのです。
その結果で、死刑制度の「是」が強化されても、「非」に転換が図られても、それは、どちらでも良いと思うのです。
法律は国民の合意で成立されているものなのですから、その運用を国民はチェックする権利と義務があると思うのです。
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「そんな厳しい場面に対峙したくないし、そもそも、私には、そのような場面に係わることは一生ないはずだ」という方もいると思います。
それは、また、その通りだと思います。
私は、私達の全てが世の中の森羅万象に対峙して敢然と立つ必要があるとは、思っていません。
見たくないものは、目を瞑って通り過ぎる、で十分です。
ただ、現在の所、回避する可能性が絶無である「死」についてだけは、そろそろ直面する時代ではないかなぁ、とも思っています。
まあ、たまたま、今私が、そういう立場に立っているだけ、ということかもしれませんが。
昔、fjというニュースグループがあり、そのサブグループに、色々なコンピュータ言語を扱うものがありました。
ある日のこと、「コンピュータによる積分計算結果が論理値と合わない理由」について尋ねている質問がありました。
私は直ぐに、コンピュータでの計算結果で避けられない「丸め誤差」というものであると気がつきました。
(小数点以下の極めて小さい単位で値を丸めて計算した結果、計算結果と正しい値がわずかにずれる現象のこと)
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「ま、誰かが指摘するだろう」と放置しておいて、数時間後に見てみると、大量のコメントが付いていました。
しかも、その内容が、まあなんというか「下品」。
「丸め誤差」であることだけを教えて上げれば良いのに、
『そんなことも知らないのか』『これだから素人は・・・』というような、問題とは無関係なコメントが、―― いいですか、20個以上も連続して投稿されていたのです。
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「丸め誤差」を知らない人が、「丸め誤差」を知らないことは、別に何も悪い訳ではありません。それを、まるで人格批判のように責める、この果てしない『下品さ』
しかも、一定数のコメントが付いたのを確認してから、そのような批判を始めるところなど、現在のツイッターの「炎上」というやつにソックリです。
多数のコメントが出た「後」で、その尻馬に乗って、人の悪口を言うことは、目立たないし、さぞ気持の良いことなのでしょう。
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私は、このような人間が「嫌い」です。
できれば、あなたにも「嫌い」になって欲しいですが、それは私の我儘(わがまま)でしょう。
とりあえず、私は、そのようなツイートを読みたくないので、そのような人のフォローを、取り消すことにしています。
最近のアニメの設定はかなり難しい、というお話は以前しました。
例えば、神話の世界の話と現実の世界を融合させる作品など、原作者の勉強の度合いが問われるものが多いです。
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私の高校時代の友人の一人に、こういう創作をして、実際に絵まで描いて、フィギュアを造っていた男がいました。
恐ろしい程の先見の明だと思います。
しかし、30年以上も前の世界は、インターネットもなく、コミュニティもなく、そして「オタク」という言葉すらなく、そのようなサブカルチャーの 存在自体が認められていなかった時代です、
このような時代にあって、このような創作を行う者が、どのように取り扱われていたかは、想像に難くありません。
単なる、変人扱いです。
私も、その作品をどのように評価するべきなのか、、その方向すらも分かりませんでした。
彼のお母さんから、密かに相談を受けたこともありますが、私はまともな返事ができませんでした。
今になって思えば、現役の男子高校生に対して、無茶振りもいいところです。
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彼が今どのように過ごしているのか、全く分かりません。
「時代に愛されない」というのは、こういうことなのかもしれません。
そして「時代に愛されない」という生き方は、多分「英語に愛されない」という人生よりも、はるかに辛かっただろう、ということだけは分かります。
会社に、コーヒーをつくってくれる自動販売機が導入されました。
缶コーヒーをポンと投げつけてくるのではなく、ボタンの投入後、60秒の製作時間(ドリップとかしているのだろうと思う)を要求する、本格的なコーヒーメーカーです。
このコヒーが、本当に美味しくてですね、私は、特にシナモン入りのコーヒーが特にお気に入りです。
値段は少々高い(180円)のですが、それでもスタバ(スターバックス)よりは安くて、美味しいと感じます。
今や、出社が憂鬱な朝に、私の背中を押してくれる大切な「機械」です。
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自販機で、ここまでのコーヒーを作ってくれるのであれば、もう人間はいらなくなるかもしれないなぁ、と本気で思います。
現在のところ、機械では、店の雰囲気作りや、店舗のメンテナンスはできませんが、それももう時間の問題だけかもしれません。
初音ミクコンサートに使われているような3Dディスプレイ表示のインターフェースや、掃除ロボットなどは、十分実用レベルに達しています。
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今、図書館に「機械との競争」という本を予約しているのですが、製造分野だけでなく、サービス分野にも「機械」が入ってきたら、我々の雇用はさらに脅かされることになるのでしょう。
今のところ、人間が雇用されているのは、「安い」からです。
機械の初期導入コストとメンテナンスコストが、それを下回れば、その理由がなくなります。
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「人間味のない機械など」というセリフは、過去全てのパターンで敗北しています。
まず、自動販売機は勿論ですが、レジスターしかないスーパーマーケットは小売店に対して圧勝しています。
駅の自動改札などは、国鉄労組が存在していなかったら、もう20年早く導入できたと言われています。
近未来では、バスの運転手はいなくなり、自動運転は間違いなく実現されるでしょう。
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で、その流れを止めることは、誰にもできないのだろうな、と。
「ラクをしないと成果は出ない」という本を読んでいます。面白いです。
ここからは私の推測ですが、この本の表題「ラクをしないと成果は出ない」は、その本の内容をそのまま反映しているか、と問われれば、確かに反映しているとは思います。
しかし、ここでいうところの「ラク」と、私の考えている「停滞主義」の「ラク」は随分、乖離(かいり)があるなぁ、と感じます。
しかし、今日の話題は、書評ではなく、本の「タイトル」の方です。
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私の寄稿コラムのタイトルに関して、私にはその決定権がないというお話は以前しました。
ですから、「タイトルに引かれて読んだら、面白くなかった」という、私を二重に傷つけるツイッターのコメントを読むと、
―― タイトルは、私の責任ではないぞ!
