4月20日から公開される、映画版シュタインズゲートの予告を見ました。
「D-mail」の真の発明者である私としては、誰の批評も聞かず、いかなる先入観もなく、この映画を鑑賞したい、と思いました。
という訳で、私、4月20日、体調を崩すか、歯が痛くなるか、あるいは、2回目の肉離れを起こすか、不明ではありますが、
半休、または年休取りますので、関係各位は、よろしくお願いします。
それはさておき。
「2回目の肉離れ」といえば、前回の「肉離れ事件」から、私は学習したことがあります。
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先日、通勤電車の中で、ようやく歩き始めることができたという感じの子供が、私の視界の中にありました。
その娘は、母親の手を離れて、電車の中で立っていたのですが、この時、電車が軽く加速しはじめて、子供がフラフラと倒れそうになりました。
その時、私は、すでに両足で床を蹴るために軽くしゃがむ態勢に入っており、その娘を母親が捕まえることができなければ、「第二回目の肉離れ」を起こすところでした。
この話は、「自己満足の美談」ではすまない、もっと深刻なレベル話です。
■その娘と私の間には、少なくとも3人の乗客が吊革に捕まって立っており、私がダッシュしようが、何をしようが、私は、その娘を絶対に救助できる位置には立っていなかったこと。
■(前回と違って)、私には、その娘を助けようという思考が全くなかったこと。
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ゾクっとしましたね。
―― 脊髄反射
脊髄反射とは、、熱い物に触れた時に、火傷の被害を最小にする為、脳の判断を待たずに、脊髄が、手に対してその物体から離れようとする命令を発生する、生物のメカニズムです。
これは、生命が淘汰を繰り返して獲得した、制御システムの一つです。
しかし、その制御の目的は「自己の生存を保持する為」に限定されています。
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「他人の危険」の為に、自分の身体が、自分の脳による判断を待たずに、勝手に動き出す。
そんなことを続けていれば、「自己の生存」の方が危うくなるではないか。(現実に、私は2週間の松葉杖の生活を余儀なくされているし)
冗談ではない。そんな、制御システムはいらん。
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この制御システムを破壊する方法については、現在検討中です。
しかし、当面の暫定的な処理としては、
―― やばそうなもの(流れていくベビーカー、歩行が危うい幼児)からは、「目 を背ける」
という方法で対応中です。
20年くらい前になりますが、「利己的遺伝子」という話題が流行ったことがあります。
「我々人間を含めた生物個体は、遺伝子が自らのコピーを残すために一時的に作り出した『乗り物』に過ぎない」という理論です。
この理論、非常に物事を説明するのに便利な理論でして、スポーツや勉強の競争原理は勿論、性欲やSEX、子育てや「子どもに対する保護者の犠牲的行為」までもが、一通り、キレイに説明できます。
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で、我々研究者は、このような一貫性があるように見える理論に、凄く「弱い」く、そして「大好き」だったりします。
極めて危いんですよ、この研究者達の特性は。
研究者が、そのような理論で遊んでいると、大抵の場合、為政者がしゃしゃり出てきて、面倒くさいことにしてしまう。
例えば、ナチスドイツが「優生学」という、非常に理解しやすい理論を、「人種改造論」にまで「発展」させてしまいました。
この結果、「ゲルマン民族の優位性」だの「ユダヤ人問題の最終的解決」という、とんでもない政策となってしまいました。(興味のある人はググッって下さい。この説明は、さすがに辛い)
と、一応、「研究員」としての「逃げ」を打っておいた上で話を続けます。
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―― 「『花見』とは、利己的遺伝子論的には、どのように説明できるであろうか」
という、全くもって、どーでもいいようなテーゼで議論をしていた、若い研究者達がいたのですよ、20年くらい前に。
「花見」が遺伝子の乗り物になるという論理付をすることで、我々は苦しんでいました(仕事しろ!)。
ところが、ある一人の若い研究員が、これを見事に論理付けに成功しました。
■『花見』とは、異性との出会いの場を形成する「ナンパの場所」の提供である。
■贅沢な「花見」に来られる人間は、経済的に余裕がある証拠であり、それは「子ども」を育成する環境に資する人材(「遺伝子の乗り物」)の差別化と認定される。
我々は、「おおっ」と思わず声を上げましたね。
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という訳で、「花見」は利己的遺伝的に極めて重要な行為です。
若い人は特に、面倒くさくても「花見」に行きましょう。自然界が提供してくれた「ナンパの場所」なのですから。
次回の寄稿コラムは、「プレゼンテーション」について記載することになっています。
そんな訳で、最近、プレゼンについて色々考えています。
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話はかわりますが。
私は、音楽や語学の学習なんぞ、音が聞こえれば良いと思っています。
ですので、秋葉原で1000円程度で手に入るMP3プレーヤーを購入して、自分と家族に与えています。
ところが娘が、昨年のクリスマスの頃に、自分専用の音楽PODが欲しいと言い出し、親にねだり始めました。
私は、「もし、現状のMP3プレーヤでは実現できない理由を明確にした上で、保護者としてサポートする必然的理由を『プレゼン』できたら、出資する」と言いました。
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結局、娘は自分のこずかい(正月のお年玉)で購入するに至りました。
「先ずは、私にプレゼンを試みてみろよ~~」と思ったりしていますが、私もあまり人のことが言えないかと思っています。
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例えば、研究提案のプレゼンテーションで、上司から、
――その研究の目的は何か?
と問われて、
――はい、私が楽しむ為です。
と応えたら、どんな企業でも殴られます(色々な意味で)。
ここは、嘘でも、「100億円の儲けになるます」というプレゼンをしなければなりません。
大丈夫。上司だって「100億円」なんて信じていないし、その上司が報告しなければならない幹部だって、信じてはいません。
取り敢えず「100億円」の理屈に筋が通っていれば良いのです。
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しかし、この「100億円」の論理付けが一番難しいのですけどね。
それに比べれば、研究そのものは「屁」みたいに簡単です。
「秋葉原で1000円程度で手に入るMP3プレーヤーを購入して、自分と家族に与えています」
というのが、昨日の日記の書き始めでしたが、当初と違う結論の内容になってみたので、本日は、再度書き直しです。
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昔、「カセットテープ」というものがありました ―― という書き方をしなければならなに時代になっているのですねえ(感慨深い)
「カセットテープ」とは、両面合わせて60分程度の音楽を録音、再生する為の記憶媒体です。サイズは掌で掴める程の大きさのものです。
当時、私達は、音楽というものの「カセットテープ」という「有体物」で把握していました。あるいは「レコード」「CD」とかを含み、とにかく音楽はリンゴやバナナと同じく、人間の手によって流通される「物」だったのです。
少くとも、それはネットワークを通じてやってくるものではなく、どこかの小売店で購入する「物」だったのです。
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このパラダイムを最初に壊したのが、「ダブルカセット」というカセットテープを2つ入れることのできうる、カセットテープの複製装置でした。
当然ダブルカセットでカセットテープを1本複製するのには、当然60分やら90分なりの時間が生じていたものですが、それでも「複製権侵害を助長する装置だ」といって、音楽業界からはゴウゴウたる非難を受けたものです。
ですが、我々は気楽に複製しては友人との間でカセットテープの交換をしまくっていたものです。
逆に言えば、そのような「違法流通ルート」の維持の為に、友人関係を維持していたという側面を、(少くとも私は、完全には)否定できません。
つまり、多くのCDを購入することができた「お金持ちの家の子供」というのは、優遇されるという時代であったと言えます。
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さて、ここで話は変わります。
昨日の日記で、「娘が自分のこづかいでPODを購入」した時に、私は、「いかなるサポートもしないので、そのつもりで」と宣言しておきました。
自分の力で、音楽PODへの録音や録画ができないようなら、いつまでもたってもITスキルは向上しないし、そして、
―― ITスキルがない若者の未来は、絶望的に暗い
と信じているからです。
音楽や映像コンテンツを自由自在に操れない人間が、情報の差別化を受けていくことは自明です。
ソーシャルメディアを使いこなせない若者が、差別を受けているという現実があります。例えば、求人情報を、ソーシャルメディアに限定しているという企業は、どんどん多くなりつつあります(私は不愉快に感じてはいますが)。
