先日、嫁さんが思い出したように話を始めたのですが、2年程前に、レンタルビデオ屋で、次女が行方不明になったのだそうです。
で、嫁さんと長女は、慌てて、レンタルビデオ屋の全部を探し始めたのですが、見つからず、大騒動になったそうです。
そこで、嫁さんと長女は、生まれて初めて、レンタルビデオ屋の「秘められた領域」に足を踏み込んでしまったそうです。
「アダルトコーナ」
まず、第一の感想。
なんて広い! こんなエリアをどこに隠していたの?
まず、第二の感想。
なんて凄い! 色々と。
体躯の小さい次女を探す為に、アダルトコーナーにいる男の人の前にまで回り込んで、調べたらしいのですが、なんとも気不味い雰囲気だったそうです(そりゃそうだろう)。
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で、この手の話は、当然にこういう話に帰納する訳です。
「パパも、あのエリアに入っていたの?」
もう、そろそろ、質問の内容に気つかって良い年頃だと思うぞ、パパは。
私は、風貌を清潔の保つとことや、好感のもてるスタイルにするということに対して、理解があるつもりです。
「男は、そげなことに、気ば、つかったらあかんばい」(これは鹿児島弁でも土佐弁でもなく、まあ、なんとなくそんな感じ) てなことは言いません。
今や、男も女も外観アピールが大切な時代です。
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とは言え、駅のトイレの鏡の前で、前髪を指で直している男子生徒、および男子大学生諸君に申し上げたいと思います。
「いらんことだ」と非難されることを、百も承知の上で言われてもらうと、
君達の補正処理(前髪を指で直す処理)で、君達の外見に何かの変化が見い出せない様に思える。
うん、本当に「いらんことだ」と思います。
無視して下さい。
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私は、女性であれば、デートの前に、こういう仕草をする女性を「可愛い」と思えてしまうのです。
ステレオタイプな、つまらない男であるという批判は、甘んじて受け入れたいと思います。
しかし、デートの前でもなく、通常の通学途中のトイレの中で、こういう処理をする男性を、私はどうしても「可愛い」と思えないのです。
もちろん、「江端なんかに『可愛い』などと思われたくない」という批判も、甘んじて受けいれます。
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多分、私は間違っているのだろうと思う。
駅のトイレの鏡の前で、前髪を指で直している男子生徒、および男子大学生諸君は、「正義」なのでしょう。
そういうことに、気が回らなくなった瞬間から、男も女も「何かを失う」のだと思うのです。
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だまっていても「それ」は、時系列的に失なわれて行きます。
だから、いつまでも「前髪を指で直し」続けている君達は、常に「正義」なのです。
作品に対して批判されれば腹が立ち、褒められれば嬉しい。
それがツイッターやメールのメッセージに対する、私の基本的な反応です。
しかし、非常に稀ではありますが、第三の反応があるのです。
「どう反応すれば良いか分からないメッセージ」というものです。
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「何が書かれているのか、分からん」というフレーズは、、相手に批判に対する批判の応酬で、よく使われるものなのですが、私がこのように書くときは、「本当に分からない」時です。
多分「書いてきた人は分かっている」ということだけは分かるのです(その文章の勢いから)が、なにしろ、「思い」を一方的にただ書いているだけなので、まあ、なんというか、本当に意味不明。
私も精一杯の善意解釈を試みるのですが、その努力も届かないほどに、「訳分からん」
賞賛でもないし、批判でもないし、新しい問題提起をしている様にも見えず、自分の内面を吐露している風でもない。
一体、何をコメントされているのか、本当に分からないのです。
嬉しがることも、怒ることも、考え込むことも、同情することも、何もできないメッセージというのは、「大変困る」というよりも、
―― 気持ち悪い
自分が、"1"入力"0"出力のブラックボックスになったような気持ちになるのです。
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なんで、こんなことになるのだろうなぁ、と考えてみました。
これは、ツイッターのメッセージ数の短かさ、とか、ツイッターのその場の気分をそのまま吐き出すとかの、その性質に因るのだろうと思うのです。
140文字程度では、十分な背景の説明もできないでしょうから。
といって、「何をコメントされているのか、分からないです」と返事して、追加の説明をお願いするのは、大変気分を害されるだろうなぁ、とも思えますし。
それに、半分くらいは、自分のリテラシー不足(空気読めない等)の責任があるのかもしれませんし。
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多分、正解は「気持ち悪いまま、我慢する」だと思うのです。
今は、「スルーするコミュニケーション」、「白黒はっきりさせないコミュニケーション」という文化を受忍していく時代なのだろうと思っています。
「論理」を唯一神とする、我々エンジニア教団にとっては、なかなか辛い時代なのかもしれません。
昔、「いきなり最終回」という本がありました。
コミックの最終回だけを集めた本です。
これが、興を削ぐものか、あるいは効率的であると評価するかは、当然、その人の考え方に因るとは思います。
私の場合、「問題なし」です。むしろ、好きな方。
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裁判所の判決文の場合、基本的に先ず結論から述べられます。
「主文、被告を死刑に処す」という、アレです。
判決文は全体的に長く、それを全部読み上げなければならないので、結構な時間がかかります(2~3時間も普通にある)。
そんなの、聞いている側からすれば「で!どっちなの!」と聞きたいでしょう。
まず結論を述べて、その後に理由を述べるという方が、被告も原告も傍聴人にも、利益があるという考え方なのです。
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裁判と創作を同一に論じることは、かなり無謀な話ではありますが、私は「下巻」から読み出すことができる人間です。
下巻を読み終えて、上巻を読んでいると「ああ、そういうことね」という風に、話がつながるという感じも、結構好きです。
映画でも、YouTubeでラストシーンを視聴してから、DVDを借りに行くというのは、普通にやります。
要するに私は、「判決」を先に聞いて、安心したい性格なのです。
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先日、図書館に、現在ベストセラーの本(上下)の予約をかけたのですが、
上巻の待ち行列が354人、下巻が223人となっていました。
過去の経緯からすると、多分下巻の順番の後、1月後に上巻が来ることになりそうです。
そもそも、上巻と下巻の待ち行列が、こんなに違うのは、「まず上巻を読みたい」と言う人が多いからだと思います。まっとうなスタンスです。
しかし、上巻→下巻というような「縛り」を自らに課すと、チャンスを逃すことも多いだろうとも思えます。
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正しい感動を得る為に、正しく物事を進めるのは大切ですが、とても時間がかかります。
短い時間で、沢山のことをやりたいのであれば、中途半端な感動を得る為に、中途半端に物事を進めることも、大切ではないかと思うのですよ。
例えば「不完全な知識を承知の上で、技術コラムを執筆して、リリースする勇気」とか。
人から文句を言われない完全なコラムを書くには、一本あたり20年くらいの時間は必要だと実感しています(本当)。
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今のように情報が氾濫し、かつ簡単に入手できるような時代にあっては、「正道」より「詭道」の方が、重要な場面が多いような気がします。
そろそろ、夏の参議院選挙を踏まえて、街中での宣伝活動が活発になりつつあります。
単に連休中なので、そのような場面を見る機会が増えているだけかもしれませんが。
今回も色々考えて投票することになると思うのですが、財政に関する事項については、特に強い感心を持っています。
持っているのですが、各政党の財政政策が、全く良く分からんのです。
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例として、日本共産党を挙げてみます。
(あくまでも、一例として挙げるものです)
特に、歳入の政策の方を見てみましょう。
日本共産党の歳入ポリシーは基本的に5つ。
■所得税の最高税率を元に戻す
■証券優遇税制を20%に戻し、富裕層は30%以上に引き上げる
■相続税・贈与税の最高税率を元に戻す
■低い大企業への優遇税制を段階的に元に戻す
■大企業の過剰な利益留保を、雇用と中小企業など社会に還元し、家計・内需主導の経済成長路線に変更する
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確かに、この方法は「面白い」と思うのですよ。
新しい産業の創成とか、ベンチャーの保護とか、全ての内閣が取り組んできて、ほぼ100%失敗に終っている「新戦略」とか言う、眉唾(まゆつば)的なものでないところが良い。
むしろ、このような「古典的手法」による、財政対策というのは、私としては、非常に興味深いのです。
「絶望」の2文字でしか表現できない高齢者問題に対して、歳入を社会福祉等に回せるなら、どんな手段であっても構わないのです。