と、言いたくなることがあります。
「どうせ傷付けられるのなら、自分でタイトル決めたい」
と思い、最近では、タイトルの提案もさせて貰っています。
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「ラクをしないと成果は出ない」というタイトルは、確かに上手いです。
著作者と編集者の苦労の後が見て取れます。
「この本を買ってみようか」と思わせるような表題を「キャッチー」のあるタイトルと言うそうです(編集担当者の方から教えて貰いました)。
最近、こういうタイトル、多いなぁと思い、ちょっと調べてみました。
■ライトノベル、コミック系
「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」
「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」
「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」(句読点「。」つき)
■長い題目という観点では、
「マンションは何千万円もして人生最大の買い物なのに高いか、安いかわからないしどうやって選んだらよいかわからない人が読む本」
「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」
などなど。
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私の寄稿コラムの場合、
当初の提案が「TPPにおける知財への影響への懸念」という感じだったのですが、
これが、編集担当者さんの手を通ると、
―― プロっていうのは、こういうことなのだなぁ。
と、しみじみと思ったものです。
近年、コンピュータセキュリティに関する意識が高まっているとは言え、まだまだ、一般には、ウイルスとか、不正アクセスは、どこか別の世界の事件のような、現実性を欠くような話であるとは思うのです。
しかし、パソコンのみならず、スマホやタブレットが、国民全員に所持されることが確実とされる時代にあって、コンピュータセキュリティは、多分、日常になっているのだろうと考えています。
とすると、「セキュリティ天気予報」というものが、本格的になるのかもしれません。
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「本日は、未明から正午かけて、東南アジア全域からの我が国へのDDOS攻撃が予想されております」
特に証券会社のサーバを中心に活発な攻撃が予想されますが、午後からは、防衛省のネットセキュリティ部門が、発信源をつきとめ、ルーティングの遮断と、定例の報復攻撃を行うと思われます」
「さて、次に。週間予報です。今週は比較的、トラフィックの増減が少ない、穏かな週末になると予想されておりますが、関東地方を中心に、なりすましによる、パスワードクラック攻撃が警戒されております。」
「週末おでかけの前には、パスワードの変更とファイヤーウォールのポートを閉じてから、お出かけ下さい」
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とまあ、雨の予報に傘を持っていくように、毎朝出勤時にパスワードの変更をする時代になるかもしれないなぁ、と思っています。
私が、リュックを背負って、アジアを歩き回っていた時のことです(「バックパッカー」と言われていました)。
バックパッカーの旅行者と一緒に、タイのバンコクを回っていた時、彼の仲間との待ち合わせに付きあったことがあります。
しかし、所定の時間になっても、その仲間は姿を現わしませんでした。このような旅では、よくあることでした。
しかし、その待ち合わせでは、確か「帰国フライトのチケット」の手渡しという重要な内容で、下手すると、彼は、帰国する手段を失うかもしれないという事態でした。
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私が驚いたのは、その後です。
「必ず何かのメッセージを残しているはずだ」と言いながら、彼はその周辺を探し出して、電柱から飛び出している針金に引っかかっている紙を見つけました。
「お、これだ、これだ」
その紙には、『落ち合う時間と場所の変更』を記載した手書きの文章が記載されていました。
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携帯電話もメールもない時代、ましてや海外における連絡手段が絶無であった時代において、
我々、海外一人旅の旅行者は、ほとんどこのような、―― 現代にあっては信じられないような原始的な方法で ―― 海外の旅を生き延びていたのです。
私は、寄稿コラムの先頭、または本論を開始する前に、
「こんにちは。江端智一です」
と記載しています。
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これは、「丁寧に挨拶をしている」という訳ではなく、
「ここから先は、私、江端智一が書いている文章です。私の文章が嫌いな人は、ここで読むのを止めてね」
という意味で使っています。
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結構、良い方法だと思っています。
あなたは不快な文章を読む必要がなく、私も不愉快な批判コメントを貰うこともない。
「批判によって、人は成長するのだ」というという意見は多分拝聴に値するのだと思うのですが、私は、10年も前に、このことを公に拒否しています。
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(以下、江端さんのひとりごと「壁」より抜粋)
(その1)
―― いつでも思うのですが、どいつもこいつも、何故私を『改良』しようとするのだろうか。
鬱陶しい。
社会的な常識や、組織的な規範を基準とした倫理観から、私を恫喝するくらいなら、その手間隙かける時間で、とっとと私を切り捨てればいい、と思うのです ――
(その2)
――しかし、まあ、たくさん書いてきましたけど、私の言いたいことは、要するにこんだけです。
私は常日頃から、人に意見をされる運命にあるようですが、そういう運命にある人間の立場として一言言わせて貰えるのであれば、『自分の価値観を、江端に押し付けるべきではない』と言うことだけは、あなたに是非とも押し付けたいのです ――
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人の意見をきちんと聞き入れない私は、これからも人間として成長せず、そして同じ失敗を繰り返すのだろう、と思います。
しかし、そのことであなたに迷惑をかけていない限り、私のことは放っておいて欲しいのです。
「私が成長しないこと」や「私が失敗すること」は、私だけのものですから。
今回の寄稿コラムでは、クリエイティブコモンズライセンス(CCライセンス)に関して、私なりの理解を記載しました。
それで、今回、初めて、CCライセンスの「ツンデレ風説明」に挑戦してみたのですが、リリース後、結構ドキドキしていました。
クリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)から、公式に抗議されるのではないかと、と思いまして。
いえ、まだまだ安心はできませんが。
『まあ、ちょっと分かったような気になっている奴が、好きなことを書いていやがる』と思われたのであれば、私としては大変「本意」です。
実際、その通りだから。
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さて、今回、その「ツンデレ風」表現を記載するに際して、私が参考にしたのは、「化物語」 の「戦場ヶ原ひたぎ」です。
正直、文献としては、それくらいしか集められなかったからです。
正しい用法、文法で使っているか否かも、正直自信がありません。
それはさておき。
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多分、皆さんは、江端が「ウケ」を狙って、このような表現方法をしたのだろう、と思われているかもしれません。
勿論、私は日常的にそのようなことをする者ではありますが、今回に限っては、「ウケ」以前の問題でした。
普通の説明の内容では、私の腹に落ちてこなかったのです。
私は、(ポリシーという程のものではないのですが)、自分の腹に落ちない内容を書くことだけは、しないようにしたいのです。
私の文章を、私が後から読んで、「さっぱり分からん」というのが、嫌であるからです。
「3年前に出願した自分で記載した特許明細書を、自分で再度解析する」などというアホなことを、寄稿コラムにまで広げたくないからです。
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例えば、
■ CC-BY-ND とは
「原作者のクレジット(氏名、作品タイトルとURL)を表示し、かつ元の作品を改変しない条件で、営利目的での利用(転載、コピー、共有)が行えるCCライセンスです」
と記載しても、私自身が分かりません。
そのような内容をコピペや転載するのは、著しく誠意に欠けると思うのです。
むしろ、
■ CC-BY-ND とは
「私の作品をちょっとでも改変したら許さないんだからね。でも、『お金儲け』は許してあげるわ。とにかく、私の名前だけは表示しなさい!」
と書き直すことで、ようやく私には理解可能な状態となった訳です。
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まあ、私が技術や法律関係のコラムを寄稿しているのは、詰まるところ、「自分なりに理解したい」が一番大きなモチベーションです。
毎年、梅雨の時期になると、玄関の門を中心に大量発生していた、不快害虫「ヤスデ」が、今年は発生しませんでした。
昨年なんか、毎朝、殺虫剤を使って、毎日数十匹単位で大量駆除していたことを考えると、嘘のようです。
嫁さんや娘などは、「ヤスデ」を見るのも耐えられなくて、目を逸らしながら殺虫剤を散布するので、効率悪いこと、この上もありませんでした。
しかも、死ぬ前に、思いっきり不快な臭いを発するという、根性のある奴でもありました。
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今年発生しなかった理由を考えてみたのですが、行き着く結論は一つ。