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で、娘の話に戻りますが、かれこれ3週間ばかり放っておいたのですが、ついに根を上げてきました。
「あるコンテンツをインストールできない」と泣きついてきました。
「ちゃんとGoogle検索してみたか」と確認したところ、「ちゃんとやった」と応えたので、さっそく取りかかってみました。
―― 30分後に完了
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「お前なぁー、ちゃんと本気で調べたんか!」と文句を言ったところ、
「ちゃんと調べたもん。2時間も」と答えたので、私はヘナヘナと床にしゃがみこみそうになってしまいました。
―― ケタが違う
せめて「20時間」と言って欲しかった。
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なんかねー、ITを舐めているとしか思えないんですよね。
ITが面倒くさくて、うっとうしくて、思い通りに動かなくて、腹が立つ、というのは、圧倒的に認めるにしても、
仕方ないじゃないですか。ITって、そもそもが、そういうものなんだから。
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「お金持ちの家の子供」が優遇された時代は終焉を迎え、今や「ITを使いこなせる資質を有する子供」が優遇される時代に変わりつつあるように思えます。
「スマホを子供に持たせるかどうか」などというレベルの議論をしている場合じゃないかもしれません。
もしかしたら、「情報機器を子供に使わせない」ということが、「子供への虐待」となるという時代は、あんまり遠くないのかもしれません。
私、根が小心者なので、他の人のお願いした事項に関して、細かいツッコミを入れることが多いです。
例えば、今日などは、
「老婆心ながら、当方より提供させて頂きました、(1)娘(次女)のイラスト、(2)N次創作の説明図、(3)PCLの年表の図も嵌め込んで頂けますよう、よろしくお願い致します」
などと、まず先方が間違えることがありえないようなことまでも、念押しのメールを送付してしまったりします。
先方には少々不快な気持にさせているかもしれません。
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もう10年以上も前の話なので、時効ということで許して貰いますが、
海外に赴任する前の面倒な手続について、ある人に任せていたのですが、それが全然進まないので、心配していました。
上司にその旨を報告したら、逆に怒られました。
「ちゃんとフォローをしない『お前』が悪い! 自分のことであれば、それは、全て自分のこととして対応しろ! 大体、あいつがだなぁ・・(以下自己規制)」
もっとたくさん「老婆心」を登場させるべきだった、ということです。
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ところで、今日ふと気がついたのですが、
「老婆心ながら」って、もの凄い差別用語だと思いませんか。
まるで歳を重ねられたご婦人の全てが、ナーバス、神経質であるかのような表現ですよね。
少くとも、私はその反例を何人も知っています(無神経、がさつで、随分迷惑もかけられました)ので、多分、正しい用語ではないとは思います。
で、ちょっと調べてみたんですが、「老婆」という言葉は、「放送禁止用語」には入っているようです。「老婦人」と言う言葉に置き替えられるようです。
ちょっと面白かったものに「トルコ嬢」→「ソープレディ」、「やばい あぶない」→「危険」などもありました。
それはさておき。
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仮に、「老婦人心ながら」と言い替えても、失礼の本質さには変わりはないでしょう。
しかし、今のところ、私には大変便利なフレーズですので、誰かが声を上げ始めた時に、再度考えることにします。
嫁さんが「情報処理試験に行く」と言い出した時、私は驚愕しました。
私が知る限り、嫁さんのワープロソフトの利用回数は2回/年。
Googleは、ランチのレストランを探す時のみに、そして、GoogleMAPは、バイト先に行く時だけ使われるという状況。
Youtubeなどは、私が使っているのを横で眺めているくらいです。
その嫁さんが、「情報処理試験」を口にしたのです。これは、我が家では多分今世紀最大の事件といっても過言ではないでしょう。
もちろん「無謀」という一言が浮んだもの事実ですが、ようやく「情報処理」の必要の認識に至ったかと思うと、感無量でした。
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「で、何を受験するの? やっぱり『ITパスポート』からかな。色気を出して『基本情報技術者』という手もあるよね」
と、私が言うと、「何の話?」という顔をして、私を見返してきました。
「いや、だから、情報処理試験の受験科目」
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嫁さんは、情報処理試験の「試験監督」のアルバイトに行くのだそうです。
紛らわしい。
ところで、以前にも書きましたが、嫁さんが言うには、午前の試験で「氏名の記入忘れ」をした人が多いそうです。勿論、この段階で不合格確定です。
――「今日はいい天気ですよね。午後から映画にでも行かれては?」と、試験監督者としてアドバイスするのは駄目かな?
と言ってみましたが、当然駄目に決まっています。
ですから、受験生が、午後の試験をがんばって取り組んでいる様子を見ると、「とても切ない」そうです。
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という訳で、嫁さんの為にも、受験生の皆さんは「名前と受験番号の記入」だけは忘れないで下さい。
先週の金曜日、会社の隣にある小学校で入学式があったようです。
正装したお父さんやお母さんに連れられた子供達が、正門の前に並んでいました。
目的は、正門前に立てられている「入学式」の看板をバックに記念写真を取ることです。
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私、結婚するまで、このようなテンプレート的なイベント写真が嫌いだったのですが、結婚後、嫁さんが纒めているアルバムを見て、認識を改めました。
このようなテンプレ的な写真がないと、そのイベントを識別できないことに気がついたからです。
「これ、いつの、何のイベントの写真だったっけ?」という混乱なく、一発で理解可能。要するに、アルバムのインデックスとしての役割を果しているのです。
観光写真の「◯◯岬」「△△湖」「××遊園地」にしても同様です。このようなテンプレートイベント写真を侮ってはなりません。
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とは言え、「入学式」の看板の前の長蛇の列は頂けません。ご家族も、折角のチャンスですので、子供だけ、お父さんと子供、お母さんと子供、家族全員と、色々なバリエーションで写真を取るものだから、列の長さが全然短くなりません。
「『入学式の看板を10箇所に配置する』という案はどうかな」と嫁さんに相談してみたところ、
「学校正門とセットになっていないと意味がない」と直ちに却下されました。
「じゃあ、合成写真だ。青色シートのバックの前で写真を取って、気にいった背景を選んで貰って、CGで埋め込めば良い」
「それを、わざわざ入学式当日にやる意味は、なに?」と逆に質問されました。
うむ。確かに、入学式の思い出が合成写真を生成するスタジオでの撮影の記憶というのは頂けない、と私でも思える。
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まあ、入学式の記念写真というのは、「長蛇の列」の思い出とセットとなっている、ということで良いのかなと思うこととして、この改善の検討は打ち切ることにしました。
「伊東四朗・三宅裕司コントライブ いい加減にしてみました」を、レンタルDVDで借りて、家族で見ました。
感想 ―― 笑い過ぎて、死ぬかと思った。
体に苦痛を感じる程笑った、という最後の体験をしたのは、いつだったかな、などと思っていました。
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「いい加減にしてみました」と「いい加減にしてみました2」をレンタルしたのですが、「いい加減にしてみました3」は、まだレンタルが開始されていないようです。
そもそも、今回「いい加減にしてみました」を借りたのは、嫁さんが、「いい加減にしてみました3」のゲストの沢口靖子さんの、インタビューの合間に挟まれる、舞台のビデオクリップを見たことに、端を発します。
で、私に対して、このライブを見たい。何とかしてくれ、と要請したきた訳です。
「"3"が、DVDになるのは、あと1年くらいなので、それまで待とう」と言った私に対して、娘(長女)が、「ちゃんと製品(DVD)を購入しろ」とクレームしてきました。
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「こんな凄いコントに対して、DVDレンタルで安く済まそうとすることは、無礼だ。ちゃんと購入して対価を支払うべきだ」とのことです。
うむ。これは出演者に対する最大の賛辞である。良く言った、と、娘(長女)を褒めてやりたい気持です。
私も、あと1年も待てないのと思うので、多分、amazonで購入することになると思います。
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ただねー、揚げ足を取るつもりはないんだけど、