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簡単に言えば、日本共産党の財政(歳入)は、「大企業が溜め込んだ金を、家計に再分配する」という政策と思うのですが、「大企業が溜め込んでいる金」が「家計に再配分」できる程度にあるのか、という基本的な疑問があります。
また、「溜め込んでいる金」は、研究開発投資に回されるのですが、そこを削るというのはもちろん良い考えですが、将来の発展を閉ざすもの事実です。
しかし、発展的成長を望まない財政政策は、それはそれで良いと思う。
原子力エネルギーは勿論、化石エネルギーを使わなくても、江戸時代の江戸(東京)は、当時世界最大都市として機能していた訳ですから、どうせなら、200年程退行した経済というのも、確かに「あり」だと思う。
その上、「鎖国」まで持ち込んだら完璧です。
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問題は、日本共産党が「数値」と「アルゴリズム」を提示してくれないことにあります。
自民党、民主党のような大きな政党は「数値」は出しています。しかし、「アルゴリズム」の方は、提示してくれません。
どんな政策でも良いので、その政策の内容とシミュレーション結果のアウトプットを示してくれれば、私はその政党の誠意を信じれる、と思うのです。
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そこで、提案です。
これは日本の技術者人口1000万人という広大な票田を独占し得る、非常に魅力的な提案です。
『政策シミュレーションのプログラムソースコードを、インターネットで開示する』
シミュレーションプログラムですから、あくまで仮説であり、また、都合の良いパラメータや、勝手な想定サブルーチンを突っ込んでも良いです。
例えば、「2017年4月、iPS細胞による医療産業における課税による収入」とか言う、現時点では発生していない歳入について、自分勝手な仮説のサブルーチンも詰み込んでもO.K.です。
とにかく、そのプログラムをコンパイル・ビルドして回すと、2020年までに、日本の税収(歳入)が、どのように変っていくかが、グラフで表示されるものであれば良いのです。
各政党は、各政党のホームーページで、自分のおかかえ技術者の得意とするプログラム言語で書かれた、シミュレーションプログラムを開示するだけで良いのです。
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この、各政党シミュレーションプログラムが開示する効果は凄いです。
まず、ソースコードを読むだけで、税率、歳入の根拠、人口比率、株価変動、など、各政党が何を考えているか、全部分かります。
マニュフェストなんぞという、かったるいものは読む必要がありません。
第一、マニュフェストは嘘くさい。
「あれ、その財源、そこで使ったら、さっきの政策の原資はどうなるの?」という疑問に全然答えていないと思うし。
コンピュータプログラムであれば、1+1=5などいうことは(悪意のコードでもない限り)発生しませんし。
なにしろ、各政党が、どのような未来を想定しているのかも、ソースコードから一発で解釈可能です。あまりに都合の良い想定は、公に批判されることになります
また、そのソースコードのパラメータを、ちょっとイジっただけで、何が発生するかも、その場で読みとれます。あっと言う間に、財政シナリオが崩れさる、ということも簡単に分かってしまいます。
ソースコードでは難しいというのであれば、エクセルのマクロ程度であっても良いと思います。
必要なのは、「目に見える歳入数値」です。
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私が欲しているのは、「カリスマのある政治家」でもなく「理念や理想を語る政治家」でもないのです。
そんな人間は、もう、いらんのです。役に立たないから。
客観的な数値を提示する、各政党の日本国歳入シミュレーションプログラムのソースコードと、その計算結果があれば十分です。
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ただ、ですね。私は、今でも不思議に思っているのです。
各政党は、相当数のエンジニアがいるはずで、その中には、シミュレーションプログラム程度を組めるプログラマも含まれているはずです(別に経済論に通じていなくても、まったく構わない)。
この程度のシミュレーションは、当然にやっている「ハズ」だと思うのです(それすらもやっていないで、財政を語るなど、詐欺だと思う)
では、なぜ各政党は、そのプログラムを開示しないのだろう、と
開示しない理由がある、とすれば、それは、自分達の主張している方法を、プログラムの計算結果では裏が取れなかった、と考えられます。
それはさておき。
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私は政治家の「人柄」などには、全く興味がないのです。
歳入を増やす方法とその方策を、「言葉」ではなく「数値」で示して欲しいだけなのです。
特に、日本共産党が、各政党の先頭を切って、これらのソースコードまたはエクセル表を開示してくれることを、心から期待しております。
学生のころから「あの党は、財政に関することは、徹頭徹尾、信用できない」という、私の偏見を、ソースコード(エクセルも可)で叩き壊して頂けることを、心の底から期待しています。
立花隆の「日本共産党の研究」という本を読んで以来、いつか自分でも別アプローチで「政党」を理解してみたいと思っていました。例えば、「数値で理解する日本共産党」とか、「自民党マニュフェストとシミュレーション結果」てな、技術書(連載でもいい)です。
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まあ、ともあれ、夏の参議院選挙、これらを実施してくれた政党には、間違いなく私の一票が入ります。
テレビで昭和ソングのヒット曲のランキングがされていました。
「元気を出して」「愛は勝つ」「それが大事」等が、高位ランキングされていました。
なつかしい。
黙っていても、研究室のゼミや、京都の街中のどこにいても聞こえてきた曲です。
学会発表や卒論の終盤、体力の限界の佳境の時に、良く聴いて、気力を振り絞ったものです。
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「それが大事」の歌詞は、
『負けない事 投げ出さない事 逃げ出さない事 信じ抜く事 駄目になりそうな時 それが一番大事』
で、始まります。
歌というのは、人間の非日常を歌うからこそ、人を感動させるものであることは十分承知の上で申し上げますが、
―― この曲、「鬱(うつ)病製造歌唱曲」
と名付けてもいいかもしれないなぁ、と思ってしまった私がいます。
『負けちゃう事 投げ出しちゃう事 逃げ出しちゃうこと事 疑うこと事 駄目になりそうな時 それが一番大事』
として、歌を作り直すと、多分、今の時代でもう一度、当てることができると思う。
歌手のさだまさしさんが、この辺りの振舞いが上手いです。
あの大ヒット曲「関白宣言」の、応答歌(?)といっても良いのかもしれませんが、
「関白失脚」という歌を作っています。あのセンス(バランス感覚)は抜群です。
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ついでに、今「愛は勝つ」の歌詞も見ているのですが、私かなり長い間、歌詞を勘違いしていたようです。
『心配ないからね 君の想いが誰かにとどく明日がきっとある』
「誰かに届く」です。
大切なことなので、もう一度言います。「誰かに届く」です。
「誰か」とは、「不特定の第三者」のことです。
主体を「私」に変えて、再度解説を試みます。
―― 私の想いが、不特定の第三者(×好きな人)に届く未来がある
こんなことを「心配ないからね」と保証されることに何の意味があり、
どういう文脈で「愛は勝つ」という結論に至るのだろうか?
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繰り返しますが、「歌というのは、人間の非日常を歌うからこそ、人を感動させる」ものですので、そこに論理的な一貫性を求めるのは、ナンセンスというものです。
ちょっと、昔の思い出で、遊んでみました。
それはさておき。
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今日の結論は、上記の内容ではありません。
私が「歌謡曲」を知っていたということに、家族全員が一斉に驚愕の声を上げたということにあります。
私が、「生まれた時から、今の私のままである」という思い込みを、そろそろ、修正してくれないかなぁ、と本気で思います。
先日、同人誌関係の方へのインタビューを行っていた時のことです。
ノートにメモを取りながら、「どうにも、全体感が掴めんなぁ」と、頭を掻きながら、愚痴っていた時です。
『だったら、江端さん、コミケに参加したらいかがですか』
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コミックマーケット、通称「コミケ」。30年以上の歴史をもつ日本最大の同人誌即売会。
通常は、年2回、夏と冬に東京国際展示場(東京ビックサイト)全ホールを使って開催され、のべ入場者数約50万人という、おそらく世界最大規模のイベント。
断片知識として、「入場に6時間かかる」という話も聞いたことがあります。
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冗談ではない。
体力もないけど、ディズニーランドで20分待つのも嫌いな私が、素人のコンテンツ売買イベントなんぞに、参加できる訳がありません。
著作権問題が解決されていない作品の取引を見ているだけで、私は怒り出すかもしれない。
無用な紛争を起こすことが判っていて参加するなど、愚の骨頂です。
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『いえいえ、そうじゃないです、江端さん。出店の方です』
―― 出店? 私に漫画なんぞが描けると思っているのですか?
『いや、そうじゃなくて。コラムやエッセイを出せばいいじゃないですか。江端さんのブログを纏めて冊子にしてもいいと思いますよ』
―― え? コミケって、文章も出せるのですか?