我が家の庭の「徹底的な土壌汚染」です。
「ヤスデ」対策の駆除用の薬(農薬のような粉)、これまで何度、庭に散布してきたことか分かりません。
そのような散布薬には、当然に「毒性の高い物質」が含まれている訳ですから、これまでキログラム単位の「毒」を、自分の家の庭にばら撒いたことになります。
「不快害虫を駆除する為なら、自宅の土壌汚染も省みない」
それが、江端家夫婦の基本スタンスです。
もし、この庭で家庭菜園をしたとしても、私はその作物を絶対に口にしないでしょう。
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・・・と、ここで、放射能による土壌汚染の話に繋げようか、とも思いましたが、流石に不謹慎にも程があると思い、止めることにしました。
焼こうが、埋めようが、どこに移動させようが、結局のところ、一定の時間を経過しない限り、絶対に失われることはなく、
その土壌に触れなくても、土壌自身から全方位に発射しし続け、それが、何十年も続くという「毒性」。
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我が家の土壌汚染のレベルとは、到底、比較になりません。
法律はその一文一句に至るまで、きちんとした理由付けがされていることを知ったのは、特許法の勉強を始めてからのことです。
■この法律のこの条文の趣旨は何か。
■そして、この法律のこの条文ができしまうと、誰の利益になり、誰の不利益になるか。
■さらに、この条文は、正義やロジックを含めた社会通念上、妥当と言えるか。そして、国際的な潮流とマッチしているか。
■これらを全体的に考慮すると、この条文制定することは「我が国の国民に利益がある」と言える。
という、論理付けが、全ての法律の、全ての条文の、全ての一句に至るまで、かっちり作られている ―― それを知った時に、
「まあ、なんとまあ、『法律を作る』ということは、大変な作業なのだろう」と、驚いたことを覚えています。
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例えば、「特許法第17条の2(補正)」を挙げてみるとこんな感じになります。
■特許出願を、出願後に補正、つまり「修正する」ことは、あとから別の発明を「追加」できることになるから、ダメ。
■でも、我が国の特許権は「早い者勝ち(先願主義)」を採用しているから、「全部ダメ」とすると、発明者が「かわいそう」すぎる。
■でも、「無制限」に、何回でも修正することを許すと、特許庁も「ダルい」し、権利内容が後からコロコロ変ると他の人にも迷惑がかかる。
■という訳で、本条では、補正できる「範囲」と「時期」をきっちり決めて、出願人も、特許庁も、他の人も、「ま、いいか」と言える範囲の補正だけ許すことにするよ。
という感じの理由づけが、ちゃんと記載されています。
この他、スポーツのルール、校則、社内規則、なんでも良いのですが、それらには、必ず、誰が見ても「なるほど、そういうことか」と納得できるだけの理由が必要なのです。
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今朝、嫁さんに車で駅まで送って貰った時のことです。娘(長女)の学校の前を通り直ぎるときに、嫁さんが言いました。
嫁さん:「お、手を繋いで、校門にかけこんでいるカップルだよ。珍しいなぁ」
実際に珍しいのです。
娘の通っている中学は、男子と女子の建屋が分離している共学なのです(正直、その制度趣旨が、私には、よー分からんのですが)。
私:「この学校って『男女交際禁止』の校則があったけ」
嫁さん:「ないよ」
私:「ま、そうだよね。今時、そんな・・」
嫁さん:「あ、でもね。娘(長女)の所属している演劇部は『部内恋愛禁止』なんだって」
私:「はぁ?なんじゃ、そりゃ? その理由は?」
嫁さん:「面倒くさいことになるから」
私:「・・・?」
嫁さん:「演劇部の中で、恋愛トラブル起こされたら、当事者は勿論、他の部員の演技にも影響が出て、『面倒くさいことになるから』だって」
私:「はあ、確かになぁ。運動部や他の文化部ならともかく、演劇部の活動において、人間関係のギクシャクは、演技に対して、決定的に致命的と言えるな」
嫁さん:「逆に、演劇部員以外との恋愛はどーでも良い、となっているらしいよ」
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こういう「恋愛禁止令」であれば、理系の法学初学のエンジニアでも、とても分かりやすくて、良いです。
自宅の地デジ対応のハードディスクレコーダが、動かなくなってしまいました。2年の寿命でした。
バッファローのDTV-H500Rという機種で、「とにかく地デジの録画ができれば、それだけで良い」というポリシーのもと、最小限の機能で安価、というのが気にいって購入しておりました。
私は、実際に送信機の開発にも係わったことがあるエンジニアですから、製品コストとその故障期間に関する、微妙な関係を理解できている方だと思います。
―― 安物は、早く壊れる
当然の話です。
しかし、このような現実を、なかなか認容できない人も多いようですけど。
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この製品の購入価格が約1万2000円、24ヶ月間稼動てくれたから、原価償却コストが一月500円。
私の感覚では「ま、仕方がないかな」という感じです。
この手の製品は、製品コストと合わせて、保証期間ギリギリまで動くように設計します。
「コスト意識」とは、そういうことです。
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製造国を見てみると、普通に"Made in China"と記されていました。
日本製の製品であれば、保証は1年間、交換部品は7年間持っていて、多くの場合、5年は壊れません。
このような家電製品に係わらず、日本製の製品は、原則として「壊れない」。
しかし、この「壊れない」日本製品が、保守サービス事業の発展を妨げてきた、という事実があります
(このあたりの詳しい事情については、私の口からは言えないネタが多数ありますが、勿論、墓場まで持っていく予定です)
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ただ、今回の想定外は、「故障しても自分で直せるだろう」という範囲を越えて、壊れたということです。
最悪でも、チューナ部だけ救出すれば、寝室のテレビに使える、という計算がありました。
しかし、HDD周辺が壊れるという予想に反して、「地デジチューナ部」の基盤がやられるとは、結構驚きです。
さすがに、これは、私でも手を出せない。
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それにしても、「2年で壊れる基盤を作る」というのは、逆に、「かなり難しい」と思うのです(基盤の故障は、初期故障(一週間以内)が多い)
さすが、3000年の歴史を有する隣国の技術は、侮れません。
このような、「正確かつ緻密な故障発生技術」こそが、新しい技術開発への動機付けとなり、次世代製品への需要の拡大を牽引(けんいん)していることは、事実です。
昔、「アムウェイ」という、マルチ商法の集会に出席させられたことがあるというお話をした記憶があります。
その集会で、私は、
「その商法は、人間の人口が無限大の場合のみに成立する。高々100億人にも至らない地球上の人口ではお話しにならない」
「足し算と引き算ができる人間であれば、殆どの人が損をすることになることは、簡単に分かるはずだ」
と言って、集会の主催者の顔を潰した、というお話もしたように思います。
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「ギャンブルに絶対勝つ方法」で検索すると、結構な数ヒットして面白いです。
高校できちんと確率の勉強をしていれば、こんなことを書いて恥をかくこともなかっただろうに、と思います(気の毒とは思いませんが)。
そもそも「胴元」という概念が入っていないのも変ですし、それでも絶対勝てるというのであれば、フェアでない条件(要するに不正)が入っていることです。
どんな複雑な方法であり、それが数式で示すことが困難であったとしても、
「乱数を使ったシミュレーションプログラムを、ちょろっと(数億回くらい)回せば、すぐに分かることです。いま、ここで、お見せしましょうか?」
と、パソコンを取り出すフリをするだけで、大抵、そのような怪しげな人間は追い払えました。
エンジニアやっていて、プログラミングの経験は、こういうことでも役に立っていたんだなぁ、と、ふと、思っています。
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「ギャンブルに絶対勝つ方法」は「ギャンブルをやらないことだ」とは、よく言われていることです。
払い戻しが100%を越えるギャンブルは、存在し得ないからです。
ということは、ギャンブルに一度も勝ったことがなく、親父に連れられた12歳の時に入ったパチンコ屋が、最後の「賭場」だったことから鑑みて、
私は「100%ギャンブルに勝ち続けていて、その連勝記録を、今なお更新中である」と言っても、いいんですよね。
―― 書いていて、虚しいですが。
私は、会社でメールを書く時も、人を呼ぶ時も、できる限り「さん」または「君」を付けるようにしています。
何故かというと、私は、「組織とは利潤を得る為にたまたま集った赤の他人の集合体」と思っているからで、私には、赤の他人を、呼び捨てにするのが難しいからです。
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しかし、これは私の勝手なポリシーに過ぎませんので、私のことを「江端!」と呼び捨てにする人(会社の幹部等)に、別段、腹を立てたりはしません。
上位下達のヒエラルヒーで構成される組織では、命令系統がブレると機能しません。
組織の命令系統を保持するファンクションとして、私のことを、「江端!」でも「アホ」でも「馬鹿野郎」でも、その必要があると考える人が、どんな呼び方をしようが、OKです。
「所詮、組織を離れれば、アンタと私は他人だ」と割り切れば、組織内での呼び方など、私にとっては、単なる「記号」です。