「普段、DVDレンタルで借りてくる映画に対しては、そのような『礼』は尽さなくて良い」
と言っていることと同じだよなー、と、お父さんとしては思えてしまうのですよ。
その違いは何かというと、やっぱり、「笑い過ぎて、死ぬかと思った」と思える、またはそれに匹敵するようなコンテンツが、世の中に、それ程には「存在しない」ということなんだろうな、と思うのです。
私は髪型に興味がありません。
いや、正確にいうと興味があるのですが、それは単に機能的かつ経済的な観点です。
(1)なるべくコストをかけたくない。(2)髪が長くなってきて、特に視覚の邪魔になると、不快感がMAXに至ってしまう。
この結論から導かれる髪型は、明快です。
「ボウズ」です。
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しかし、これまで何度も書いてきましたが、私の「ボウズ」は非常に評判が悪いのです。
私は、目付きも悪く、しかも、その外観を支えるプラットフォームである性格も悪い(浅学、狭量、卑怯)ので、まったく自然に無理なく「威嚇力を発揮できる」顔付きをしているのです。
我が家の子供達が怯えるのはどーでも良いのですが(諦めて貰うしかない)、嫁さんが、しみじみと語る「その風貌、社会人としてどうかな・・・」という言葉は、ちょっと考えさせられました。
昔の研究員はともかく、現在の研究員は、営業的なスマイルも必要です。「研究費を貰う為なら、男芸者も厭わない」くらいの気持がないとやっていけないのは、事実なのです。
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「お客様、こんにちはー、今日はどのような髪型にされますか?」
――可能な限り短かく、できれば半年くらいは、こちらに伺う必要がないくらい、気持としては「ボウズ」くらいに短く、
――しかしながら、社会人として「人に対して脅威を与えない」ような髪型で、
お願いします。
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私は、あんなに「困ったような顔をした」理容師さんを、いままで見たことがありません。
私の携帯電話のメールアドレスが流出しているようだ、というお話は以前致しました。
本日、ネーチャンの写真入りのメールが、携帯に登場してきて、私は「切れました」。
いや、かつてのように報復メールのDOS攻撃をかけるということはしません。今となっては、あんまり効果もないでしょうしね。
一番簡単な手段 ―― メールアドレスを変更する ―― ことに決めました。
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世の中には、メールアドレスを変更することに対して、抵抗がある人が多いようです。
友人関係や仕事の重要なアイテムである以上、メールアドレスを変更することは、それなりのインパクトがあるとは思います。
嫁さんの場合、仕事の依頼はメールでやってくるので、特に大変だと思います。
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私の場合、この辺の「マインド」がちょっと違うようでして、メールアドレスは勿論、携帯電話の電話番号を変更した後でも、そのまま放置してしまいます(勿論、業務で使っている電話は別ですが)。
「携帯電話をかけあう友人が存在しない」という環境が、それを簡単に実現させてしまうのです。
そのような環境が「気にしない」「苦に感じない」という人生は、どっかが間違っているのかもしれませんが、これは私の巨大な「強み」と認識しています。
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しかし、こうやって定期的な人間関係の整理をしていると、「お前の携帯が繋がらない。どうなっている!」とクレームをしてくる人もいます。
事情を説明すると「なぜ、電話番号の変更を知らせないのだ」と文句を言われます。その辺は、逆に察して欲しいと思うのですが。
結果として、携帯電話番号を変えることによって、もっとも「享受を得たい利益」が、逆に得られないという矛盾も含むことにもなる訳です。
「無報告の電話番号変更」も、これでなかなか難しいのです。
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しかし、「これは、逆の使い方もあるな」と思いつきました。
「電話がかかってこなくて寂しい」と感じる人は、世の中に多いのですよね(私はよく知らんのですが、小説とかブログとか読んでいると、ちょいちょい目にする)。
どうでしょうか。いっそうのこと電話番号を変えてしまっては。
電話がかかってこないのは、あなたの人柄や人格とは無関係です。物理的に繋がらないんだから、しょうがない、と思えるですよね(思えないか)。
いかん、話が二転、三転していますね。元に戻します。
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ともあれ、私の携帯電話の電子メールは、明日から変更されます。
これで、スパムメールを全部殺せるかと思うと、非常にいい気分です。
私のように、さくさくメールアドレスを変更する風習や文化が根づくといいだろうに、と思うのですが、世界がこのパラダイムに至るのは、難しいのかもしれません。
私は、趣味で作ったソフトウェアのいくつかを、ソースコードも含めて、全部公開しています。
一応ライセンスも付与しており、そのライセンスに違反しない使い方であれば、文句は言いません。
私が使っているライセンスは「BSDライセンス」というものです。この辺については、 江端さんのひとりごと「全世界ヌーディスト計画」(文末にリンク)を御参照下さい。
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先日、私の公開しているソフトウェアのソースコードを、そのまま販売しているサイトを見つけました(隣りの国サイトでした)。
私が無料で配布しているソフトウェアを、パッケージにしている訳でも、インストーラを付与している訳でもなく、そのままで販売している。
せめて、違うOS向けにソースコードを弄っているとか、コンパイルしたものをアップしているなら、理解できなくもありません。努力の後はありますからね)。
しかし、「そのまま」「何も手を加えず」「販売」というのは、流石に憤慨しましたね。
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で、念の為に、私が付与したライセンスを調べてみたのですよ。
その結果、
―― そういう販売方法が、必ずしもライセンス違反とは断定できない
という結論に達しました。
このような流通形態の発想が、私には到底及ばない点に、まだまだ「甘さ」があったな、と思うことしきりです。
「無償で提供されたものは、無償で第三者に再提供される」という、私の中の通念は、ここに壊されたのです。
私の記載する技術コラム(その他、英語と法律)は長いので、しょっちゅう「分割」命令を喰らいます。
私としては、なるべく分割せずに、一気に(たとえ20枚ページでも)掲載して欲しいのですが、
「読者が最後のページに辿りつけません」
と編集部の方に言われたら、グウの音もでません(実際にデータを見たら、そうなっている)。
ところが、ページビュー(PV)の数が稼げなくても、なぜか「印刷をしている人」は多いようなのです。
ここから出てくる結論は明快です。
「会社で印刷して、持ち帰って読む」
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コンテンツ作成者としては、これは「よろしくない」のです。
私の記事は、つまるところ「広告へのクリック」に引き込むことが期待されているはずだからです。
この考えは、テレビの視聴率とさして変わりはありません。
「ただ読んで貰えれば良い」ではなく、パソコンやスマホから読んで貰って、広告をクリックして貰う必要があるのです。
印刷して、帰宅の電車の中で読まれてしまっては、広告へのアクセスの可能性が絶無となってしまいます。
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この問題を解決する手段は明快でして、
■私のコラムが面白いこと
と
■私のコラムが短いこと
を両立させれば良いのです。
しかし、片方だけでも十分に難しいのに、両方というのは厳しすぎる要求というものです。
それでも編集さんは、分割命令は出しても、「コラムを短かくして下さい」とは決して言いません(ガマンしているのかもしれませんが)。
また、同僚からは「江端さんの論旨展開は、突っ込みにくい」とも言われています。
「もっと読んで貰いたいなら、敢えて『遊び』の部分がなければ」と忠告されています。
―― そう言われれば、そうかもしれない
と、思い当たること、山程あります。
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私、コラムを「特許明細書」のように記載しているフシがあるのです。
つまり「背景→既存の手段の問題点→課題→課題を解決する手段→実施例」という流れです。
このような記載方法ですと、全部読まないと訳が分からなくなるので、確かに「短かくしてくれ」とは言いにくく、また「スキや遊びがない」コラムになるのは自明です。
しかし、このような文章を「分割」するとですね、(誰かがツイッターで言っていましたが)、確かに「何を言っているのか分からんぞ」という記事になるのも事実なのです。
なぜなら「結論」が見当らないコラムになってしまうからです。
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と言う訳で、前後半に分割されたコラムに関しては、
―― ここからじゃけん! ここから盛り上がるんじゃけん!! 次回後半まで、もうちょいと待っとけや!!