『コミケの精神は、「ノンセクションの自己表現」です』
自慢されてしまったようです。
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うーん、そう来たか。これは、予想もしなかった展開です。
「初音ミクコンサート」の参加は娘に随伴を断わられましたが、消費者でなく、提供者としての参加というのは、ちょっと、そそられるものがあります。
同人誌関係は、法律からのアプローチしかしていないが、現場を踏むという想定はしていませんでした。
これは、なかなかコラム魂に火が付く話です。
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―― しかし
今迄、寄稿してきたコラムの内容を省みると、コミケ会場で、関係者から袋叩きにあうんじゃないか、という恐怖が、皆無という訳でもありません。
おそらくは一冊も売れないであろう、私のブログ印刷物を見ながら、ブースに座り続けるのは、相当な苦痛でもあろうと思われます。
そのブースで、一人、黙々と原稿を書いている自分が、簡単に想像できてしまいます。
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結論:うん、やっぱりダメだな。
あの時は「考えておく」と言いましたが、現時点で、その気はなくなりました。
しかし、これを読んだ編集担当者さんから『是非行って下さい』と言われたら、ちょっと困るな。
昨夜、深夜の帰宅途中のことです。
駅から家までの通路は、小山に挟まれた集落の間の細い一本道ですが、人気がなく、ひっそりしたところです。
以前は、嫁さんは、昼間でも通らなかったくらいです。
逆に、私はこのような人気が少ない所が大好きです。
四季の樹々の香りを楽しめるし、また、民家が少ないから夜は星も良く見えるし、空気もきれい(タバコを歩き吸いする奴もいない)。
歩きながらアイデアを案出するのに凄く適していて、私は「発明ロード」と呼んでいます(勝手に)。
それはさておき。
-----
昨夜の深夜、この道を通って一人で帰宅してきたのですが、人の笑い声が聞こえてくるのです。
私が記憶している限り、その方向は雑木林の削られた場所で、民家はなく、深夜に人が入り込めるような場所でありません。
その闇の中から、笑い声が聞こえてくるのです。
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ウフフフフ・・・、アハハ・・・
というような、消え入るような、仄かな笑い声
―― ではなく、
「ぐわっはっは! がっはっはっはー!」
という、酷く迫力のある、まあ、なんといったら良いのか、品のない中年のおっさんの、ダミ声。
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あの方向の雑木林に人間がいるハズはないので、これは、超常現象の何か、たぶん「幽霊」と言われているモノであると思うのですが、
しかし、闇の中からなり響く「がっはっはっはー!」という声を、間違いなく3回は聞きましたから、さすがに、今回は「幻聴」ではないと思うのですよ。
(まあ、「酔っ払い」が誰もいない深夜の雑木林で錯乱している、という解釈も成りたつとは思いますが、ここは「幽霊」で押し通します)
-----
皆さんは体験はないと思いますが、「大爆笑する幽霊」というのは、
全く「怖くない」です。
今度、酒瓶抱えて、あの雑木林の中に入ってみてもいいな、と思うくらい。
私が嫁さんにプロポーズした後、結婚に至るまで、あまり大きな障害はなかったです。
でも、「小さい障害」は、いくつかありました。
例えば、 私の結婚を断念させる為の合宿とか。
「大きな障害」というのは、この場合、嫁さんのご両親の承諾を頂くということですが、こっちは結構すんなり行きました。
私は学生時代、 「ささやかに過激」でしたので、ちょっと気にしていました。
結果としては、全く問題なく結婚を許して頂きましたが。
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私の場合、いくつかのラッキーな要素が重なりあって、結婚に至れたのですが、その中でも特に、お義父さんの判断基準となったのが、「私の就職先(大手総合電機メーカ)」だったこと、だそうです。
―― ふーん、そういうものなのかなあ
「私」でなく「私の属性」で判断するということに、なんとなく違和感を感じていたのですが、まあ、「私の両親の世代の価値観」って、そういうものかもしれないな」と思っていました。
そして、今。
私は、この考え方が、「世代の価値観」ではなく「普遍的な真理」であることを知っています。
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いいですか、この私が、
曲りなりにも、大学の政治色の強い自治寮の寮長を努めた(途中で逃げ出しましたが)、この江端智一がですよ、
私の二人の娘達の結婚相手が、
『警察官か自衛隊員がいいな』
と考えるに至っているくらいなのです。
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この不確実性の時代にあって、「学歴」や「経済的な安定」なんぞでは、全然足りない。
強烈かつ理不尽な組織の理論でがんじがらめになり、自由を制限され、行動を規制されるような男が、娘たちの結婚相手であって欲しい。
そう、思うくらいに、私は保守的になっているのです。
もちろん、「売れない場末の芸人」なら、絶対に家から叩き出す。
-----
娘のつきあっている男の「人となり」を判断するのは、大変な上に面倒です。そもそも、そのような判断をするには、長時間に渡る、粘り強い付き合いが必要です。
しかし、私は、家族全員から「人間嫌い」と認定されている者です。人間を観察し、判断するのは、正直面倒なのです。
そんな私の、てっとり早い判断基準は「ブランド」です。信用が化体したブランドを選択する方が、簡単で楽チンです。
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昔、同期の仲間で飲んでいた時、「結局、私は私自身でなく、私の属性のお陰で結婚に至れたんだろうなー」とつぶやいた時、
私の同僚の一人は、私を汚いものを見るようにして、「そんなものは『真の愛』ではない」と吐き捨てるように言いました。
確かにそうなのかもしれません。結果として「属性」を利用した私は「汚ない」のかもしれません。
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この話は、上記の結論で閉じて良いのですが、一つ付け加えることがあるとすれば、彼は未だに独身ということでしょうか。
「真の愛」を求めて続けている(のかもしれない)彼を、今でも、私は、心の底から応援しています。
今回、実家に帰省して、実家の家具の全てに、地震対策用の金具(L金具、鎖、つっぱり等)を設置してきました。
手で動かして揺れるような家具は、地震の時には間違いなく殺人凶器に変わります。
―― てなことは、日本人であれば、耳にタコができるくらい、聞かされていますよね。
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(これも何度かお話しましたが)神戸の震災の時、私はボランティアとして現地入りしたのですが、その時、衝撃を受けた風景が、
■倒壊している家屋は、100%倒壊し(ペチャンコ)
■倒壊いない家屋は、外見上は問題なし(に見える)
という、完全な2値化の結果であったという事実です。
昭和56年以後に建てられた家屋であれば、ペチャンコという倒壊は避けられると思います。つまり、家屋倒壊による即死は免れるだろう、と思います。
とすれば、課題は、家の中にある重量級の家具です。
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金具による固定設置程度の地震対策もしていない、というのは色々理由があるでしょう。
例えば、「金具の設置ができない」「工具を扱える知見がない」というのは、まあ仕方ないと思います。
しかし、最近は、使い易い上に、小さくて軽い電動ドライバーがDIYショップで売られていますので、是非試して頂きたいです。
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私が激怒するのは、「どうせ、家具が倒れるような地震なら、家も潰れてすぐ死んじゃうさ」という言い草です。
そもそも、「すぐに死ねる」と思っている、その「見こみの甘さ」に腹が立ちます。
■トンの単位の荷重で体躯を押し潰されたまま、
■手足を引き千切られ、
■頭蓋の半分が陥没し、
■内蔵が破裂して、臓物が飛散している
というような状態でも、人間は何十時間でも生き続けられます。
人間の生命力を舐めてはなりません。
下手をすれば、捜索時間の上限72時間を越えても、まだあなたは生きているかもしれません。しかも、この世の地獄を味わいながら、です。
加えて、「すぐに死ねる」と言い放ったあなたの為に、貴重なレスキューの人材が割かれて、本当に助かりたい人の命まで失なわれる、と。
あなたが、家具の下敷にならずに、「こっちは、大丈夫だ」の一言言えば済むだけのことの為に、例えば、10人のレスキュー隊 x 3時間 = 30人時間を、無駄に使わせる訳です。
そんな奴は、「今すぐ」死んでくれ。迷惑だから。
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被災地に対して、「義援金を出す」「ボランティアに参加する」ということも大切ですが、もっと確実な被災地に対する真の貢献とは、
「命を賭して、被災地が浮び上がらせてくれた課題に、真摯に対応すること」
だと、私は信じています。
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阪神・淡路大震災の時、負傷者やその家族でごった返す病院のロビーの片隅で、長いすに幼児の遺体を横たえて、
「ごめんね、ごめんね、母さんがあんなもの(たんす)を買わなければよかった」
と、繰り返しながら、幼児の遺体を撫で続けていたという母親に対して、
我々がすべきことは、一辺通りの「慰めの言葉」をかけることだけですか。
意外に知られていませんが、ダイヤモンドというのは、その「物」自体には、あまり価値はありません。
現実に、ダイヤモンド鉱山では、産出過剰状態で、加えて人工的にも作れるので、今や希少という程ではないのです。