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さて、私のコラムやエッセイの中では、嫁さんのことを「嫁さん」と書いています。これは、嫁さんからの強い希望があったことに因ります。
私のコラムの原稿の最終校正チェックしてくれているのが嫁さんで、その嫁さんが、嫁さんのことを「嫁さん」と書いて欲しいと言っているのですから、是非もありません。
それでも一年に一回くらいは、確認していますが、現在のところ、変更依頼はないようです。
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それにしても、『なんで、名前でもなく「嫁」でもなく「妻」でもなく、「嫁さん」がいいの?』と尋ねてみたことがあるのすが、
『昔、職場で尊敬してた上司が、奥さんのことを語る時に「嫁さん」と呼んでいる時の優しい表情が、とても好きだったから』なのだそうです。
「なかなか、いい話だなぁ」と、ちょっと感動してしまいました。
まあ、本人の強い希望なのですし、また、私も「妻」などという単なる関係性やベクトルを示すような称呼は嫌ですし、自分の最愛のパートナーを「愚妻」などという馬鹿げた呼び方など、仮に嫁さんに頼まれれたとしても、御免です。
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さて、話を戻します。
私が希望する、私の呼ばれ方は、「江端さん」または「江端君」です。
但し、組織の中では、どう称呼して頂いても結構です。
しかし、組織の外で「江端」と呼ばれれば、『おい、なれなれしいな、貴様』と、直ちに言い返す準備があります。
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私を、いついかなる時においても、「江端」と呼び捨てて良い人間は、
私の師匠「エルカン」、友人の西野、藤井、戸高教授、石原教授、大学の研究室の先輩と、大学の同期の仲間だけです(後発追加するかもしれませんが)。
私が一番楽しかった時代を一緒に創ってくれて、そして、一番苦しかった時に、助けてくれた大切な人たちだからです。
この週末は、新幹線で実家に帰って、家事全般をやっております。
分っていたようでいて、やっぱりよく分っていなかったなぁ、と思うのが「家事」です。
育児が「頂上の見えない、峻烈な岩登りのような戦場」であるなら、
家事全般は「常に緊張が解かれず、ライフルを構えながら、ゴールのない原野を歩兵し続ける戦場」です。
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■消えていく食料と、追加しなければならない食料、食材が腐り始める時間
■栄養バランスのよい食事、飽きのこないメニューの作成、
■間隙をぬって行う洗濯や掃除、壊れている電気や水廻り、戸棚、網戸の機器の修理、時間制限のあるゴミの廃棄、
(その他、病院の訪問、意思疎通の困難なコミュニケーション、解決不能な愚痴に対して「切れない」ストレス・・・)
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一食や二食程度の食事を作って、あるいは、皿洗いや風呂掃除をする程度のことで、
『家事をやっている』と公言する男に告ぐ。
-----
死ね。
クリス・アンダーソンの「MAKERS(メーカーズ)」を読んでいます。
「ロングテール」も、そして「フリー」を読んだ時にも、衝撃を受けましたが、この「メーカーズ」も、本当に刺激的です。
そして、現在、私の目の前にある大きな希望です。
-----
クレイトン・クリステンセンの超著名な著書「イノベーションのジレンマ」が出版された当時、偉い人たちが、この本に、徹底的に洗脳されました。
そして、「『破壊的イノベーション』が創成できる」という、バカげた勘違いして、阿呆な運営方針を打ち出したころから、私は、ずっーーーと、ムカムカしています。
しかし、私に言わせれば、『破壊的イノベーション』を、「破壊的」に「破壊している」主体は、
■勘違いした、偉い人達と、
■勝負に出ない、我々エンジニアと、
■「出る杭」を「出た後」に評価する、その他の日本人
の3人だと思っています。
(この話は、いつか、纒めたいと思います。酷い長文になりそうなので、今回は控えます))
-----
「車輪を100回でも再発明してやる」と考えている私は、多分、エンジニアとしては、古くて、ロートルなのでしょう。
本当のところ私は、
■「他人の作った車輪と、私の作った車輪が、完璧に同じになるわけがないだろう」
■「車輪を自分で理解してからつくった荷車が、理解しないで作った荷車に負ける訳がないだろう」
と考えています(職場の幹部には、口が裂けても言えませんが)。
そして、
■「開発のモジュール化」とか「既設パッケージの活用」という言葉を使って、
■「コストダウン」「短納期」「グローバル展開」などと言いながら、
■エレガントにプレゼンしている私は、
この時間軸の私ではありません。
-----
「メーカーズ」は、この辺の、私のここ数年の蓄積していた鬱憤を晴らしてくれそうです。
はやく読了しなければ・・、と思いつつ、早く終わりたくなくて、一文一文丁寧に読んでいます。
-----
ただ、「メーカーズ」で黙示的に規定されている仮説(と私は思っている)
「人間であれば、すべて創造のプロセスに熱中する/興味がある」
は、ちょっと違うと思うのです。
なぜなら、滅茶苦茶身近に、でっかい反例があるからです。
私の嫁さんです。
彼女は、地球上のすべての製造物の「完成物」にのみ興味があります。
その製造「プロセス」には、髪の毛一本程の興味もありません。
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今、嫁さんから、娘の部屋に、(それなり品質の)本棚を作り込むことを依頼されているのですが、嫁さんのアクションは原則として2つしかありません。
「作って」という依頼と、制作後の「良い」「悪い」の評価です。
比して、私は、
「採寸し」「図面を描き」「強度を推定し」「材料を加工し」「壁をぶち抜き」「ビスを捩じ込み」「板を配置する」
という、この一連のプロセスを、『最大級の娯楽』として実施しています。
-----
これを、役割分担 ―― と呼ぶには、ちょっと不公平な気もしますが、まあ、上手くやっていますよ、私達夫婦は。
それなりに楽しく。
私は、新車、新品、新製品には、全く拘りがありません。
むしろ、そのような「初物」は、初期不良が怖くて、手を出さない方です。
ですので、ヤフオク(ヤフーオークション)やら、Amazonの中古本販売は、私にとっては、非常に貴重なサービスです。
一例としては、数年落ちのディスプレイなどを、定価の1/20の金額で購入しています(まあ、消費電力などに難ありですが)。
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ヤフオクでは、キーワードをリストに登録しておくと、オークションの開催を報せてくれるので、大変重宝しております。
例えば、パソコンやプロジェクタの型番をキーワードとして入力しておくだけで良いです。大抵、毎日、オークション開催状況が報告されてきます(「GPS信号デコード装置」だけは、これまで一度も報告がありませんが)。
しかし、社会人である身の上ですので、オークションのサイトに頻繁にアクセスすることができません。
そこで、私の場合、最初から、自分が出せる金額の最高額を入力しておきます。
が、この方法で、最近負け続けています。
オークションは一般的に6日間などという長期に渡るので、6日間を勝ち続ける金額を、最初から提示するのは、かなり無茶なのです。
大抵、オークション終了10分前の、「私の提示金額+200円」くらいで、負け続けています。
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オークションの終了直前の15分前に、メールで終了通知を送ってくれるのですが、私がそのメールに気がつくのは、大抵、翌日の朝になります。
当然、もう手遅れ。
リアルタイムで、そのメールに気がつくと良いのですが、私は、そんなに頻繁にメールをチェックしませんし、もしメール到着を「音」で通知したら、煩くて仕事になりません。
携帯電話、スマホでは、特定のメールだけ音声で通知する、というのも設定できるようなのですが、多分、私は、それでも見逃すと思います。
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となれば、「オークションクローズ直前の電話通知サービス」してくれないかなぁ、と思うのです。
可能なら、案件に関するコメントも貰えれば、さらに嬉しい。
例えば、「これ、詐欺くさいです」、「出展者の与信が低いですね」、「私なら、この案件は見送ります」とか。
でも、多分ダメでしょう。
そういう、リアルなサービスを徹底的に排除して、人件費を削減するところに、インターネットのオークションサービスの「売り」があるはずだと思うからです。
「そこに、旧来の方式取り入れて、どーする」と、自分で突っ込めます。
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『「昔はよかった」という言葉を、ITエンジニアだけは使えない』
という現実が、最近、どんどん辛くなりつつある日々です。
電子メールの利便さを説き、Webによる情報共有こそが、人類の相互理解に資して、世界平和に貢献するのだ(さすがに、ここまでは言っていないけど)、などと、適当なことを言ってきたきた、「つけ」が、
今、回ってきている、と実感します。
日本人は、"4"と"9"の数字が嫌いですよね。
下駄箱、ロッカーも、4か9の入っている番号は、あまり使われないようです。
『私は、迷信なんぞ馬鹿げたものは信じない』 ―― という訳ではありません。
黒猫を見ると、思わず「胸の前で十字を切ってしまう」くらいのことはしてしまいます(嘘です)。
私にとっての、今、切実な「迷信」とは、私がJR中央線に乗車すると、必ず、人身事故が発生し大切な会議に遅刻をする、という、現実に被害甚大な「迷信」です。
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いずれにしても、数字は、あまり気にならないです。
だって、"4"も"9"も"49"も、別に素数という訳ではないですし、全部"2","3","7"の二乗数ですよ。なんか「美しい」って思いませんか?