と、パソコンの前で、広島弁(?)で、ツイッターに突っ込む私がいる訳です。
Webメディアに寄稿している人間としては珍しいと思うのですが、私は、私の著作にツイートしてくる人に対して、結構頻繁に、「質問のツイート」を行います。
それは、私の記事が「技術」に関係するものが多いからです。
この辺の感覚は、アート(絵とか音楽)をやっている人には理解しにくいかもしれませんが、「誤った技術情報は、人を殺しかねない」のです。
その際たるものが、あの「原発事故」です。
「事故は発生しない」ことは、技術的かつ数学的に裏づけられていて、事故発生確率が、「10億年に1度」というのも、(計算方法に作為があったとしても)それ自体は「正しかった」と言い張ることができます。
しかし、それは「誤った知見」で、徹底的に批判されなければならないものです。
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私は、私の技術コラムに関わる事項で「誤った知見」があったら、
■いつでも直ちに修正をする
■必要なら修正記事を共著でリリースしても良い
■私の修正記事で足りなければ、あなたを編集部の人に紹介しても良い
とまで、言っているのです。
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私は、私の著作に対するツイッターのコメントは、原則として隅から隅まで読んでいます。
「間違った技術情報は人を殺す」と信じている以上、私には、間違った内容を、正しい内容に修正する「義務」があると、心の底から信じているからです。
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だから、私の記事について「間違っている」という内容のコメントをしてくる人に、私は、私と同じ程度の「義務」を要求します。
私の記事が間違っているというのであれば、その批判だけでは足りず、「正しい情報の開示」までも要求します。
なぜなら、「私の記事が間違っている」という指摘のツイートが、逆に「人を殺す」ことだってありえるからです。
例えば、
「江端の『安全』に関する記事はデタラメだ。原発事故の被曝による影響など考える必要がない程に小さいものだ」
というツイートは、それが「嘘」であれば「人を殺します」。
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繰り返しますが、私は全てのツイートを読んでいます。
そして、ある日、突然、あなたに質問のツイートを投げ返します。
それが、私の「義務」であり、それに応えるのがあなたの「義務」と信じているからです。
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あなたが、それを「義務」として受けいれるかどうかは、私にはどうでも良いことです。
私は、残酷なまでに、冷徹に、無慈悲に、いかなる抗弁も聞き入れることなく、どこまでも執拗に、あなたに「私に、正しい情報を教えること」を要求します。
人命がかかっている以上、
―― 私は絶対にあなたを逃がしません。
現在、我が家では7台のパソコン(うち2台がサーバ)が稼動中です。
今どき、パソコンが2台以上というお家は普通にあると思い、これらをLAN(ローカルエリアネットワーク)で繋ぎたい、というニーズも十分あることと思います。
ということになると、配線が不要の「無線LAN」の使用が主流になっていると思います。
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しかしですね、無線LANは、時間や天候(温度や湿度)などで、簡単にスループットが変化し、YouTubeとかを使っている人はどは、イライラすることが多いと思います。
(「え、そんなことないよ」という人。そこで黙って静かにしていなさい)
家中に、有線LANのイーサネットを配線しましょう。
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このように考えると、すぐに「壁の中にどのように入れこむか」「業者に頼まなければならない」「コストが・・・」と考えてしまう人が多いと思いますが、その発想、間違っています。
窓の外を走らせれば良いのです。つまり、屋外配線です。
「壁に穴なんて・・・」という発想している時点で負けです。
フラットケーブルを使えば、サッシの窓枠で十分挟み込めます。頻繁に開閉しない窓であれば、ケーブルが痛むこともありません。
それに痛んだら、交換すれば良いだけのことです。
私はイーサネットケーブルを、雨樋(あまどい)の配管に、結束バンドで括りつけて、1階と2階をイーサネットケーブルで繋いでいます。IP監視カメラ用に庭にも走らせておりますが、かれこれ3年以上も問題ありません。
スループットは安定しているし、原因不明の通信不良もない。pingで追跡すれば、断線箇所は直ちに特定できるし、面倒くさい暗号化も不要で、WEP,WAPのパスワードを忘れてえらい目にあうこともなく、セキュリティも万全。
有線LAN! 万歳!!
ちなみに、私、日本で一番速い電車の「無線LAN」に係わった技術者です。
まあ、それはさておき。
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リビングのパソコンに、私の愛用しているキーボード(ハッピーハッキングキーボード(HHK))を設置したのですが、本日、撤去させられました。
家族から、「使い難い」との不評の圧力に屈しました。
私は、外出先にHHKを持ち歩くこともあるくらいの愛用者で、私の「筆記具」といっても良いくらいです。
家族にとっては、CTRLやSHIFTキーの配置が異なる、漢字カナ変換のキーが異なる、など、そのクレームの理由は正当であるとは分っているのです。
しかし、二人の娘達には、いずれは、LinuxのCUI(コマンドラインユーザインターフェース)で、PerlやRubyで、バッチプログラムをさくさくと書いてしまるようなスキルを身につけて欲しい、と思うのは、
―― 娘を持つ全世界の父親の「共通の願い」
であると思います。
そうですよね。私、間違っていませんよね。
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父親にHHKを撤去させるなど、
「そんなことで、世界を震撼させる一人前のハッカーになれると思っているのか!」
と、今夜あたり、娘達を説教をしたいと思っています。
「まだ、会話できるコンピュータは作れないの」と、姉が文句をいい、
「ランドセルに入れっぱなしで6年間動き続けるGPSがないのですか」と先日インタビューした小学生の子どもを持つお母さんに文句を言われました。
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技術の世界の外の住人の方にとっては、いくら私が、
「ネットワークのエンジニアだ」
と言ったところで、まったく同じように見えるのだろうと思うのです。
「人工知能ソフトウェアのエンジニア」でもなく、「測位デバイスのエンジニア」でもない私に、私に上記のようなクレームを言われても、100年後でも、成果は出てこないでしょう。
私自身、そういうクレームを100回聞かさたところで、所詮は「他人事」です。
逆に、「まったくだ! どうして、そういうコンピュータやGPS受信機が作れないのだ!!」と文句を言う側に回ってしまいます。
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それでですね、この理屈を拡張すれば、いろいろな世の中の問題の原因について、
「政治家と官僚が悪い」
とか言っている人 ―― まあ一般人はともかくとして ――、テレビのコメンテータで、専門家を自称している人が、このような発言をしていると、
―― ああ、こいつは矯正不可能なほどの馬鹿なのだな
と思ってしまうのですよ。
まあ、賭けてもいいですけどね、その言葉、政治家や官僚の方の誰一人として届かないです。
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組織を批難されたって、組織の長は構成員の責任と言い、構成員は組織の長が悪いと言い、無限連鎖の責任転嫁をはかるでしょう。
私だって、そうしています。
会社の活動が批難されたって「業務命令だもん」で、簡単に自分を免責できます。だって、私、会社の歯車である、サラリーマンですから。
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例えば、批判というのはですね、
「経済産業省 資源エネルギー庁 長官のAさんと、次長のBさんの方針が悪く、その中でも、特にエネルギー政策担当参事官のCさんの出してくる政策案が、もう絶望的に酷い」
と、所属や管轄を明確に特定にして、個人を集中攻撃する段階になって、始めて、その発言が有効に機能しはじめます。
もっとも、その発言は、自分にダイレクトに戻ってくる訳でして、発言者には、それなりの覚悟も必要とされます。
例えば、私の著書への批判(ツイッター等)は、「私個人への攻撃」とみなしますし、その批判への反駁(ツイッター)は、「その批判をしてきた人への私からの反撃」と考えています。
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私がこれまで、バトルに持ち込むときは「その組織の名称」は使わず、「個人名」で攻撃をしかけて、たくさんの問題を炎上させてきました
そして、そのいくつかは、最悪の形で終結し、また別のいくつかは、私の望む形で終結させることができました。
それらの私の経験から言えることは、結局のところ、問題を早期に終結させ、最も効果があるのは「私闘」です。
「お魚喰わえたどら猫、追いかけて、裸足でかけていく陽気なサザエさん」
は、その猫を捕捉し、お魚を奪還した後で、
「そのお魚を、再び食卓に載せるのであろうか?」
ということが気になっています。
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いくつか問題点が挙げられるのですが、まずは2つ程。
第一に個体の定型性の問題があります。
どら猫が喰わえている「お魚」は、食材としての形状を状態を維持できているのだろうか、という問題があります。
猫がお魚を喰わえながら、走っている状態での魚には、相当量の加速度が加えられていると思います。
ましてや、サザエさんはこの猫を追尾しているのですから、その加速度量は、「お魚」を加えている猫の口腔を中心に、相当のモーメント量がかかっていると考えるべきです。
次に衛生上の問題があります。
どら猫は、人間に飼育されておらず、または、屋外で自由に行動している状態と推認されます。
かかる、どら猫は雑食状態であり、屋外においては昆虫(ゴキブリを含む)や、雑草などを食していると解されます。
とすれば、その口腔の衛生状態は極めて劣悪で、そのようなどら猫から奪還したお魚を人間が食すれば、蟯虫や回虫、または食中毒の恐れも考えられます。