私の認識では、その辺の石ころよりは見付けにくいかなぁ、いうくらいです。
ダイヤモンドは「普遍的に存在して美しいもの」である、と言う人もいるかもしれません。
「普遍的」というのは結構怪しくて、ダイヤモンドは純粋な炭素の結合物ですので、実によく「燃えます」。1000度もあれば発火しますので、ガスコンロの火にかざすだけで、一発で灰になります。
遺体を焼かれる前に、ダイヤモンドの指輪を取り外すのは、常識です。
しかし、業界では、上記のような話、結構有名でして、そもそも、装飾品としてのダイヤモンドの市場は、笑ってしまうほど「安い」のです。
200万円のダイヤの宝飾品を質屋に入れたら、10万円しか貸してくれなかった、という話は、普通に聞きます。
つまり、「ダイヤモンド」も、日本の円や米国のドルも、ダイヤモンドを産出する組織や国家が、流出量をコントロールすることで、価値があるという共同幻想を作り出しているという点では同じです。
という訳で、婚約指輪に、他の宝石はともかく、ダイヤモンドというのは、私個人としてはお勧めしません。
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実は、私結婚する時に、エンゲージリングは手に入れましたけど(今は所在不明です)、婚約指輪を購入していません。
婚約指輪なんぞ「不要」という嫁さんと、価値がその金額と等価にないものを「購入したくない」という私の利害が100%一致したからです。
そんなもの買う金があったら、「100回でもバイキングにでもいって飯を喰った方がマシだ」という認識で、その我々のポリシーは一致していたのです。
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とは言え、「ダイヤモンド」というのは、世界一硬い鉱物です。これを「永遠の愛」のモチーフと考えるのは、それほど悪くない、とも思えます。
それなら、ダイヤモンドを宝飾としてカットする道具である「ダイヤモンドの粉末が埋め込まれたドリルの歯」の方が、「永遠の愛」を象徴するには相応わしい、と言えましょう。
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で、嫁さんに話をしてみました。
―― 我々の『永遠の愛』のリコンファームの為に『ダイヤモンド加工用のドリルの歯』を装したネックレスを贈るよ。
と言ったら、
「そんなものは、いらん」
と、即答されました。
今回、国民栄誉賞に、長島茂雄さんと、松井秀喜さんの二人が授与されました。
私は、野球はルールを知っているくらいのものなので、彼等の真の偉業を理解できているとは到底言えませんが、それでも、お祝いを申し上げたいと思います。
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国民栄誉賞とは、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」(内閣府ホームーページ)となっております。
まあ、逆に言えば、客観的かつ明確な基準はない、ということです。
「あの人なら、当然、その受賞に当たる」と国民の合意が形成できる程度という、漠とした基準となります。
もちろん、これはこれで良いのです。内閣府は、特許出願の審査をしている訳ではないからです。
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ただ、この話が出てくると、いつでも取り上がる話題として、
「漫画家の手塚治虫先生に、なぜ授与しないか」
が出てきますね(あまりに有名ですが)。
真偽の程は不明ですが、手塚先生が、共産党を支援または賛美する作品を描いていた、とウワサがあります。
とすると、世界でもっとも読まれていると言われる「ドラえもん」を描いていられる藤子不二雄A先生ですら、難しいのかもしれません(劇画 毛沢東伝等)
また、さらに穿った見方をすれば、「存命中の受賞」はリスクを伴なうとも言えます。もし、国民栄誉賞を授与した人間が、犯罪を犯したりしたら、もう、大騒ぎになるでしょうし。
ええっと、今日はその話でないのです。
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日本人であれば、誰でも「この人に国民栄誉賞を!」と思う人がいると思います。
私の場合は「中島みゆき」さんを挙げたいです。
受賞理由は、「真摯な精進、歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた(美空ひばり)」
――という理由では、全然足りなくて、
上記の理由に加えて、
「人の心に訴える優れた音楽を、多数創作し」
「その音楽療法の効果によって、多くの国民の、初期の軽度のうつ病等の予防に資した」
という、医学的観点からも、高く評価されるべきだと思うのです。
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ただ、「中島みゆき」さんの場合、没後受賞となる可能性が高いように思われます(まあ、なんとなく理由は分かって頂けると思いますが)。
しかし、私としては、是非、内閣府に「来年あたり」を検討頂きたいのです。
受賞した彼女のコメントを、私は「死ぬほど」聞きいたいのです。
きっと、後世100年語り続けられる、ナイスなコメントを残してくれるだろうと思うのです。
あるいは、「国民栄誉賞」という題目の歌を創って歌ってくれるかもしれません。
―― ♪ 一億の日本国民が 忘れても 見捨てても
―― 宇宙(そら)の掌の中 人は国民栄誉賞~♪ (名曲「永久欠番」のパロディ)
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私の場合、国民栄誉賞を授与することなど、R世界線は勿論、α世界線でも、γ世界線でも、あり得ません。
国民栄誉賞を授与くらいなら、まだノーベル賞の方が近い、というくらいあり得ません。
私は、ネット上では実名を公開して活動しているのですが、圧倒的に多くの人は、匿名で活動されています。
実名、匿名ともに、メリット・デメリットがありますので、よく考えた上で、自由に選択すれば良いと思います。
それはさておき。
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実名公開を原則とする私と、匿名公開を通常としている方との関係は、どうしてもUnsymmetric(アンシンメトリック:非対象性)な関係になります。
私は、私の考えや日常を毎日のように公開している訳ですが、その逆は成立しません。
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気のせいかもしれませんが、最近、
■見も知らない人から、軽く会釈をされたり、
■ドアを明けられたり、道を明けられたり。
■エレベータのドアの「開」を押されて、先に出るように誘導されたり、
ということが、多くなったような気がするのです。
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会社の若い研究員諸君が、形式的であれ、歳をとった研究員に対して、一定の敬意を示して振る舞ってくれることは、十分承知してはいます。
例外もいますが、彼等は、基本的には、気が良く、親切で、そして恐しく頭の良い若者ばかりです。
比して、私は、愛想が悪く、慢性的な睡眠不足でいつも顔色も悪く、身嗜みも最低レベル。そして、浅学、卑怯、狭量という、3大悪癖を持つ、古参の万年主任研究員です。
こうして、比較してみると、ネットの世界でも、リアルな世界でも、私と私以外の人間の関係は、アンシンメトリックが際だっていることが分かります。
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あっちから、こっちは見えているのに、
こっちから、あっちは見えない。
こういう状況は、濃い霧の中を歩いているような、違和感というか、おぼつかなさを感じます。
なんというか、敵を特定できない不安というか、どこから狙撃されるか分からないような恐怖といいますか、そんな感じが拭えないのです。
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「なんで、そんな悪い風に考えるんだ」と言われることくらいは、私も分かってはいるのですよ。
そんな風に考えないで、自分のことを、
■暗くて広い観客席を目の前にして、コンサート会場で歌っている国民的アイドル
■街中で擦れ違いさま、振り返られる著名俳優
■政界の最大派閥に睨みがきき、官僚にも顔が通る大物政治家
という風に、(都合よく)自分を認識すればすれば良いことは分っているのですが、
基本的に、「物事は、ほっとけば悪い方向に進む」と信じてきて、実際に「悪い方向に進んできた」と確信している私には、自分のことを、アイドルや俳優や政治家のように見ることは、到底できないのです。
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という訳で、私に親切にしてくれる人は、
「私に優しくしないことが、私にとって最大の優しさである(場合もある)」
ということに、時々想いを馳せて頂ければと思います。
コミックマーケット(コミケ)というのが、自己表現の場であり、自分の創作物を披露する場であるという設立趣旨は、誠に素晴しいと思います。
ただなぁ、それでも「コミックマーケット」と言う以上は、「コミック」というジャンルに制限はされるのだろうな、と思うのです。
コスチュームプレイ(コスプレ)も、基本的には「コミック」の登場人物を模しているので、やっぱりコミックに関連している表現であると思います。
しかし、これも上演権(著作権法22条)の侵害・・・というような話もあるのですが、それはさておき。
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「羨しいな」
と思いまして。
例えば、私が、自分で作ったパソコンのソフトウェア(しかも家電製品を制御するプログラムなど)を、コミケで販売できるか、というと、―― まあ、誰も止めないとは思いますが ―― まあ、あんまり売れそうにななさそうです。
そもそも、この手のソフトウェアは、フリーとして配布されることが多いので、コミケ会場のように集る必然性がありません。
あれ、でも、じゃあ、なんで、同人誌はコミケという「場」が必要なのだっけ?