―― 思わないか。
いや、私も思っていません。正直、どうでもいいです。
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まあ、ともあれ、これはこれで良いのです。
私は、混んでいる下駄箱やロッカーの中で、簡単に空いているものを見つけらるし、
"死"とか"苦"を連想する人は、それを忌避できるし、
これを、Win-Winの関係というのですよね。
―― 言わないか。
私は、かつては、バイク乗りでした。
ただ、私の場合は「バイクに乗るのが好き」という訳ではありませんでした。
省エネ、機動性、駐車場の確保の容易さ、メンテナンスコストの小ささ、そして、「乗せるべき同乗者が存在しない」という、全ての条件をクリアする、最適な移動手段であった、という理由だけです。
ですので、「暴走族」 改め「珍走族」に属する人間の、思考形態が全く理解できないのです。
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私は、集団で行動するのが苦手、というか嫌いです。
一人を貫くことは、結構大変で面倒なことが多いですが、その代替としての「気楽さ」の方が好きです。
また、私はモラリストではないのですが、人に迷惑をかけずにいられたら、それが一番いいとは思っています。
ですから、私が、人に迷惑をかける時と決めた時は、相手に止めを刺すことを最終目標とした「確信犯」として行動します。
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深夜の街を、マフラー外して集団で走行する行為は、他人に迷惑をかける/かけないという行為の結果以前に、その行為自体が、私には理解不能ですが、先日、久々に、あの「低能服」と「低能改造バイク」にのった、完全無欠の「低能ライダー」を目撃して、変な感動をしてしまいました。
―― まだ、生き残っていたのか。
しかし、この手の感想は、時間の無断ですので、今回はこの方向に論を進めず、同じ「ライダー」の視点から、考えてみました。
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■集団で珍走する ―― スピードコントロールも含めて、面倒です。バイクに乗っている人ならご存知だと思いますが、複数のバイクを群として移動するのは、難しいのです。
■爆音を鳴らす ―― 近隣住民の迷惑は勿論ですが、自分自身の聴覚障害になります。そもそも、エンジニアたちの技術の結集を破壊する行為が、許せないと思います。
■危険運転をする ―― そもそも、自動車等と違って、生身の体を剥き出しにして運転する移動手段なのですから、普通に運転していても危険です。それを、危険運転するというのは、想像を絶する低能さです。
■上下関係が厳しい ―― いずれは経験することになるのに、若い内から、そのような上下関係の拘束下に置かれて、何が嬉しいのか。その程度の事態が、最初から想定できないのか。
■集団リンチが怖くて抜けられない ―― 弱い上に、頭が悪い。法律やという武器の使い方を知らないし、教えてくれる人もいないのだろうと思う。
■違法行為 ―― 警察権力だけでなく民衆をも敵に回す。主張すべき「理」が何もない。
■群れる ―― 面倒くさくないのかなぁ、心底から思います。
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だめだ。やっぱり、どうしても理解できない。
多分、山のような文献を読んでも、私はその答えに辿りつけないのだろう。
何か「負けたような気」がして、悔しい。
これを理解するには、やはり「実践」しかないのだろうと、思う。
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もし、私の入会を許諾してくれる「珍走族」の方、いらっしゃいましたら、ご連絡頂けませんでしょうか。
ただ、当方、休日でも出勤したり、プライベートでゼミにも通っていますので、
■集会の出席率は極めて悪くなるかもしれないこと(事前に連絡致します)をご了承ください。
また、
■バイクを降りてからすでに20年を経過するので、まずは、低速運転によるリハビリに付き合って頂く必要がありそうです。
■特殊な運転(ジクザグ等)の要員としては外して下さい。間違いなく転けます。
あ、それから
■警察とのトラブルになったら、口頭での交渉は任せて下さい。
そのようなこと(職務質問など)に関しては、かなり良い場数を踏んでおります。
私が学生だったころ(25年くらい前)、法律を勉強していた友人が、
「さっさと『9条』を改正すればいいのよ」
と言って、私の度肝を抜かせたことがあります。
当時の私は、大学の自治寮の寮長であり、思想的には「左」で、自動的(?)に『9条』に関しては「護憲」の立場であったと思います。
その私に正面切って「9条改正」を言い切ったのは、後にも先にも彼女だけでした。
まあ、私のスタンスを「全然知らなかった」だけかもしれませんが。
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日本国憲法第9条は、前文と併わせて、我が国の憲法の三大原則の一つである「平和主義」を規定しているものです。
===============================
■第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
■第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
===============================
彼女が言っていた「9条」とは、正確には「第9条2項」の、いわゆる「戦力不保持」を示しています。
「自衛隊の存在との不整合」が発生することに対する、法律を勉強する学生としての、一種のストレスだったんだろうなぁ、と今では思えます。
なお、この当時、まだ、「自衛隊を海外に派遣する」などという観念すら存在していなかったことに、留意しておいて下さい。
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現在、この「日本国憲法第9条2項」は、沢山のバンドエイドやら、包帯やらを巻きつけながら、ゼーゼーいいながら、なんとか存在している、という感じがします。
というのは、この9条2項は、どう考えても「そりゃ、ちょっと無理があるのではないか」という解釈論で逃げまくってきたからです。
いろいろな解釈があるのですが、一番有名な政府解釈を、私なりに書き下してみると、こんな感じでしょうか。
■第1項では、(1)国際紛争解決としての戦争は「ダメ」だけど、(2)自衛戦争は「ダメ」とは言っていないよね。
■第2項にいう「交戦権」とは、(1)のことを言い、(2)の自衛戦争を含まない、と読めるよね。
■だから、自衛隊の存在は「合憲」だよね。
私が思うに ―― 多分、法律家も政治家も、これを日本人であれ外国人であれ、こんな話を、その人たちに説明するのが、本当に面倒くさいんだろーな、と思うのです。
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私も最近、法律(といっても特許法ですけど)の勉強を開始して、この気持が分かるようになりました。
「解釈(定説、反対説、その他)を2つ以上覚えるのは面倒なんだよ」
「私の脳のキャパはそんなに大きくないんだから、とっとと成文化してくれよ。本当に勘弁してくれよ」
と、泣きたくなることがあります。
まあ、特許法などの知的財産権法は、2年おきにくらいにコロコロと変わりますので、別の意味で泣きたくなることもありますが。
それはさておき。
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憲法はその国の法律の最高法規ですから、この憲法に「逆らわないように」それ以外の法律が作られることになります。
その最高法規に「逆らうような」もの(例:自衛隊等)を運用している、という状態は、
多分、我が国の最高意思決定機関の長の人達にとって、
『これ以上もなく、気持の悪い状態』
ということは、想像に難くありません
私のような、知財法の初学の下っ端でも、法解釈では「イライラ」させられるくらいなのです。
そのような方々にとって、9条2項の改正というのが「悲願」というのは、本当によく理解できるのです。
(続く)
昨日の続きです。
我が国の最高法規である憲法に、「矛盾」があり「ねじれ」がある、というお話をしました。
「矛盾」や「ねじれ」を、それを「ない」状態にしようとすることを、私は、正面から批判することはできません。
でもね ―― と、私は思うのですよ。
日本国憲法は、「我が国の最高法規」であると同時に、「人類の考えうる究極の理想論」でもあるのだ、とか、
あるいは、「日本国憲法第9条は『夢と魔法の国』の話である」とか、「日本国民の共通理念であり、信仰である」とか、
―― それじゃ、ダメですか?
夢だっていいじゃないか。
世界中から嘲笑されたっていいじゃないか
と。
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「今さら、それを言うか!」「卑怯だぞ!!」
これまで、ロジックや法律論で、色々なコラムを寄稿し、反論を封殺してきた江端が、その論旨展開はないだろう、という罵声が、パソコンの前までにも聞こえてきそうです。
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でも、やっぱり、私は「日本国憲法」は、やっぱり「念仏」や「聖書」や「コーラン」であって欲しいと思う。
例えば、新約聖書(の、マルコ福音書)に出てくる、あの超有名で、未だに私には訳が分からないフレーズ
『神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)』
を、
「このフレーズを残したままでは、新約聖書の解釈の一貫性を欠く」
「山ほどの解釈があって、面倒だ」
「うん、そうだな。今後は、聖書から、このフレーズは削除しよう」
というくらいの「乱暴さ」を感じるのです。
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「詭弁だ!法律と宗教を一緒くたにするとは、お前こそ乱暴にも程があるぞ!!」
という声も聞こえてきました。
うん、うん。分かっています。
もう少しだけ、我慢して聞いて下さい。
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私は、これまで、一人旅をしてきたアジアの国々で、太平洋戦争中の日本軍による非道行為に関して、うんざりする程、非難(正確には「お前は、日本軍が何をやってきたか知っているか?」という質問を)されてきたのです。
正直、『文句なら、当時の日本人に言ってくれよ』とは思いました。
でも、その国の人達は、無茶ぶりを承知の上で、旅の途中にあった日本人の若者に、どうしても「それ」を伝えたかったのだ、ということは、本当によく分かりました。
その想いが、あまりに、強く、切なく、悲しすぎて、私にそのような発言をすることを躊躇させました。
-----
私は、以下のように応えていました。
「私自身は『申し訳ない』とは言えません。私はそこにいなかったからです」
「でも、我が国は法治国家の最高法規である憲法で『いかなる形においても、絶対に戦争をしない』ことを明文化しています」
「日本人は、絶対に、この憲法を未来永劫守っていくはずです」
「日本人が、この憲法を守り続けることで、私達日本人の過去の反省と未来の誠意を、どうか信じて貰えないでしょうか」
―― と言ってしまったのですよ。
そう。かなり、たくさんのアジアの人たちに。
だって、私にとって、日本国憲法とは「神聖にして犯されざる法典」と信じ、そして、それを全く疑ったことがなかったからです。
その「法典」の内容を、削除・変更することを、我が国の国民が「支持する時代がくる」など、予想もできなかったのです。
-----
―― 私は、やっぱり「嘘つき」になるのかなぁ
と思うと、切ない気持になります。
(続く)
日本国憲法は、太平洋戦争終結後の、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)、というか、米国政府によって押しつけられたものである ――
という主張を良く聞きます。
―― でも、それが何だと言うのですか?