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さて、この状況を理解する為には、この「サザエさん」のテーマソングが放送された時代まで遡って考証する必要があります。
放映開始は1969年(昭和44年)、これは東京オリンピック後の5年後。日本経済の高度成長期であり、池田内閣の下で策定され、1960年から開始された「所得倍増計画」の完了期です。
お魚が、磯野家の生存を左右する食材であったとは考えられる時代ではなかったと判断して良いと思われます。
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以上より導かれる結論は、「サザエさんが、どら猫を追いかけた動機は、単なる感情的なものである(腹いせ)であると推認される」となります。
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―― と、まあ、長々とこのような、どーでも良い話を綴ってきた理由はですね、研究ネタなどは、世の中にゴロゴロ転がっている、ということなのですよ。
企業研究で、上記ような検討を発表したら「殴られる」と思いますが、小学校や中学校であれば、「研究の本質が分っている教師」は、このような研究であっても、正しく評価できるはずです。
ティーンの諸君。この夏、挑戦してみませんか。
私がアシストします。
カニンガムの法則というものがあるそうです。
「インターネット上で正しい答えを得る最善の方法は、質問することではない。間違った答えを投稿することだ」
これって、かなり真実だと思っていました。
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私は安全基準(SIL=Safety Integrity Level)に関するコラムを寄稿したことがありますが、そのSILの持つ数値の意味が、どーしても理解できませんでした。
インターネット検索や書籍でも、かなり良い時間をかけて調べたのですが、その数値の「意味」は判ったのですが、その数値の「意義」が全然分からなかったのです。
ですので、「エイヤ!」という感じで自分の解釈を出してみたのですが、これが「間違い」である旨の指摘を受けました。
その後、ちゃんとした説明を頂き、「ああ、こりゃダメだ。完全に私の解 釈が間違っている」と納得して、後程、その指摘して頂いた方と共著で、修正記事を記載させて頂きました。
ただ、指摘して頂いた解釈、私が知る限り、まだ、どこにも記載されていないの状態は事実のようです(一応、英語文献にも手を出しました)。
書籍調査レベルでは駄目で、現場の人でないと、その理解には至れないような「考え方」なのです。
「どの本からでも得られないような考え方を教えて貰えるとは、本当に助かるなぁ」
と。
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で、私は味をしめてしまった訳です。
「誤解の記事は、その後に正しく修正するのであれば、意味がある」、と。
修正のフィードバックがちゃんと機能する仕組みを作っておけば、誤った情報が修正されるサイクルができて、皆がハッピーになれるのだと、と。
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私は、批判のコメントをしてくる人の全てが、きちんとした信念と正しい知識を持っている、と信じていたのです。
今となって、「そうではない」ということも理解しております。
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カニンガムの法則も、追加修正が必要なのかもしれません。
「インターネット上で正しい答えを得る最善の方法は、間違った答えを投稿した上で、」
「正しい識者と出あえることを『祈ること』である」
と。
仕方がないことだと思うのですが、私の著書を読んだ人が、私のことを「ライター」だの「記者」だのと称呼することが多いです。
なんとも言えない違和感を感じます。
文章を買いている以上「ライター」なのは事実なのですが、私はエンジニアです。専門はネットワークとその周辺。
制御用の機械(産業用ロボット等)などがあると、ふらふらと近づいてしまい、深夜の帰宅中に、GPS衛星からの航行メッセージを聞き取れる(様な気持になれる)、そういうエンジニアです。
その他、特許法の条文番号を問われれば、書いている条文の概要(時々、嘘も言う)を言うことができ、著作権裁判の判例の有名どころが、頭の中に中途半端に入っているデータベース付きのサラリーマンエンジニアです。
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TPPも、初音ミクも、同人誌も、執筆を開始するまでは、全く知りませんでしたし、執筆を完了した後でも、その分野に深く嵌る(はまる)ということもありません。
こんな私に対して、上手いことを言った人がいます。
―― 「外部の観測者」
(「孤独の観測者」だとかっこいいんですけどね。4月20日の映画公開まで、あとちょっと)
この「外部の観測者」という呼び方は、特に「初音ミクシリーズ」では、頻発していたようです。
『外側から見ると、こんな風に見えるのか!』という、コメントを沢山見ました。内側にいる人にとって、外側からの視点というのは、有意義なものなのかもしれません。
しかし、私の技術コラム(×英語コラム)が想定とする読者は、外部も外部、超外部に存在している、私の嫁さんと二人の娘(だけ)です。
この3人が理解できるコラムであれば私としては十分なのですが、他の人も理解して楽しんで貰えれば『さらに幸せ』です。
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しかし「外部の観測者」は、しょせんは「よそ者」です。分かったフリして記載している内容は、誤記・誤解・デタラメの嵐だと思うのです。
これは「内部の実施者」から見れば、許せない程、腹だたしいことだと思うのです。
―― 高々、1ヶ月か2ヶ月、資料を読んで、関係者にインタビューしただけで、理解したような気になっている、お前ごときに何が分かる!
―― 所詮は上面(うわっつら)の正論(法律論等)を振りかざしているだけだ!
―― まったく、調査や勉強が足りん!
と言いたくなる気持ち、実は良く分かるのですよ。
今回の技術コラム(?)では、「同人誌を踏み台」にして「著作権を棍棒(こんぼう)」にして、「初音ミクの法的保護」の論を展開しているのですが、
踏み台にされた「同人誌」の世界の人達が、激怒するのはあたりまえです。
だって「踏み台」にされただけなのですから。
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例えば、私が、TCPとUDPとIPの違いを区別できず、DNSの概念を説明することなくインターネットのドメインサービスを説明した文章がリリースされたら、
または、私にインタビューをしてきた、タカビーな態度の某経済新聞社の記者のように、「GPS衛星が地球上のカーナビに位置情報を通知している」などという、GPSシステムをデタラメに説明する記事を掲載した日は、
絶対に激怒する。
そして、実際に激怒してきた。
特に、あの阿呆記者だけは、私が死ぬ瞬間まで許さんだろう、と思う。
だから、一言だけ「同人誌のことをちゃんと勉強して下さい」というツイッターのメールに込められていたであろう、「果てしない怒り」を、私は理解できていると思うのです。
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昨日読者の方から頂いたメールでは、「先に問題を解いてくれて、その解き方を教えてくれる同級生」という形容句を頂きました。
この表現も実にいいなぁと感じましたので、これらを採用して、「私」というライター(?)を形容してみますと、
―― 「初学の外部観測者」
ということになるのでしょうか。
「こんな人間が、技術コラムを掲載していていいのか」と思わない訳ではありませんが、せっかく与えて貰った場所ですので、これからも、楽しませて頂こうと考えています。
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私は「初学の外部観測者」に過ぎませんが、それが故に、ちゃんと「内部の実施者」の方からの御批判も広く門戸を開き、お待ちしているつもりです。
ですから、いくら「内部の実施者」であろうとも、「批判して立ちさるだけのモラリスト」であれば、―― それは、私の「敵」です。
今回のコラムに関しての感想を、ツイッターだけでなく、書き込み掲示版などでも見ています。
感想は、「クリプトン社は対応が立派だ」「クリプトン社は親切だ」「クリプトン社はよく研究している」という、クリプトン社を賞賛する書き込みが随所に見られます。
全く同感です。このような努力のプロセスを見ると、本当に私も嬉しくなります。
このような素晴しい成果の前では、私は、ただただ圧倒されるばかりです。
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ですから、
「少しは、(原稿を書いた)私も褒めて欲しい」
などと、チラリと考えたこともありません。
ええ、全く。
私くらいの年代であれば、普遍的かつ共通的な悩みだと思うのですが、「金」がありません。
いや、もちろん、途上国の人やフリータの人から見れば、こんなことを言えば「蹴って殴られても」しょうがない、というくらいは頂いているとは思うのですが。
やっぱり、子どもの教育費がデカイ。その他、実家に戻る機会も増えてきて、これもなかなか痛い。
嫁さんも働きに出ることになりましたし、私もあるゼミの受講のお金を、自分の稼ぎから出しにくくなっています。
ライターとして、私の貰っている原稿料は、会社の飲み会1回で吹き飛ぶ程度です。
しかも、原稿の構成検討に2週間は費していて、執筆には、これに週末2日分が潰されています。
正直に言って、マクドナルドのアルバイト学生の方が儲かっています(絶対)。
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「一体、何の為に、執筆しているんですか」と嫁さんや同僚にも言われるのですが、本当に困るのです。
少くとも「金」の為では説明不能です。
しかし、「金」で説明不能なものは、世の中には溢れています。フーゾク、ダイエット器具、化粧品、全て説明不能です(訂正:一部効果があるものああり)。
私の行動原理と一番親和性が高いものを上げろ、といわれると「同人誌」の活動でしょうか。あのモチベーションを経済理論で語れる人は、多分どこにもいないかと思います。
「私は同人誌を作っている」。
ううむ、こういう結論になるのか。自分でも驚きます。
それはさておき。
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大学生の頃、親しくしていた女性の友人から、
―― 見て見て! これ私の子ども!!