同人誌だって電子化して配布することはできるだろうし、コスプレはYouTubeで上映することだって可能です。
金もかかり、会場設営も大変で、当日も緻密な運営が必要で、すさまじいボランティア数を必要とする、こんなにも面倒くさいイベントによる流通形態を、なぜわざわざ採用しているんだろう?
まあ、回答は「祭(まつり)だから」という答えしか出てきません。
ネットでイベントを開催しても、ても、勿論、盛り上がるかもしれませんが、どこまで行っても「祭」には至れないような気がします。
では、「コミケ」というのは、「ネット」のアンチテーゼ、ということになるのかもしれません(この話は後日展開予定)。
それも、さておき。
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同人誌に関する、著作権法の問題点は、この何回かの連載の勉強の中で、なんとなく判ってきました。
これらの連載記事は、関係者の人には、「触れて欲しくない事項」の満載だったと思いますし、実際に憎悪に近いメッセージも送られています。
にも関わらず、私の興味は、今、コミケにおける商取引の法律の適用に視点がシフトしています。
コミケにおける創作物は、金銭の授受をもって取引されている債権と認定できますので、当然に課税の対象となるだろうと考えています。
この場合、「同人誌の消費税は?」「確定申告は?」「特例措置はあるのか?」などに興味が湧いてきています。
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「なんで、この江端って野郎は、私達が善意で楽しんでいるイベントに、不要な雑音を入れてきやがるんだ!」と思っている人は少なからずいると思うのですよ。
勘違いされては困るのですが、私はコミケを「潰したい」のではなく、「もっと見ていたい」のです。
こんな興味深く、色々な社会的に難しい問題を大量に内在し、しかも人を魅了するイベントは、そんなにありませんから。
私にとって、コミケは、巨大な「自由研究の対象」なのです。
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「では、江端は、コミケを保護する側に立つのだな」と言われると、別に、そういう訳でもないのです。
「肯定も否定もせず、ただ自分の視点で見て、考えて、それを話したいだけ」なのです。
そういう意味では、私はコミケを支援する側からも、コミケを潰したい側からも、迷惑な奴で、双方から「敵」と認定される立場にいる、と考えています。
で、まあ、そろそろ本気で、テロの襲撃にあうかもしれんなーと、ボンヤリと考えております。
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で、お願いがあるのですが、テロの実施前の「テロの立案」段階で、私に警告頂けないでしょうか。
私は信念があって、寄稿をしている訳ではありません。楽しんでいるだけです。ですから、テロの警告一発で、私は「私の自由研究」を、即時中止できます。迷いも拘りもありません。
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もちろん、執筆者の義務として、
「○○さんより、テロの襲撃予告を受けましたので、連載は中止します。あしからず、ご了承下さい」
と、皆さんにも、きちんとご報告申し上げます。
先日英国に発注した、GPSの専門書が昨日家に届きました。
高価な洋書を個人購入するなど馬鹿げた話で(会社に購入して貰うのが正解)で、加えて、どうせ英文の内容も理解できないのですが、このような暴挙に出たのは、
「付録のDVD」を個人で所有したかったのです(図書に返却したくなかった)。
GPS信号をダウンコンバートした後のビット符号化されたデータというのが、なかなか入手できない上に、そのようなデータを貰える研究機関にもコネがありません。
「自由研究」の代償は、高くつくのです。
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先日、事後承諾で、嫁さんにこの洋書の購入のことを話しました。
Amazonで購入した金額は、全て嫁さんの検閲が入ります。後で問い詰められるより、今、叱られた方が良いと思いまして。
「付録のDVDが欲しかった」という話に至った時、
―― イギリスのアニメにまで、コラムの調査範囲が及んでいる訳 ?
と、詰問されました。
「は? え? 何のこと?」と逆に問い返したら、最近、私の嫁さんは、いわゆるサブカルチャーの自由研究に余念がない、自分の旦那の
「オタク化」
に、随分、心配しているようなのです。
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私も、調査を開始するまでは知らなかったのですが、サブカルチャーの世界は、めちゃくちゃに広くて、そのカテゴリーも数え切れない程あります。
これらの全てを「オタク」という言葉で、一元的に表現することは、
■例えば、米国人の気質を、「愉快で、ジョークが好きで、コカコーラばかりを飲んでいる」とか、
■あるいは、中国人の気質を、「日本を敵視していて、傲慢で、乱暴」と極めつけるような、
酷く乱暴な話だと思います。
私は、上記の例の全てに、自分の体験からなる反例を、いくらでも挙げられます。
だてに、山程の海外出張命令を受けてきた訳ではありません。
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ただまあ、嫁さんや二人の娘達が、「オタク」という世界を単純化して一元化してしまうことは、ある種、止むを得ないこともあるでしょう。
なにしろ、嫁さんも、娘も、その世界の中に、分け入ったことがある訳ではないのですから。
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嫁さんとのやりとりを見ていた娘(長女)も、厳しい目をして、私に注文を付けてきました。
「パパがアニメの少女キャラクターのフィギュアを購入して、下からそのフィギュアのパンツを覗くような振舞をしたら、別居して貰うからね」
一体、どこの誰から、このような知識を持ってくるのか、私には知り得ませんが、取り急ぎ、私は娘に対して、即答しました。
「うむ。絶対的な意味において、約束する」
先日、 政治の政党の政策数値シミュレーションのソースコードを公開する提案を致しました。
このような数値シミュレーション自体は、それほど難しいものではないと思うのですが、その作成には時間がかかりそうです。
まず、政策や経済モデルを根っこから理解しないと、プログラムを作ることができないと思います。
規模にもよると思うのですが、10人くらいのチームが半年くらいはかかるではないかと、見積っています。
しかし、それにしても、各政党が、このようなシミュレーションをやっているとしたら、
―― どこにプログラムの外注を出しているんだろう?
私は今でも、どこにも外注していなくて、ただ、「我が党の政策で、財政建て直しが可能!」と選挙カーの上から叫んでいるだけ、という疑義は晴れていないのです。
「我が党は、ちゃんと試算シミュレーションをやっている」という政党の政策責任者の方。是非御一報下さい。私の方から、皆さんにお報せ致しますので。
もちろん、「そのソースコード開示しろ」などという、空気を読まないようなお願いはしません。
それはさておき。
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しかし、自分の党の政策数値シミュレーションを開示するのは、結構危険が一杯ですよね。
簡単に「ボロ」がでそうで、その攻撃に対して、その言い訳に終始することになりそうです。
で、考えたのです。逆のアプローチをするのはどうかな、と。
自分の政党ではなく、対立政党の政策数値シミュレーションのプログラムを開示する、と。
これはやりやすい。
何しろ、政敵のシミュレーションの結果を「財政破綻」に導けば良いからです。
自民党は民主党の、民主党は自民党の財政数値シミュレーションをやれば良いのです(共産党の分は、予算が付かないかも)。
で、当然、そのプログラムで攻撃された政党は、そのプログラムに修正をかける訳です。
パラメータの初期値とか、係数値の変更とか、経済モデルサブルーチンの入れ替えとか。
これが、選挙戦の期間、ずっと開示され続ける訳です。ソフトウェアエンジニアの間では、燃え上ること間違いなしです。
しかも、理念とか信念とか、そういうものではなく、ただ「数値」のみで闘うという、極めて客観的な手段で、です。
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という訳で、各政党政策(財政)担当者の皆様。
このような仕事の依頼を頂けましたら、ご相談の上、お受けできる可能性があります。
仕組みや理論さえキチンと教えて頂ければ、我々がプログラムに仕立て上げることは、それほど難しいことではありません。
ただ、「そこは、根性だ」とか「政治的理念さえあれば」とか、「信頼によって」とか、そのような要素は全部排除されます。それは、プログラムできないからです。
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もし、同じ会社にバラバラの政党から依頼が来たら ―― 面白い。
各担当セクション間が、物凄く険悪な雰囲気になることは間違いありません。
考えるだけで、ワクワクします。
最近、朝のニュース番組などで、ボーカロイド(ボカロ)が、初音ミクを例に、紹介されるようになっているそうです。
何年か前には、主要なマスコミメディアは、まるでボカロ愛好者を変態扱いまでしていたようですから、「えらい態度の変え方だな」と、思っている人も多いでしょう。
しかし、この事実は、新しい技術と文化が、ある一定の期間「寝かせつつ」と、ブームをゆっくりと細々とでも継続させ続けるということが、いかに大切であるか、という、一つの分かりやすい事例とも言えます。
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そういう技術(または文化)は、それを作り上げている人からは価値があるように見えますが、そうでない人からは、「どーでも良い」ものです。
そういう技術開発には、予算が付かないのです。
予算が付かないと、なかなか自分の意思だけで続けるというのは、難しいです。だって、「何も食べずに働くようなもの」ですから。
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我々研究員がやりたい研究を続ける為に必要とされる資質というのは、「能力」「才能」「熱意」「カリスマ」というようなものよりは、寧ろ、
「粗食」で幸せになれるような、「自己洗脳」だと思います。