と私は、逆に尋ねたいのです。
権力の濫用を防ぐ「三権分立」の考え方は、モンテスキューに押しつけられたものですか?
法治主義は、我が国が、近代ドイツ法学を押しつけられれたものですか?
もっと言うのであれば、漢字は中国に押しつけられたものですか。近代医学はドイツに押しつけられたものですか。化学や微分や積分の概念は、欧米に押しつけられたものですか。
―― どーだっていいじゃん、そんなこと。
日本国憲法の発生のプロセスがどうであれ、それをがんばって運用してきたことで、日本国憲法は、我々日本人のものになったのです。
日本人は、よくがんばってきたと思います。
憲法第1条(象徴天皇の規定)なんて、大陸法的観点からも、コモンロー的観点からも「完全に意味不明」な条文です。
はっきりいって、憲法第1条は「法律ではない」と言い切ってもいいと思う。
しかし、誰が起草しようが、それが、単なる理想や理念を語っていようが、法律と呼べるかどうか疑義があろうが、我が国において半世紀以上も運用され続け、
そして、(それは単なる運が良いだけであったとしても、または形式的であれ)、我が国は、国際紛争を解決する手段としての戦争はしなかったという、
―― どえらい実績がある
とは、言えるんではないでしょうか。
まあ、同盟国(米国ですが)の戦争を山ほど手伝っていますし(朝鮮戦争から湾岸戦争、そしてその後も)、日米安保条約がなければ、とっくに他の国に占領されていただろうなぁ、と、私ですら思います。
だから、「平和憲法が、平和をもたらしてくれた」とは、直接的には言えないことも、よく分かってはいます。
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憲法第9条2項の改正は、法治国家としての対応としては、確かに正しいと思う。
しかし、その改正をしないことによって、ぼんやりとしたものであっても、私達の過去の反省が伝わり、誰かが安心し、我が国としてのの誠意が、届けられるのであれば、
沢山のバンドエイドやら、包帯やらを巻きつけながら、ゼーゼーいいながら、なんとか存在していたとしても、
憲法第9条2項は、「そのままでも、いいよ」と、言ってくれるのではないか、と、
私は、そう思いたいのです。
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「憲法第9条2項の改正は必須だ、もう我々は待てない」という方に対して、私ができることは、お願いをすることくらいです。
あと、20年ちょいくらい、待って貰えませんか(もっと早いかもしれません)
私は、「『嘘つき』ではない人生を生きた」と、これまで出会って話をしてきたアジアの人に、言いたいのです。
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だめ? そんなに長くは待てないですか?
じゃあ、あと数年、いや2年でもいいです。
「背負っている赤ちゃんってね、死ぬといきなり重くなるんだよ」と言った母に、
「戦後、あなたたちは、この国の平和憲法を立派に守りきったのだ」と語りかけて ―― 送ってやりたいのです。
今回の参議院選挙の結果で、基本的な民意は、
" 景気回復 > 憲法改正反対 + 原発存続反対 "
と解釈しました。
「短絡すぎるだろうか?」とも思いましたが、後で思い出せるように、今、記載しておきたいと思います。
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これが我が国の国民の民意であるなら、私もエンジニアとして、私も色々考えなければなりません。
例えば、『放射能を中和化するスプレーの開発』とか。
先日、映画「ダイハード」の最新作を、実家の親父と二人で見ていて、そのような「スプレー」が登場していました。
思わず大声で、『そんな都合のいいもんが、あるか!』と映画に突っ込んでいました。
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人類が文明と呼べるものを持った時から、今年で約5000年くらい。
放射能廃棄物を絶対に安全に保存しなければならない期間は、その20倍の10万年。
そんな長期間の保存は、無理に決まっている。
人類が100年もあれば、「埋めた場所」どころか「埋めたこと自体」を忘れることは、歴史が証明しています。
ならば、ここは、私達エンジニアが頑張って「放射能除去スプレー」を開発するしかありません。
ただ、私の所感としては、「放射能除去スプレー」の難しさは、「核融合炉」の実用化を軽く越えるくらい、と思っています。
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今、私ができることは「他力本願」です。
―― 地球から、十数万光年程、離れたところにいる知的生命体から、「コスモクリーナ」をマニュアル付きで届けて貰えると、本当に助かるのだけどなぁ
などと、ずうずうしいことを考えています。
先日、町内会役員の任期満了に伴う改選があって、そのクジ引きに立ち合ってきました。
「クジ引き」ということは、誰も立候補者がいない、ということです。
「町内会役員」「PTA役員」は、我が国が誇る「2大忌避ボランティア」といっても過言ではありません。
いや、「忌避」する「ボランティア」では、矛盾表現ですが。
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不公平なほど過大な業務、纏まらない意見、進まない業務プロセス、外部からの山程の要求、クレーム、文句・・・
企業のような、ヒエラルヒーに基づく、指揮命令系統が存在せず、また移譲されている権限についても規定があやふやです。
収支決算報告なんて、素人が見ても「ウソつけ」と思うような、デタラメな記載に溢れかえっています。
「町内会の会計監査を、監査してやろうか」と思うことがありますが、思うだけです。面倒に巻き込まれうのは御免です。
こんなところで「正義」を使うべきではありません。「正義」は自分の私益の為だけに、普段から大切に残して置きたい。
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「くじ引き」は、スリルとサスペンスでした。
「頼む!、当たるな!!」という、出席者の表情が痛々しい。
このような犠牲、というか「人柱」を要求してまで、存続する価値が、「町内会」や「PTA」にあるのか、と問われれば、
―― 残念ながら「ある」
盆踊り、寺社祭り、子供会のイベント ―― そんなものは全滅させたって構わん。じいさん達の酒代の為に、自治会費を払っている気がすることも、不愉快です。
重要なのは、ただ一つ。
「地震等の災害発生時」の行政との窓口、または受け皿です。この母体組織がないと、住民の命に係わる事態となることもあるからです。
ですから、行政とのコネクションだけは定期的に維持していないと困ることになるのです。
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「町内会」や「PTA」は、災害救助準備組織、緊急時の高齢者支援組織としてだけ存在させれば良いのではないかと思うのですよ。
ただ、そういう目的のみに特化した組織づくりというのが難しいのも、理解できます。
人間の集団は機械やプログラムのように、簡単に動くものではないからです。
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そのように考えると、「町内会」や「PTA」が、どんなに不合理で、非効率で、虚しいと思っても、そして、「くじ引き」くらいが、人生最大のギャンブルくらいに感じる恐怖を伴っていたとしても、
―― 残念ながら、その存在を正面から否定するのは、かなり難しいと感じます。
ウエディングドレスを試着を、私が覚えている限り25回を越えていた嫁さんと違いまして、私は服に興味がありません。
嫁さんは、服の取り扱いが杜撰(ずさん)な私に対して、『服が可哀想』というのですが、それは違うだろうと思うのです。
―― 犯罪や災害の被害者、世界各地の難民や貧困、可哀想と思うべき対象は山ほどあります。たかだか布きれが「可哀想」であってたまるものか ―― などと言う訳もなく、私は、大人しく服を片づけるのでした。
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私が、服を買いに行く時の動機は、「破れた」「太った」「もう汚れを隠せない」の3つしかありません。
そもそも、試着という行為が嫌いです。
3Dスキャナでスキャンして服を自動選択するとか、洋服屋にもITの導入が急がれます。
そもそも店員は「プロ」なのだから、試着が嫌いな消費者に対して、一目見て、商品を決定するくらいの眼力は欲しいものです。
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先日、夏用のスラックスが、同時期に全滅しまして、会社に履いていくズボンが、ついになくなりました。
そこで、嫁さんに黙って、会社の近くにある「洋服の青山」に入りました。「洋服の青山」を選んだ理由は、通勤路上に、その店があったからです。
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私は、店員さんに、
■一度はゴミ箱に放り込んだズボンを見せて「これと同じサイズの一番安いズボンを下さい」といい、
■選んで貰ったズボンを、試着時間10秒で裾を測って貰い、
■5秒後にそれを脱ぎ、
■その服と色違いの服を選んで、店員さんに渡しました。
実質、店内滞在時間は3分弱、というところだったと思います。
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先日、その服の存在が嫁さんにバレました。
嫁さんに「事前にちゃんと試着したよね」と問い詰められるのは、当然想定内です。
「勿論だとも」と応えました。
―― たとえ、15秒でも試着は試着です。
最近、ツイッターので、我が国の近隣国の悪口が凄く多くなった、と思っていたのですが、300人中の2人ほど、フォローを止めたら、
―― そのような内容のツイートが"0"になった(誇張ではなく本当に"0")。
なんだ、そういうことか。
たくさんのツイートがあれば、たくさんの意見があるように見えるというのは、ネット世界の盲点ですね(今更ですが)。
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まあ「誰の何がそんなに憎い」のかは、私にはどうでも良いことなのですが、
19歳の時から、世界のいくつかの国を一人でテクテクと歩いてきて、
「その国に住んでいる人」と「その国の政府」は、完全に別人格であることを、嫌という程知っている私としては、
そのようなツイートを読まされるのは、愉快ではないのです。
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マスコミの記事が、多くの読者に読まれることを期待して、わざわざ刺激的な見出し(キャッチー)や、表現や、事実と推測をゴッチャにして、読者を恣意的に誘導することは、常套手段です。
なぜ、そのように言い切れるのか?