と、サイフから写真を取り出された時、腰が抜けるほど、びっくりしたことがあります。
「結婚して、子どもまでいたのか」「いつの間に」「やるなー」という色々な思いが錯綜している中、彼女が見せてくれたのが、
―― 明かに、6、7歳くらいの、アジア、またはアフリカの女の子
さすがに、『これは、君が中学生の時に出産した子どもか?』というような間抜けな質問はしませんでしたが。
それは、当時「フォスターチャイルド」と呼ばれた、途上国などの地域の改善を、スポンサーが資金面から継続的に支える制度のものでした(今は、「プランスポンサーシップ」と言われているようです)
特定の子ども(チャイルド)と手紙のやりとりができるのが特長で、その手紙も見せて貰いました。
こういう、「目に見えるリターン」というのは、支援する側もされる側も重要だと思っています。
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これにヒントを得て、提唱したいと思います。
「江端家フォスターチャイルド制度」です。
我が家の二人の娘の教育費を支援して下さい。
二人の娘から手紙を出させますし、私の立ち会いの元に、娘と定期的に面会するのも許可します。
内容は、勉強に関するアドバイスを原則として、一定の範囲での逸脱も許しましょう。
この効果は、明快です。
■「小学生、中学生、高校生の子どもがいる」と言えます(たとえ、独身でも)。
■子どもと、勉強方法に関する事項を、偉そうに説教することができます。
■自分の興味のあることを、一方的に話し、自慢することができます。
■娘が有名な大学などに合格した場合、「自分の娘」自慢ができます。
もちろん、人倫に反する行為は私が叩き潰しますが、この条件、けっして悪くないと思いますが、いかがでしょう。
お申し出があれば、すぐにシステム構築を開始します。
寄付金額は応相談ということで。
ご連絡をお待ちします。
私はITに関わっている人間ではありますが、ITに関するコマーシャルが嫌いです。
特に、最近では、タブレットコンピュータ(iPadとかNexus7等)、スマホのコマーシャルも、見ていてムカムカします。
タブレットコンピュータで、簡単に絵を描いて、それを別の人が脚色をして、音楽を付けて、世界中の人がそれを鑑賞する。
それを飛び跳ねて、踊りながら、とか。
―― 笑わせるな
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そもそも、これらのコマーシャルは、「創作」をいう行為を舐めている。特にITが絡 む創作の鬱陶しさを、全く理解していない。
第一に、絵を書くドローツールが面倒くさくて、使いこなせん。
写真の表現変換する為のオプションが、どれだけあるのか分かっているとも思えない。
音楽作成のツールなんぞ、挫折せずに使いこなせる素人は、100人挑戦して、せいぜい1人残ればいいところ。
そして、これらのコマーシャルが決定的にダメなところは、全てそれぞれの分野での創作力(作画、作曲、その他)を持っている人間が、絶対的少数であるという事実を無視しているとこにあります。
法律的にも問題があります。
等は、人の著作物に勝手に手を入れて、他人にばら撒いているようだが、原著作者の許諾を得てから、そういう創作活動やっているとは思えない。
明かに、著作権法21、27、28条、加えて肖像権も含め、違法行為の奨励コマーシャルである。
機能面から言えば、嘘八百とはまさにこのこと。
大抵、無線LANやキャリアの設定で、半日はかかるし、ツールが使い熟せるようになるころには、その端末は古くさくて、遅くて、ようするに時代遅れになっている。
IT関係の機器(以下、デバイスという)とは、畢竟、そういうものなのです。
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全くもって、パソコンの創成期から、今に至るまで、実に30年も経過しているにも関わらず、よくもまあ飽きもせず、あのような、あのSFのような、現実感のない、荒唐無稽な、馬鹿げたコマーシャルを作り続けているものだ。
広告業界の人間には、創作力がないのか?
あるいは、スポンサーは、いまだに、あのような幻想コマーシャルが消費者に受けると、本気で信じているのだろうか?
そして、(考えたくもないが)消費者は、まだ、デバイスに「魔法の箱」の幻想を持っているのだろうか。
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「iPad、iPhone、iPodが使いやすい」といっていあなたは、たまたまデジタルデバイドピラミッドの頂上近くにいただけの話です。
iPadが真に使いやすいのであれば、少くとも、経済大国である我が国の国民全員が購入しているハズである、と考えられないでしょうか。
我々人類は、確かに創作に喜びを見い出せる生物学的にはちょっと気持ちの悪い生物ではありますが、「面倒が嫌い」という点では共通しているのです。
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少くとも、私は、いつでも「もうすぐ・・、もうすぐ・・、きっと楽になる」と呟きながら、デバイスを使い続けてきたのです。
―― いい加減に目を覚ませ、消費者たち。
―― 30年間も騙され続ければ十分ではないか。
デバイスが使いやすかった時代は、未だかつてなく、そして将来もない。
一切ない。
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では、デバイスない時代に戻れば、幸せになれるかといえば、そういう訳でもないのです。デバイスの便利さと、不便利さは、結局相殺しあっているからです。
相殺しあっているということは、デバイスを使えないことは、一方的に不利になっていくことでもあります。
デバイスの有無は、プラス側には働かないが、マイナス側には確実に働く。
こういうものを、一般的には「素晴しいもの」とはいいません。
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タブレットコンピュータ、スマホのコマーシャルも、見ていてムカムカするのは、そこに、素晴しい未来があるような幻想を見せるから、ではありません。
いや、コマーシャルなのだから、「素晴しい未来があるような幻想」を見せるのは、それが目的であることは、分っているのです。
私が腹を立てているのは、その「素晴しい未来」のビジョンが、ここ30年間、1ミリメートルも動いていないという、コマーシャル提供者側の懈怠、怠慢にあります。
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私なら、
■Cookpadのレシピを表示しているタブレットコンピュータを、ガムテープで壁に張って、料理を作っているところ(私のことだ)
■ジブロックにタブレットコンピュータを入れて、風呂で本や映画を見ているところ(私のことだ)
■子供の勉強を見ているフリをしながら、子供からは見えなく角度で、タブレットコンピュータで、水着の若いネーチャンを見えているところ(私のことではない)
という画を使って、コマーシャルを作る。
これこそが、タブレットコンピュータやスマホの革命的パラダイムなのであるからです。
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踊りながら、写真を取って、絵をかいて、転送して、音楽を付ける、だぁ。
笑わせるな。
アップルでも、マイクロソフトでも、グーグルでもいい。
たった一人でいいから、その人物を、私に紹介してみせろってんだ。
困っています。
今回のコラムで、私が登場させた二人のキャラクター「発芽ミロ」「初出ミレバ」の絵が欲しいのですが、この目処が立っていません。
一言でいうと、このページに出てくる絵を流用して「初音ミク」のシルエットと同時に表示するキャラクターのシルエット画が欲しいのです。
我が家のイラストレータ(長女)に頼もうとしたら「無理」と一言で却下されました。確かに「初音ミク」はシルエットだけでも十分美しい絵なので、プレッシャーもあったのだと思うのですが、それ以上に、
この話を聞いていた、私でない方の保護者に激怒されました。
―― 定期試験前の娘に、何をさせやがる~~!