毎日、納豆御飯ともやし炒めで「我慢する」 ―― ではなく、そのような食事を、心から「美味しい」と思える、自己催眠の技が必要になってくるのだと。
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私も今、だれにも知られないように、2つの研究と勉強を続けています(週末研究員)。
一生「日の目を見ること」はなさそうな、無茶な挑戦であると自分でも思っています。
ですから、時々、お腹がへって、そのひもじさに、ステーキハウスの前のウィンドウの前で、もの欲しそうな顔をしてしまいます。
(この場合、ステーキハウスとは、国や会社から、予算が付くような研究テーマ(今でいう「クラウド」、昔でいう「ファジィ」など)が相当するか、と)
それでも、私は、敢えて「納豆御飯」を選ぶという生き方もあると信じています。
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でも、正直なところ、研究員は「メジャー」なってナンボ、というのも事実です。
そして、ほとんどの場合、「納豆御飯」の人生の多くは、「納豆御飯」の人生で終わります。
ですから、一年365日、いつどこでも、「納豆御飯」を美味しいと思えない人には、絶対にお勧めできない生き方です。
反原発派の人が、「原発の即時運転停止をすべきだ」というと、
原発派の人が、決め手のように言う言葉に、
「じゃあ、代替エネルギーはどうするんだよ」
といいます。
で、反原発派の人が「再利用可能エネルギー」があるといい、「では、そのエネルギー試算を出せ」と原発派の人がいう、と。
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私は、この「テンプレ」となった応酬を、心底面倒くさいなぁ、といつでも思っています。
反原発派の人は、以下のように言い切れば良いのです。
「代替エネルギーはない。だから、我が国の経済は失墜する。国際競争力は失われる。技術大国日本は終了する」
「だが、それらのデメリットは、一つの街を壊滅させないことの代償しては、概ね妥当ではないか」
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論点は明快です。
[A]:原発と経済力を失なうが、安全と安心を得る
[B]:原発を失わずに経済力を保持するが、命の危険に怯える
の二者択一です。
中間の道を探そうとするから面倒なんです。
極論と言われようとも、ここまで単純化しないと意見が纏まらないと思います。少くとも、私の頭では、ここまで持っていかないと、問題を把握できません。
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私は以前、「安全とは、人を殺すことと同義である」という技術コラムを寄稿したことがあります。
鉄道、交通、航空、エネルギーインフラ、どの分野でも例外はありません。
「安全」とは「殺される人の数」で、その確率を上げていくものであり、しかも、それは、100%に近づけることはできるけど、絶対に100%にはならないものであると。
「原発」だって制御システムである以上、それを安全に近づける為には、差し出す人命が要求されるはずです。
ここに例外を導入したのが「安全神話」という名の虚構で、そもそも、「制御システム」と「神話」は、互いに素なのですよ。
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私自身は、制御システム屋ですので、「原発」だけでなく、「鉄道」「交通」「航空」、いずれのシステムによっても、殺される覚悟はあります(勿論、殺された後の補償を放棄するという意味ではありませんが)。
しかし、そうでない人は沢山いるハズです。いや、むしろ、そっちが大多数かと思います。
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残るは、国民投票ですよ。参議院選挙も近いことですしね。
こんな感じの投票システムで。
「あなたは、[A]ですか、[B]ですか。いずれか一つに○を付けて下さい」
先日、私の娘(長女)が、
「少女アニメキャラクターのフィギュアのスカートの中を覗き込む」
という、ある種の人間の生態について語っていた、という話を致しました。
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先日、めずらしく家族でレストランのバイキングにでかけてきたのですが、その時、娘(次女)と一緒に、同じラインに並んで、話をしていた時のことです。
どういう話の経緯でそうなったのかは、忘れたのですが、私の子供の頃の話になりました。
「パパは、大人と子供の時代を比べると、圧倒的に大人の時代の方がいいな。あんまり、今の方が、自由に生きることができて、楽だよ」
「楽?」
「窮屈(きゅうくつ)、と言ったらいいのかな。クラスとか、チームとか、仲間とか、班行動とか、そういうものが大っ嫌いだったから。ようやく、色々なことから開放されて、今は、とても楽だよ」
「そうかー、パパの子供時代は『黒歴史』だったんだね」
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だから、一体どこの誰だ。
私の娘たちに、妙な「言葉」を教えている奴は。
昨日のバイキングの話の続編です。
バイキングにでかける前、家長である私は家族に訓示を与えました。
■まず、肉だ。一番高価なものから狙え。基本的には牛肉で、豚、鶏は後回しにしろ。
■判断に迷ったら、体積辺り単価の高いものを少量づつ狙え。単価が分からない場合は、パパとママを頼れ。単独行動は禁ずる。
■間違っても、初回から、パン、米類を食べてはならない。麺類は論外である。徒らに、満腹感を早めるだけである。
■デザート等の甘味などは論外だ。あれは、満腹後でも対応ができる。「デザートは別腹」というのは、概ね間違っていない。
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「いいか!分かったな!!」 と、私が確認の声を掛けたら、
家族全員が、目と拳で「わかった」と応えました。
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で、まあ、予想通りなのですが、最終的に、レストランで、全員が気分が悪くなりました。
ある者は、長椅子の上で横になり、ある者はトイレに立ち、ある者は特に理由もなく、そのバイキングの入っているホテルの最上階に夜景を見に行くなど、
最後は、家族全員が、バラバラに行動するに至っていました。
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「それにしても、一度でいいから、バイキングで、『今日はサラダを一皿だけ』というような優雅な食べかたをしてみたいものだ」と呟いたところ、
「そんな日は、少くとも我が家においては、永遠にやってこない日だ」と嫁さんに返されました。
私は、基本的に言語以外のコミュニケーション(身振り、手振り)で、多くの国で何とかしてきました。
もちろん、ビジネスでは通用しませんが、旅行程度であれば、世界中どこでもなんとかしてみせる ―― という、漠然とした自信があります。
ですので、私は、言語に関しては「語彙」を重視する立場で、「発音」など本当にどうでもよいと思っていました。
しかし、先日のNHKのラジオ英会話番組で、私のこの考え方を根本から破壊しかねない事例が紹介されていました。
―― 英語のコミュニケーションの相手は、「人間」ではなく「機械」になる
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確かに、覚えがあります。
米国赴任中、電話をつかって予約をしようとしたとき、電話自動応答システムが対応してきて、色々と質問をしてきました。
『あんたは、何をしたいんだ。次の1~5の中から選べ』
と、まあ、この程度はよいのですが、
『どの空港から、どの空港へ、何日の何時の飛行機に乗りたいのか』
との、問いに対する自動音声システムは、ほぼ100%、
『ごめん。わかんない。もう一度言ってくれないかな(I am sorry, I don't understand what you said. Would you please try it again?) 』
と、の応答してくる。
で、同じ質問を三回された挙句、"Sorry, See you again" と言われて、一方的に電話を切られる。
そして、電話の受話器を持ちながら、呆然と立ちすくむ私がいる、と。
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相手は自動音声システムですから、身振り手振りが通じないのは当然として、聞き返し(Pardon?,Sorry?) や、「私は、あの有名な日本人なんだ(I am a Japanese, you know well)」が、通じない。
これは辛い。
これは、いわゆる私が主張してきた、「江端メソッド」を根底から破壊されかねないトレンドと言えましょう。
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私は、以前、寄稿コラムで、「日本の製造メーカーですら、日本語のマニュアルを作らなくなった」というお話をしました。
このような潮流が、自動音声システムにまで拡張しないと、誰が断定できるでしょうか。
コールセンタの無人化は、経費削減の観点から、絶対に止まりようがありません。これは、システムのエンジニアとして断言します。
そして、多言語対応なんぞ論外。対応言語を一元化したいと思うのは当然のことです。
TPP等によって、生保、医療、その他の分野のサービスが日本への流入してくることは確定でしょう。
日本語対応するが莫大な経費がかかる企業が勝つか、日本語対応しないが安価なサービスを提供できる企業が勝つか、今の段階では断言できません。
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我々には2つの道があります。
A:徹底的に英語の、特に発音に関する教育を徹底的に「破壊」して、機械とのコミュニケーションの芽を今のうちに手折る、という戦略。
B:機会とのコミュニケーションを前提に、発音を最重視する英語学習にシフトする戦略
私としては、どっちの対応も嫌です。
私の第三の戦略は、「C:このようなトレンドが、あと10年来ないことをひたすら祈り続ける」です。
「初音ミク」関係で9つの寄稿をしたにも関わらず、私自身は、未だ、ボーカロイドの楽曲にのめり込んでいく、という兆候が見られません。
音楽をゆっくり観賞する時間があまり取れない ―― というのは、言い訳でしょう。