『私自身が、そのようなことをやってきたから』
です。
具体的には、
『これまで、そのようなコラムを量産してきたから』
私が、コラムを読み易く、面白くする為に、表現を過激にしたり、必要以上に誇張していることは事実です(この日記を見ても明かでしょう)。
とはいえ、私はエンジニアなので、「ここまでは事実」「ここからは推測」という風に、テクニカルライティングの作法は遵守しているつもりです。
また、特に、間違った事実の流布に関しては、病的な程怖がっているのは、ご存知の通りです。
まあ、私の言い訳はともかくとして、私が何がいいたいかというと、「読まれる為の作為が入っていない記事」など絶無である、ということです。
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我々が、他国の政府やマスコミの書いていることを、信じることは仕方がないことです。
我々には、それしかニュースソースがないのですから。
しかし、私としては、一度でいいから「外国を国を自分の足で歩いてみてはどうでしょうか」とお勧めしたいのです。できれば、僅かな期間でも良いので滞在してみることは、強くお勧めします。
特に現地の食事を、現地の人と一緒に食べて、一緒に寝泊まりすることは、圧倒的かつ絶対的にお勧めします。
そうするとですね、一般的に流布されている情報と、現地の事実との間に、ビックリする程の乖離(かいり)を感じることができます。
さらに、そうするとですね、一般的なマスコミの記事というのが、日常生活で「事実」ではなく、単なる「参考資料」にまで、転がり落ちていく感じを体感することができます。
これは、長い人生において大変意義があることではないか、と思うのです。
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何かや誰かを殺したい程憎むのであれば、その対象は「国」やら「政府」のような抽象概念で語っていては、全然足りない。
「集団」でも足りず、「個人」までブレークダウンし、きちっと憎悪の対象として認識し、認定すべきだと思う。
そして、そのことに対して、自分なりのロジックを組み立てて、コラムや論文程度の体裁に仕上げて、そのURLを公開した段階で、「殺したい程の憎悪」は、そこで初めて「完成する」と思うのです。
それが、「殺したい程の憎悪」をすることに対する最低限の礼儀だと私は思うのです。
「殺したい程の憎悪」が、人のツイートのリツイートや、数十文字程度の感想ですか?
笑わせないで下さい。
パソコンの前で、140文字程度を使って、憂さを晴らす程度の中途半端な怒りを、私には届けないで欲しいのです。
そういう覚悟のないツイートは、私にとっては、鬱陶(うっとう)しいだけですので。
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で、文頭に戻るのですが。
『鬱陶しいツイートをしてくる人のフォローを止める』という、凄く簡単なことにも気がつかなかった私は、
―― 本当に阿呆だなぁ
と、今さらながら、実感していたりします。
我が家の、ハンディビデオカメラの充電池が寿命となり、フル充電しても10分も持たなくなりました。
電気量販店に問い合わせたところ、同型の充電池は在庫期間を経過しており、新型では酷く値段が高いことが分かりました。
しかし、単に、電気を供給できればいいのだから、市販の電池を外部電源として取り込める外部パックを自作ことにしました。
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本日、午前、秋葉原でのミーティングに参加してした後、駅前の秋葉原電気会館のパーツ屋で、必要な部品を購入していました。
私が、目的の電池パックを見つけて、購入しようとしてたところ、小学生4年生くらいの、坊主頭の少年が二人、店の親父さんと話をしていました。
その少年が、親父さんに見せていた本は、その劣化具合から、約20年以上も前の、少年向けエレクトロニクス工作の本、と分かりました。
少年が示したページには、「自律走行型の手作り戦車」のページが開かれていました。
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親父さんは、優しい声で、少年に教えていました。
「まずね、こっちでこの光センサを買う前に、この「57」のICを先に手に入れた方が良いよ。もう売っていないかもしれないからね。」
「1階の○○商店の人に、「57」のICがあるか尋ねてきてごらん」
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その様子を見ていて、私は、ここ何年か感じたことがないくらい、嬉しくなってきました。
そして、すでに何分も待たされているにも係わらず、笑顔で、その少年達と親父さん達の会話を見つづけていました。
一瞬、『その少年達の買い物を助けてやろうか』とも思いましたが、グッと思い留まりました。
『ここで大人が手を出してはならない』と思いまして。
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少年達が、一階に走ってかけ降りていったところで、私は店の親父さんに、電池パックの他、必要な部品を出して貰いながら ―― 私としては、大変珍しいのですが ―― その親父さんに語りかけました。
江端:「いいですね。電子回路の部品を求めて、秋葉原を走り回る小学生が見れるとは、今日は本当についている」
親父さんは、軽い無言の笑顔で、私に応えました。
江端:「やっぱり、夏休みになると、あのような電子工作少年が現われるのですか」
親父さん:「いや、最近はさっぱり見ないね。珍しいよ」
江端:「そうですか。寂しいですね」
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彼らの、恐らく人生最初の夏休みの電子工作は ―― 失敗する。
電子回路は、例え、それが子供向けのものであろうとも、例え、一箇所の配線ミス、極性間違い、接続不良であろうとも、ピクリとも動かないのです。
電子回路には「半分だけ動く」ということは、絶対にないのです。「動く」か「動かない」の2つの状態しかありません。
組み立てるだけで100%完成する、紙細工やプラモデルと、電子回路の決定的な違いは、そこにあります。
その原因を追求していく為には、一つ一つの原因を、丹念に潰していく必要があり、最初はどうしても、失敗とそれによる小遣いの損失からスタートしなければならないのです。
彼等にとって、この暑い夏が、最初の挫折になることは、ほぼ間違いありません。
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電子工作少年になれるかどうかの瀬戸際は、そこで「挫折するか」「立ち向かうか」です。
ちなみに、私は「挫折」組です。
高校生までの電子回路は、全部動きませんでした。
大学の研究で作った自走リモコンカー(ファジィカー)にしても、友人のアドバイスがなければ、作れなかったです。
私が、自力で電子回路を作り切ったと言えるのは、35歳を過ぎでからの、これが最初ではないかと思います。
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『がんばれ、少年! 君達の敗北は折り込み済みだ。だが、まあ、とにかく続けてみろ』と、心の中で、彼らの背中にエールを送った私でした。
なんの脈絡もなく思い出したのですが、昔、ふと流れていた番組を見て、「凄いなぁ」と、驚いたことがあります。
宇宙警察だったか、宇宙刑事だったか忘れたのですが、ヒーロー戦隊番組がありました。
(調べてみたら「特捜戦隊デカレンジャー」がそれのようです)
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(Step.1)デカレンジャーは、戦闘中に(すでに重犯罪を繰替えしていると思われる)怪人にとどめを刺す直前に、宇宙最高裁判所に連絡し、裁判所の判断を仰ぎます。
(Step.2)宇宙最高裁判所は、即座(2秒くらい)で、◯と×で判決を決め(もちろん、◯になるのですが)、その旨を、デカレンジャーに通達します。
(Step.3)デカレンジャーは、その判決を待って、必殺技で怪人を殺害(死刑執行)します。
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先ず、私が驚いたのは、ヒーロー戦隊番組において、「司法権の独立」という概念を導入した、という点にあります。
デカレンジャーは宇宙刑事であり、当然警察組織に属する公務員です。
警察は行政庁ですから、終審としての判決を行うことはできず、かならず司法(裁判所)の判断が必要になります。
「裁判時間2秒」「判決◯× 」という、めちゃちゃ乱暴な制度ですが(戦場における臨時軍事裁判所だって、ここまで酷くはないだろう)、一応、筋は通している、と言えます。
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次に、驚いたのは、犯罪者を捕縛する刑事と、死刑の執行者が、同一人物であるという点です。これは、全然管轄の違う行政組織が、一体となっているという点です。
このような制度では、怪人の人権を著しく損い、冤罪を誘発し、誤った怪人への刑の執行がされる恐れがある、と感じました。
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多分、これまでのヒーロー戦隊ものに対する、批判をかわす目的があったのかなぁ、などと邪推しています。
だって、ヒーローの彼ら/彼女らは、司法の判断なく、また行政手続を無視して、毎週、独断で死刑執行をやっていたようなものですからね。
デカレンジャーの仕組みでも、なお、冤罪→死刑になった怪人は、かなりいたのではないかと推測されます。
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とは言え「宇宙最高裁判所」という概念は、私に、「その下級審の仕組みははどうなっているんだろう」とか想像させましたし、
「怪人人権擁護局」というものも登場させたら、さらに面白くなりだろうな、と思いました。
デカレンジャーの必殺技炸裂の直前1秒前に、「人権擁護局」からの差止命令が下りた、というストーリーなど考えるだけで、ワクワクします。
デカレンジャーが「えっ?」とか言いながら、必殺技を寸止めするシーンは見ものだと思います。
■「怪人」による宇宙最高裁判所の判決に対するの再審請求や、
■デカレンジャーによる所掌範囲を越えた捜査権の濫用に対する行政審査請求、行政事件訴訟
など、発想は広がり続けます。
楽しいですねえ―― え?そんなことないですか?