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それで、私としては初めての試み、かつ、お願いなのですが、「発芽ミロ」と「初出ミレバ」のシルエット画を募集したいと考えております。
設定は、このページに記載した通りですが、もう一度記載します。
発芽ミロ:「初音ミク」の父方の兄弟の娘
初出ミレバ:「発芽ミロ」の従兄弟のアパートの隣の住人
ですが、設定は無視して貰って結構です(コラムの内容とは全然関係ないから)。
ポイントは、
■「初音ミク」のシルエットと、同時に表示して違和感がない程度のシルエット画であること
となります。
条件としては、
■「発芽ミロ」と「初出ミレバ」のシルエット画の著作権を、江端智一に譲渡して頂く必要はありません(著作権は、原著作者のあなたが持っていて下さい)。
■江端智一本人に限り、このコラムと私のホームページの中で使用に限定した、「発芽ミロ」と「初出ミレバ」のシルエット画の、無償の(タダの)利用許諾を下さい。
■江端智一は、シルエット画を、私の絵(例えば説明用の図面)の一部として使用する為、拡大・縮小のみの改変を行う許諾を下さい(翻案等はしません、というか、そんな才能ありません)。
■言うまもなく、公序良俗に反する使用は行いません。
■私の著作の中で、あなたのクレジットを、あなたの望む文章で表示します。例としては、以下のような表記を考えております。
『本著作中の、「発芽ミロ」と「初出ミレバ」のシルエット画は、◯◯さんから御提供、使用させて頂いております。本シルエット画の著作権は、◯◯さんが所有しております』
「◯◯さん」の部分は、本名、匿名、その他、御自由にご指定頂くつもりです。
■採用、非採用の決定権は、江端智一に委ねて下さい。但し、御許可を頂ければ、ご提供頂いた全部の作品を、私のホームページで掲載したいと考えております(この場合、シルエット画に限定せず、自由に描いて頂いて結構です→私が見てみたい)。
■上記以外においても、江端智一は、著作者である、あなたの許諾を得ることなく、勝手に行うことは致しません。問題が発生した場合、最大限の善意と誠意で対応させて頂きます。
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ご送付頂く先は、こちらにお願いします。シルエット画のデータ形式は、今のところ限定ありませんが、後でお願いする場合があるかもしれません。
で、〆切の関係上、ちょっと急いでいます。絵は未完成のままで結構ですので、取り敢えず、ここ4~5日中にご連絡頂けると嬉しいです。
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まあ、今回、初めて読者の方に、イラストをお願いするという試みをしているのですが、
こんどの連載で、「発芽ミロ」と「初出ミレバ」のシルエット画が登場しなかったら、
―― あ、無視されたんだ。可哀想な奴
と「思うだけ」に留めて下さい。
そのこと(無視されたこと)を、「つぶやかない」皆さんの優しい心遣いを、期待します。
著作権法第21条は、「著作者は、その著作物を複製する権利を専有する」旨規定します。
これは、著作物をコピーできるのは、原則として、著作物を創作した者(2条1項2号)だけである、ということを規定しております。
つまり、自分の著作物を、自分がコピーする分には、誰からも文句を言われる筋合いはない、という訳です。
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私、最近、ずーっと考え続けているのですが、
美内すずえ先生の「ガラスの仮面」という連載マンガ、
これ、過去の作品の「コピーだけ」を使って、連載を続けることが可能なのではないか、と考えています。
もし、これが可能となり、商業ベースの採算に乗ることが実証されれば、これはまさに、「創作または出版業界のパラダイムシフト」に成り得ると思うのです。
どなたか、この研究をやってみる人はいませんでしょうか(美内すずえ先生ご自身に、お願いするのは、あまりにも礼を失すると思いますので)。
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この案件、美内すずえ先生からご許諾を頂けるかどうか、がポイントになるとは思います。
ご許諾頂けない場合は、「押し通す(著作権の効力の及ばない範囲)」ことになるのですが、流石に、引用(第32条)で押し通すのは無理だと思います。
ならば、「学術研究」で押し通すか、と思ったのですが、著作権法には、特許権の効力範囲外となる「研究または試験を目的とする実施(特許法69条)」に相当する条文が、ないのですね。
うーん、困った。
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しかし、最近は、美内すずえ先生は、変なアニメに許諾を出しているので、相談したら、あっさり許してくれるかもしれません。
私は、どちらかというと、「結婚」というシステムを使った方が良いと考えている一人です。
このシステムを使わないまでも、「同棲」なども実施した方が良いと思っています。
面白いことが、たくさん発見できることがあるからです。
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先日、嫁さんが、試験監督のアルバイトにでかける時に、私の「電波時計付き腕時計」を貸しました。
しかし、嫁さんが、この時計が「狂っている」というのです。
電波時計であるのに、それを、電話の117で確認するという、その慎重さは、大変エライと思うのですが、それが「狂っている」というのは、私には信じられませんでした。
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その後、嫁さんと話をして原因が判明しました。
「ただいまから、12時34分50秒をお知らせします、ピ・ピ・ピ・ポーン」
というメッセージに対して、12時34分50秒とは、「ポーン」が鳴る時刻であるのですが、
嫁さんは「ただいま」の部分が、12時34分50秒である、と信じてきたのです。生まれて、この方、ずーっと。
こういう認識の違いを発見で楽しめるのが、「結婚」や「同棲」の旨みだ、と思えるんですよ。
よくよく考えれば、「ただいま」の部分が時刻である、という解釈は、それほど外れているとは思えません。確かにこういう解釈はありえると思うのです。
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しかし、嫁さんの回りの時計は、これまでずっと数秒の誤差を含まされてきたのだなぁ、と思うと、その「時計達が、なんだか切ない」ような気持になります。
これまで長きに渡り、我が家の時計が、なんか変な狂い方をしてきた理由が、ようやく判明しました。
今回の「英語コラム」のイラストでは、「ダメ出し」バージョンも表示しています。
私がダメ出しをしたとき、「どこがいけないのか、ちゃんと説明してよ!」という娘に対して、
「迫力がない」「映像がこっち側に飛び込んでこない」と説明したのですが、
「その説明では修正ができない」と文句を言われました。
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至極、もっともだ、と思いました。
上記の私の批評は、論理的な説明になっていません。これで修正しろというのは、論理的に無理だと、私でも思います。
ただ、今回、娘は初版を作っていたとき、パソコンでアニメ映画を見ながらやっていたという事実は、ちょっと注目に値します(私は気がつかなかったのですが)。
「ながら」で作っている作品には、「魂が籠らない」というのは、確かに本当なのだなぁ、と実感しました。
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私は、「ながら」が生活の全般を占めていますので、娘を叱責するようなことはしませんでした。
■本を読みながら、駅まで歩いていますし、
■部屋掃除しながら、ラジオ英会話聞いていますし、
■風呂に入りながら、エッセイやプログラミングしていますし、
とくに、最近は「風呂」に節操がなくなってきており、「風呂でビール」「風呂で熱燗」、最近では「風呂で御飯」というのもやっています。
家族からのクレームについては、私の帰宅時に「誰も起きていない」というのが、必要かつ十分条件となります。
それはさておき。
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「どこがいけないのか、ちゃんと説明してよ!」という娘に対して、私がどうしたかというと、
色を指定し、ディテイルを細かく指示し、そして、自らを題材としたのですよ。
つまり、娘の為に何度も「踊った」のですよ、あのプレゼンテータのごとく。
正直申し上げて、コラム書くより大変でした。
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ですから、あそこに描かれている「踊るプレゼンテータ」は、紛れもなく「私」なのです。
劇場版 シュタインズゲートを見にいってきました。
海老名の映画館にいってきたのですが、22時から始まるレイトショーが満席。追加で午前3時上映というのもありました(何、この人気)。
私の左隣り席が、どうみても、定年退職した技術者(なんか哀愁の匂いを感じた)。
右隣り席が、どうみても、入社5年目の技術者(なんか郷愁の匂いを感じた)。
さすがは、科学者と技術者の為のアニメ、シュタインズゲート。
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で、まあ見てきた訳なのですが。
見終わった後、しばらくネットを見るのが怖くて。
酷い批判されているのではないかと思いまして。
今日、意を決して見てみたのですが、ネットで見る限り、結構評価は高いようで、安心しました。
D-Mailの発明者(私)としては、シュタインズゲートは、もはや身体の一部みたいなものなので、批判されると「とても痛い」。
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もちろん、作品としては、文句なしに素晴しかったです。
シュタインズゲートを全話視聴された方には、お勧めできます(逆に、視聴していない人が見ても、なんのことやら全然分からない映画です(断言))。
ただ、私個人としては、ちょっとなー、あまりにも期待が大きすちゃったなかー、・・・という感じでした。
原作第23話の「あの絶望的な状況を、全部ひっくり返す、驚愕のパラダイム」みたいなものを期待しすぎていましたね。
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時空間関係ストーリーであれば、やっぱり
■「ときかけ」の「最後に一回だけチャンスが戻ってくる」
■「まどか」の「システムの効力で、そのシステム自体を破壊する」
という様な、
『あーー! やられたー! その手があったあーー!!』
と、盲点を突かれるような、そういうネタを期待していたので。
まあ、そうそう、そういうネタは出てきませんよね。
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でも、どうせなら、
「R世界線を、岡部倫太郎もろとも、カー・ブラックホールで破壊する牧瀬紅莉栖」
くらいの、過激性があっても良かったかなあ、と。
そんなことして、どうやって話を収束させるか? それは、製作者の皆様にお任せすると致しまして(無責任な奴)。
しかし、「想い」とか「愛」とか、そんなものより、やはりシュタインズゲートで大事なのは「科学」と「技術」でしょう。
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と、言う訳で、提案です。
「科学技術」を前面に押し出した、科学者・技術者向けハードSF「劇場版 シュタインズゲート2」製作開始 !