やっぱり、私には「人工音声」は聞き取り難いのです。こればかりは特性なので、どうしようもないと思っています。
それはさておき。
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昔、新人の時代に、上司に誘われて飲み会の二次会に参加したことがありました。
そこで、私の同期の女性に、デュエットを申し入れる見知らぬおじさんがいて、違和感を感じたことが、ありました。
「若い女性を口説く」為の口実にしては、雑すぎる。
同期の新人が3名が、しかも上司付きでいる中で、こんなことをする男性は、戦略を誤っているとしか思えません。
あまりの懸命さに、彼女はデュエットを引き受けたのですが、そのおじさんがした選曲を聞いて、私は、「ああ、そういうことか」と納得したのを覚えています。
選曲は ―― 今井美樹さんの、名曲「PIECE OF MY WISH」
♪ 朝が来るまで 泣き続けた夜も ・・・ だけど最後の答えは一人で見つけるのね ~ ♪
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文句なしの名曲です。
しかし、これを「おっさん一人で唄う様」は、本人は勿論だが、周りの人も正直「困る」。
確かに、女性のデュエットという態様を取らないと様(さま)にならない、と思えます。
おじさんの戦略は、全くもって正しかったのです。
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性差や年齢を越えて、誰の歌であれ、素晴しいものは、素晴しいのです。
しかし、それぞれの歌には、それぞれの歌が選ぶ「主体」というものがあります。
主体が変わったときに、「誰の歌であれ、素晴しいものは、素晴しい」と、必ずしも言えないことがあるのも、残念ながら事実なのです。
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私、「ボーカロイド」というものは、歌手としての自分を代替する「楽器」である、と思っています。
■米寿を迎えるおじいさんが、ジュブナイルの心を、「初音ミク」を使ってポップ調の調べで謳う。
■中学生の男子生徒が、人妻に恋焦がれる「不倫の心」を「初音ミク」を使って演歌で謳う。
少し適用例が違うかもしれませんが、「今井美樹を歌いたいおじさん」の心を受けとめる効果が、「ボーカロイドにはある」と私は信じているのです。
ご存知の方もいるかもしれませんが、私、あの「ヤマハ音楽教室」の生徒でした。中学2年生まで、トータル9年くらい在席していました。
しかし、あの「ヤマハ音楽教室」の目的は何だったのだろう、と思うことがあります。
私の場合、間違ってもピアニストを目指しているというビジョンはなかったので、教室への通学は、必ずしも楽しいものではありませんでした。
それはさておき。
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もう、そろそろ登場してくると思うのです。
「ヤマハ ボーカロイド教室」
教育の柱は、「作曲」になるだろうと思います。楽器の「技」は問題ではないのですから。
当然、音楽理論に基づく作曲技術の育成が中心に据えられるハズです。
ボカロPとしてのデビューに関しても、音楽プロダクションの力学とか、政治力とか、そういう嫌らしいものなし。
年齢、性別、出身、一切関係なく、作詞、作曲、編曲が可能で、歌手として「ボカロキャラクター」に歌って貰えば良いのだから、ネットでいつでもリリース可能。
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ただ、課題も山積です。
まずは、ITスキルが前提となること。「パソコン使うくらいなら、鍵盤叩いている方が簡単だ」という人は、多数派だと思います。
ボカロの音楽理論が、教育目的として体系化されているかどうかも、不明です(多分、現時点で、そんなものはないだろうと思う)。
それに、ボカロPのビジネスモデルというのも、確立していないようですし。
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いずれにしても、現段階で「ボカロ」はメジャーではありません。
やはり、「ボカロ」を全国レベルに認知させるには、初音ミクの「紅白歌合戦出場」が必要だと思うのです。
私が感じた「人生最大級の驚愕と恐怖」を、是非、日本全国全ての人にも共有して貰いたい、と、邪悪な笑みを浮べながら考えてしまうのです。
上記のイラストで、娘が「金欠なう」との文言を入れております。
これは、私がこずかいによる金銭的な虐待をしている訳ではありません。
理由を尋ねたところ、
―― 友人と二人で、2000円で食べ放題のしゃぶしゃぶ屋に行ったから
なのだそうです。
女子中学生が、二人でしゃぶしゃぶの鍋をつついている絵。
想像するに、なんともシュールな光景です。
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私も、人生で2回程、「低料金の食べ放題のしゃぶしゃぶ屋」にいったことがあります。
一度は大学生の頃。もう一度は社会人になってからです。
大学生の頃、あんなに美味しいと思ったあの牛肉が、社会人になってから「これは『紙』か?」と思うくらいに、文字通り「味気ない」味と感じました。
「舌が傲った (おごった)か?」とも思ったのですが、多分そうではないと思います。
大学生の時、私は、低料金の食べ放題のしゃぶしゃぶ屋で、「牛肉」ではなく「牛肉という概念」を食べていたのだと思うのです。
「牛肉」という非日常を食す ―― これは、ビンボーな苦学大学生にとって、一大イベントであったはずです。
「牛肉」という有体物ではなく、「牛肉という概念」という無体物を食して喜んでいられた。それはそれで、幸せな時代だったのだろうと思います。
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嫁さんは、学生の頃に「吉野屋の牛丼」を一回食べたきり、その後の人生で食べたことがないそうです。
「牛肉の味がしない」のだとか。
嫁さんは間違っているのです。
「吉野屋の牛丼」に、「牛肉の味」などを求めてはならないのです。
「吉野屋の牛丼」とは、「牛丼」ではありません。あれは「吉野屋の牛丼」なのです。
米、牛肉、タレ、紅生姜、七味唐辛子、(ときどき生卵)が有機的に結合した一つの作品なのです。
そして、何よりあれは、「吉野屋の牛丼」という「概念」なのです。
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ですから、嫁さんが「牛肉の味がしない」というのは当然です。
「吉野屋の牛丼」からは「吉野屋の牛丼」の味しかしないのですから。
「統計学が最強の学問である」という本が売れているようです。
「最強の学問」であるかどうかは私には分かりませんが、「統計は面白い」ということは知っています。
いや、正確に言うとですね、「たくさんの数値が目の前にある時、これを統計の観点から操作すると、『意味があるような数値に見えてくる錯覚』が、なんとも楽しいのです。
「錯覚」を作り出すことは、予算をぶんどる側に立つ研究員には必須の技術だったりします。
ちなみに、「統計でウソをつく法」というのは、私が高校生のときからある名著です。
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まあ、統計については、これまでいくつかお話してきました。例えば、
を書いてきましたが、本日はちょっと昔の話など。
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私、大学の一般教養過程で「統計学」を受講していました。
その統計学は「文系向け学生」に開講されたものでしたから、パソコン使って、統計で遊んでいた、現役理系学生の私が受講するなんてことは、もう、
―― 文句なしの「卑怯」
と言えましょう。
ですので、小テストの時など、前や後ろの席に座っている見たこともない学生から、小さい声で「見せて貰っていいですか」などと頼まれることがありました。
私としては気前よく、自分の答案をクラスの中に流していました。「卑怯」の代償といったところでしょうか。
当然ですが、クラスでは文句なしでトップを張っている、と自負しておりました。
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ところが、この講義の成績が「B判定」で返ってきたときは、ちょっと驚き、その後、苦笑いしたものです。
―― あの教授、私を「絶対評価」をしたな
教授も、私の「卑怯」をちゃんと看破していたようです。
私の会社の隣には小学校があり、通勤経路からグランドを見渡すことができます。
最近、小学生達が運動会の練習をしているのを見ます。
昨日は、踊りの練習をしているようでした。
色とりどりの原色のコスチュームに、(多分、自分の好きな)一字(漢字)を書き入れた衣装をまとって、いました。
ざっと見たところ、「友」「勇」「信」「義」「誠」「一」「道」「学」「心」・・・などなど。
まあ、小学生の運動会というなら、この辺が妥当だとは思うのですが。
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つまらん。
私なら「独」「唯」「我」「卑」「軽」「浅」「蔑」「狭」「孤」「侮」「煩」「雑」 「猥」あたりを出すけどなぁ。
まあ、小学生がこの字を自分のコスチュームに書くに至ったら、まず、教師が止めるでしょう。
また、これで、学校や家庭の問題に気がつかないと失格だろうし、結構な騒ぎになるような気がします。
―― というようなことを考えながら、私は今日も出社しています。
河川や公園などで、「ハトに餌をやらないで下さい」という立て看板をよく見ます。
ハトの糞害で困っている人にとっては、深刻な問題でしょう。
異臭や羽塵を掃除するのは、ハトに餌をやっている人ではなく、被害を受けている周辺の住民の人になりますし、公園の清掃費は我々の税金で支払われているのです。
ハトにとっても、餌を得る為の自助努力の機会が減り、過剰な繁殖の機会を得て、無駄に死んでいく個体も多いでしょう。
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私はここで、公序良俗に関するモラルを説こうという意思はなく、なぜ、多くの人はこのような振舞いをしてしまうか、ということを考えていました。
でも、結構、簡単に結論が出ました。
「(虚構の)権力の具現化」です。
―― クックック、下々の者が、私の投げる与えるもにに集まり、相争うとは、全くもって、おぬしらは見苦しいのう
―― 「この餌を食べずに立ち去る」という誇りも矜持もないのか、この下等動物めが!