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ヒーロー戦隊を作成される番組の皆さま。上記のようなシーンを含めた新しいヒーロー戦隊番組はいかがでしょう。
番組名は、当然こうなります。
「行政と法律と裁判と三権分立を前提に、正義と人権を守るヒーロー戦隊 『インテリゲンチャー』」
私はYoutubeとかLine等のソーシャルメディアが登場してきたき、組織の内部告発などに活用されていくのだろうな、と思っていました。
しかし、
■イジメをしている当の本人がイジメている映像を流していたり、
■打ち合わせ中の顧客の悪口をツイートしていたり、
■来店した有名人の様子を逐次報告したり、
■店舗の機材(アイスクリーム冷凍保存装置)に入ったことを知らせたり、
と、
「お前たちには『脳』がインストールされていないのか」と言うような事件を、日々間当りにして、本当に驚いています。
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で、驚くべきことに、このような事件は、何度も同じパターンで、繰り返し起っています。
―― 学習能力がないのか?
とも思ったのですが、そうではなく、リアル世界とネット世界の棲み分けが理解できていないのだろう、と思っています。
「イジメの動画」「悪口」「職務に関する守秘義務情報」「悪ふざけ」は、リアル世界の閉じた空間と時間の中では ―― それほど大きな問題にならなくとも、
それがネット社会に流れ出ていった瞬間、化学反応に近い変化を起こしてしまうことが、
―― 感覚的に理解できていない。
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この「感覚」を理解するには、なんども失敗を重ねて学習を続ければ良いのですが、ソーシャルメディアでの失敗は、「取り返しがつかない」ことがお多いのです。
私も結構な回数、失敗してきたのですが、そのネット世界の媒体が「電子メール」で留まっていたことは、今となっては幸運だと思います。
当時の電子メールが「火縄銃」だとすると、今のソーシャルメディアは「大量破壊兵器」くらい、一度失敗すると取り返しがつかないからです。
事実、ソーシャルメディアでのたった一回の失敗で、
■職を追われ、
■会社がつぶれ、
■写真、実名、経歴、過去の全てが晒され、
■100年のブランド価値が1日で瓦解し、
そして、
■自殺にまで追い込まれる
高齢者が、このようなネット媒体を忌避するのは、それが使い熟せなのではなく、その「恐しさ」を直感的に理解しているからではないか、とまで思い始めてきました。
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もはや、ネット社会と離れて生きることは難しい。
ならば、学校教育において、ネットワークの構造、文章の書き方、トラブルシューティングを、ケーススタディで一つ一つ教えていくしかないでしょう。
私は「道徳」といく教科が、(その名前からして)大嫌いなのですが、このネット社会の教育は、この「道徳」の時間こそが、ピッタリ当てはまるような気がします。
ご存知の通り、私は二人の娘に私の仕事(イラスト作成)を手伝って貰っています。
もちろん、ギャラは払っていますが、子どものこずかいの域を出ない金額です(次女はその金を握って本屋に「チャオ」を買いに走っています)。
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今回特急の案件が入ったので、長女に無理して働いて貰っています。
で、今回はバイト代金でなく、コミック2冊(1巻と2巻)を私からオファしてみました。
評判の「俺物語!!」です。
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最初に、この作品に気がついたのは、通勤電車のドアに張られていたステッカー広告です。
「電車の中で、少女コミックの広告?」という疑問もあって、ちょっとネットで調べたら、出るわ出るわ、絶賛の嵐。
その時は、結構色々なことで忙しかったので、それっきり忘れてしまっていたのですが、今回の娘へのギャラの件で、これを思い出しました。
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まあ、私から感想を言うのは、興醒めでしょうから差し控えます。
私は、大人ですし、男ですし、中年ですし、ひねくれていますから。
ただ、このコミックに関して、二言だけ言わせて貰えれば、
■私がコラムで頻用している「パラダイムシフト」なる表現では足りず、「逆ゲシュタルト崩壊」と名付け得る程のインパクトがあった。
■家族が、全員一致の評決で「いいね!」と認定した(前例なし)。
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「泣きながら大笑いできる」という「お天気雨」のような宝珠の一品です。
以前、エレベータの「開ボタン」を押し続けるという善意が、凄い迷惑であるという日記を書きました。
しかし、この習慣、一向に止まる気配がありません。
会社の中などでは、見たこともないような偉い人が乗っている可能性もありますので、このような行動は「保身」の観点から、やむを得ない可能性もあります。
でも、あなたが先に降りる程度のことで、腹を立てるような幹部のいる会社なら、未来はないと思いますが。
ただ、歩行が困難な人や、ベビーカーを使っているお母さんには、有効かもしれませんが、あなたの体がドアを塞いでいることの方が迷惑です(私は、両方とも経験者です)。
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どうしてもそういう「善意」が我慢できないのであれば、エレベータから降りた所にある、呼びボタンを押し続けていれば、同じ効果が得られます。
ところが、このようなことをした人は、私が知り得る限り「ゼロ人」です。
なぜだろう、と考察してみたのですが、これは、降りる人と顔を合わすのが恥かしいのかもしれません。このような行為が、なんとなく気恥しいと思うのは、理解できなくもありません。
ですが、私に言わせれば、
―― その程度の覚悟しかないなら、「善意」など止めてしまえ
と思うのです。
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私は、自分の体調が良くて、気分の良いときは、お年寄りに席を譲るなどの「善意」を行いますし、時間があって気分が向けば、駅で迷っている外国人に、"May I help you ?"と声をかけます。
その結果、結構な回数、不愉快な対応をされたことも多いです。
無視されたり、逆に睨まれたり、文句を言われたり、けげんな目をされて立ち去られたこともあります。
あるいは、何度も何度も果てなく御礼の言葉をかけ続けられ、鬱陶しいことこの上もないこともありました。
「善意」には、それなりのリスクを伴います。私は、「善意」のうち半分くらいは、嫌な目に合っていると思っています。
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「善意」とは、善意の「空振り」で恥をかくことのリスク込みで「善意」です。
『自分が傷つく覚悟がないなら「善意」など止めてしまいなさい』と申し上げたいのです。