私は、シュタインズゲートで、まだまだ、行けます。
我が家では、リビングにある1台のテレビに、2台のHDDレコーダとWiiと、私の構築したホームサーバが接続されています。
テレビは、外部インターフェースの4つを使っていることになります。
それぞれの機器の設定は当然にバラバラで、録画、再生方法、全部異なります。
またテレビ用とHDD用で、合計3台のリモコンもある訳です。
さらに、このリモコンの中で、テレビの外部インターフェースを変更できるリモコンは2台しかない、という状況です(理解して頂く必要はありません)。
一応、言い訳をしますと、このような間抜けなオペレーションをしなくてすむように、ちゃんと設定はしているのですが、いつのまにか設定が解除されてしまうことが多いのです。
第一、私、滅多にリビングのテレビ見ませんし。
結論を申し上げると、2つのリモコンを同時に使う「二刀流」のオペレーションが、我が家では必須の技となります。
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嫁さんや娘たちが、目も眩むような見事な「二刀流リモコン剣舞」を披露しているところを見る度に、
■ パパー、ここのパソコンの設定が分からないよーー
■ えー? ちゃんと自分で調べたよぉーーー
と、私に安易に甘えてくる姿が「擬態」であることは、間違いなさそうです。
昨日の日記「二刀流リモコン剣舞」をご覧頂いた読者の方から、メールを頂きました。
幼稚園児のお子さんが、リモコンを自由自在に操っているとのことです。
人間、自分の好きなことは、年齢や才能を越えてやるものだ、ということだということを、証明する事実の一つになるのでしょう。
ただ、この現象が真である、とするのは、ちょっと困るのです。
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命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。つまり、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)となりますよね。
「好きなこと」は「できる」の対偶は、「できないこと」は「好きでない」となります。
これは困る。絶対的に困る。
例えば、私は「英語が好きでない」という訳ではなく、「英語ができないだけ」なのです。
英語は毎日楽しく聞いています。毎日、通勤途中の歩行の時間は、ビジネス英会話と、ABCニュースシャワーを聞いています。英語が分からなくても、内容は、十分に面白いです。
しかし、私が英語を楽しんでいることと、私の英語の能力との関係は、全く関係がないようです。
例えば、TOEICと私の関係は絶望的に悪いです。前世で、TOEICと私は、魔王と勇者の関係にあったに違いありません。
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「好き」なんだけど「できない」ことって、世の中たくさんあります。
そのような、「好き」なんだけど「できない」ことは、かなり自分を苦しめます。
特に、優れた能力を持っている人が、易々と「好き」を「できる」につなげてしまうのを見ると、本当にやる気がなくなってしまいます。
例えば、嫁さんの友人で、絵が大好きで美術大学に入学した方がいるのですが、「美大に入ったら、絵を嫌いになってしまった」のだそうです。
自分の「上手い」のレベルを、思い知らされるのだそうです。相当な絶望と孤独に苛まされたとのことです。
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だからといって、他人との比較で、「好き」をやめてしまうのも、なんだかなー、とも思います。
なんとか「『好き』だけ」で行きたいものです。
ツイッターのコメントに、いちいち腹を立てることもなく、また、ツイッター数が少ないことに凹むこともなく、
■文章を書いていることが「好き」で、
■その文章を自分で読むことが「好き」で、
■それで、「なんて上手い文章なんだろう」と自分で自分を褒めるのが「好き」で、
そういう、他人の評価から数万光年離れた、内向きに自分の中だけに閉じた世界の中で、生きられるようになりたいのです。
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しかし、この「閉じた世界」は、そう簡単には構築できないのです。
私の場合、「私の、私による、私の為だけの文章(エッセイ・コラム)」というコンセプトに至るだけの為に、実に20年もかかっています。
そして、今の私が目指している最大の目標は、
「外向きに自分の作品を発表しつつ、内向きに完全に閉じた世界で安住する方法」
を確立することにあります。
私には、「シュタインズゲート」を第22話まで見逃し、そして会社の上司に教えて貰うまで「まどか」を知りもしなかった、という痛恨の失敗があります。
特に、「シュタインズゲート」を知らずに、人生を終えていたらと思うと、ゾッとします。
そのような反省もあり、昨年から、とにかく、どのようなアニメであれ、偏見なく、途中からでもよいから、数分は目を通してみる、ということを自らに課しております。
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私が「魔法」やら「魔王」やらを冠する題目のコンテンツを、なんとなく忌避してしまう、というお話はずいぶん前にしました。
ですから、
「まおゆう魔王勇者」
というのも、まあ、ちょっと遠慮していたのです。
しかし「まお」「ゆう」という、私の娘(長女)と私の妻の両方の名前を使った、この題目を見たとき、
―― もしかして、世界が私に「これを見ろ」と誘っているのか?
と感じまして、途中から視聴を開始しました。
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最近のアニメって凄いんですね。
TPPとか欧州通貨統合の意義、そして国家的な関税戦略なども教えてくれるようになっているんですね。
その他、教育活動の本質的な目的とか、革命的技術が社会構造を変えてしまう事象なども、上手く描かれています。
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「まおゆう」なども含めて、私は純粋に「羨しい」と思いました。
私達の子どものころのアニメと言えば、善悪が未定義のままで展開されるヒーロ(戦隊を含む)ものとか、存在意義が不明なままの魔法使い少女とか、そういう、思考ゼロの状態でも見られるものばかりでした。
比して、今のアニメは本当に素材が豊富であると思うのです。
経済、先端科学技術、法律(警察ものを含む)、歴史を取り扱うものなど、多岐に渡り、一つ一つが大変勉強になります(勿論、難しいのですが)。
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もっとも、子どもたちが、「そのような視点」で見ているかどうかは不明ではあるのですが。
しかし、少なくとも、このようなコンテンツに触れられるという環境は、教育上、大きな意義があるのではないかと感じ、やっぱり「羨しい」と思ってしまうのです。
小学校のころ、どの時計が正確か、という話になったことがあります。
私は、科学雑誌が好きな、いわゆる「科学好き少年」だったので、
「原子時計だと思う」というような発言をしました。
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「なに言ってんだ、NHKのニュースの時報が一番正確に決っているだろうが!」
と決めつけられて、黙ってしまったことを、今でも悔しく思っています。
―― だから!そのNHKの時計は、どの時計の時間を基準にしているんだ!!
とか言っても無駄だろうなー、と言うことが、子供心に漠然と分かってしまったからです。
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ちなみに、従来のアナログ放送からディタル放送に変わって、この「NHKの正確な時計」という概念も崩れましたね。
デジタル処理の時間も含めて、2秒くらい遅れるようです。
さて、今の子どもたちは、「どの時計が正確か?」で、どういう会話をしているのでしょうか。