と、まあ、全ての人が、そんなことを考えながら餌を与えているとは、私でも思いませんが、
心のどこかで、この想いに繋っているハズ、と、私は確信しているのです。
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そのようにでも考えないと、対面や人の目を気にしがちな気質を持つ日本人である我々が、
「ハトに餌をやらないで下さい」という立て看板の「横」で、平気で餌を与えている人の、
その「人数の多さ」が説明できないのです。
セイコーが、世界のどこであっても正確な時間を提供する、GPS時計というものを販売しています。
「なにも、GPSで時刻補正しなくても」「各国の電波時計用の電波で修正できるし」と思っていたのですが、この時計は、そこに特徴があるのではないようです。
世界の国の地図の国境をデータとして持っていて、その国(または地域)の境界を判断して時刻を提供するもののようです
もちろん、電波時計用の電波塔が存在しない国では、大変役に立つものだと思います。
しかし、この時計が役に立つ主戦場は、ジャングルとか、紛争地区とか、砂漠とか、大海原とかになるのかなぁ、と思っていました。
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と思っていたのですが、電波塔が存在しない国って結構多いんですね。広告によれば、電波塔があるのは「日本、米国、中国、欧州など電波塔が存在する一部の地域」なのだそうです。
とすれば、このGPS時計があれば、世界中どこにいても、時計の時差修正の作業が不要となります。私としては、GPSの時刻誤差なんかより、時差の調整作業がフリーになる方が遥かに嬉しい。
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私が今、やってみたいことは、時差の異なる国の国境の上を跨って、あっちにいったり、こっちにいったりしながら、時刻が変わるのを見てみたい、ということです。
多くの人にとって、「それのどこが楽しい?」と思うようなことかもしれませんが、GPSの技術に惚れ込んでいるエンジニアにとっては、溜まらない魅力なのです。
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かつて同じ様なこととしては、
■GPS衛星のSA解除の日(2000年5月2日:米国赴任中)に、勤務先の会社の駐車場で、ガーミンのGPSレシーバを持って、「ウオー!、誤差が小さくなった!!」と叫んでいたり、
■GPS時刻のロールオーバー問題の日(GPSの1999年問題と言われたもの)の日に、カーナビが滅茶苦茶な表示いるのを確認して、喜んでいたり、
と、まあ、エンジニアには、常人の方とはちょっと違う、世の中の楽しみ方があるのです。
昨日のニュースで「部活の「勝利至上主義」を否定 文科省が指導指針」という見出しを見ました。
これは、大変良い話だと思うのですが、現実には難しいのではないかと思っています。
「勝利至上主義」は、生徒側のニーズではなく、教師(というか監督側)のニーズであるからです。
教師側は、その地位を維持または向上させる為に、目に見える成果を出さなければならないでしょう。
目に見える成果の最たるものは「○○大会優勝」です。これはスポーツではなく、文化系の活動においても同じです。
目に見える成果に対して、邪魔になる生徒(サボる生徒とか、先輩や監督に無礼な後輩とか)を、暴力で矯正するということは、「人権」とか「遵法」とか言う考え方が、スコっと抜けている教師や監督にとっては、
―― まったくもって正当な行為
にしかなりません。
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とすれば、部活の「勝利至上主義」を否定することを徹底するのであれば、まず文科省が、部活による活動の成果を、教師の成果と「してはならない」ことを、明文化すべきでしょう。
でなければ、今回の文科省の指導指針が、有名無実になることは間違いありません。
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まあ、一つの取り組みとして、甲子園における「全国高校野球大会」の一年間の中止という試みはどうでしょうか。
長文ですが、最後まで読んで頂けると、以下のフレーズに出会えます。
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(2)「高校野球」に関しても、あまり多くの注文はしないが、「高校生らしい」高校野球を見たいのであれば、まずそのチームの監督を大人にやらせることを全面撤廃し、その学校の野球部の部員にやらせるのこと。
なんで「高校野球」の采配に、いい年したおっさんがしゃしゃり出てくるの、と思っているのって、私だけですか?
先日の帰宅時(夜10時頃)、駅で電車を入ってくるのを列に並んで待っていたところ、私の前に並んでいた大学生と思われるニーチャンが、いきなり、コンビニ弁当を取り出して、食べ始めました。
「立ち食い弁当」です。
それは、オニギリでもなく、サンドウィッチでもなく、唐揚げ弁当でした。
立ちながら「弁当」を食するということは、当然、両手で弁当箱を支えなければならないことになります。
しかし、食べ物を口に運ぶ為には、右側の手には箸を持たなければならず、その状態では、弁当箱は、左手のみでホールドする必要があります。
その弁当を開いた直後から、そのニーチャンは、背筋を伸ばして、黙々と弁当を食べ続けました。
電車がプラットフォームに入ってきても、慌てる風でもなく、落ちついて食べ続け、電車が停止するのにピッタリ合わせて、ニーチャンは弁当箱を閉じました。
そして、電車のドアの方向を向きつつ、その空の弁当箱を自分のバックに落し、ドアが開くと同時に、悠然と電車の中に入っていきました。
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か・・、かっこいい・・・
通勤電車の中で弁当を食べることは、やっぱりマナー違反とみなされることが多いでしょうし、また、深夜の駅のベンチで食事をするのも、あまりみっとも良い姿ではありません。
しかし、駅の列に並び、立ちながら弁当を黙々と食する、そのニーチャンのスタイルは、私を魅了して離しませんでした。
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「こんなニーチャンがいる限り、我が国はまだまだ大丈夫だ」と、ちょっと論理的には説明できない、大いなる安心感と嬉しさを持って、私も電車に乗り込みました。
以前、落語で、中国のタクシーに乗った時の話を聞いたことがあります。
タクシーの支払いの時に「76元」を請求されたので、100元札と1元札6枚、合計「106元」を、タクシーの運転手に出した所、
『私は76元と言ったのだ。この100元札1枚で十分ではないか』と言われて、「あんたはアホだなぁ」という風な表情で嘲笑われたそうです。
―― アホはお前だ~~!!
と叫びそうになったとか。
(ただし、この話、多分20年以上も前の中国の田舎のお話です。この話をもって、隣国の人を貶めてはなりません)
まあ、「外国の田舎のほのぼのとする笑い話」だよね ―― と思っていたのですよ。
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以前、私の同僚が、茨城にある工場に行った時のことを話してくれたことがあります。
タクシーの支払いの時に、「660円」と請求されたので、「1160円」を出したら、タクシーの運ちゃんに、酷く怒られたのだそうです。
「どうして、お前は、そういう面倒なことをするんだ!」
と、怒鳴られたとか。
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「釣り銭の枚数を最小にするように、事前にコントロールする」というこの金銭授受方式は、日本のどこでも普通に行われていることです。
日本人の暗算計算能力が、高いから可能となる方式でもあります。
ですから、この方式を使って「怒られる」のでは、私も困ります。
私も、その工場に行くのにはタクシーを使いますので、最近は、タクシーに乗った後、タクシーの運ちゃんを観察して、その気質やら知性やらを気にするようになりました。
いらん心配が増えて面倒です。
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ただ、ですね。確かに、年を取ってくると、計算能力を含めて全ての能力が劣化しているのは、確かです。
私自身も実感していますし、私の両親を見ていると、本当に切ないくらいで、時々、涙が出そうになることもあります。
これからの時代は、サービスを提供しているご高齢の方のプライドを傷つけずに、気持よく働いて貰う為に、サービスを受ける我々の側の「配慮」が求められる時代なのかもしれません。