最近、JHの高速道路情報の掲示システムを批判する内容の文章を、たくさん書いています。
なぜ「2時間以上」などという記述をしなければならないか、について、深く考察しました。
# もっと有意義なことを考察しろ、というご意見は却下
仮説の域を出ないのですが、これは「標準偏差」という概念を導入できないからではないか、と思い当りました。
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渋滞の予測というのは過去の事例をもってきても、かなり予測値に揺らぎが発生すると思うのです。
過去のデータの統計値から導き出される最悪の予測値を記載すれば、そりゃ、当然に
「2時間以上」
という掲示にならざるを得ません。
ですから、こう掲載してくれれば良いのですよ。
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渋滞 30km 96分 ± 45分(2σ)
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これなら、
■68%の確率で 74分~118分で
■95%の確率で 51分~141分で
渋滞を通過できるのだな、と即座に理解・・・え、ダメ?
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私なら、この表記で、かなりストレス少くなるのですけどね。
ラスベガスで開催されている家電見本市で、日本の家電メーカが「脱テレビ」の基調講演を行ったそうです。
私自身は10年くらい前から「脱テレビ」だったので、今更という感じですが。
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私は自分の部屋に、2万円の地デジチューナに、不要となったHDDと、ヤフオクで購入した5000円のディスプレイを繋いでいます。
ディスプレイは、パソコンとも併用可能で、録画した地デジの映像も十分にきれいです。
もはや、テレビというハードウェアの「箱」を買う理由がないのですよ。
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かつて「インターネットテレビ」という製品がありましたが、自社のポータルを強制的に仲介させるというアホな仕様を組み込み、ユーザに嫌われて、コケました。
また、3Dテレビも、変な眼鏡を装着してまでテレビを見たいというユーザの数を見誤って、コケました。
「テレビなんぞ、飯食いながら見る程度しか価値がない」と言うことは、もちろん家電メーカの人たちも分かっていたと思うのです。
起死回生の一手として、そこに賭けるしかなかった彼等を、同じエンジニアとして、私は批判することなんかできません。
テレビはディスプレイだけあれば良く、本体なんか雲のむこう(クラウド)にあれば良いのです。
我々はコンテンツが欲しいのであって、テレビが欲しい訳ではないのですから。
ま、それはさておき。
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昔、保護者は「テレビを見る=勉強する時間が無くなる」という理由で、子供から、テレビを遠ざけようとしました。
しかし、結局その時間は、PCで見る「ニコ動」や「YouTube」に置き代わっただけで、あまり何も変わっていないように思います。
それならば、家族がコンテンツをシェアする時間があるだけ、まだテレビの方がマシのような気もします。
しかし、世代毎のコンテンツの嗜好は、もう絶望的くらいに隔っており、共有される可能性はないでしょう(初音ミクを出すまでもない)
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発想を転換しましょう。
我々自身がコンテンツになるのです。
お父さん:日曜日には、家族に練習した落語を披露して下さい。
お母さん:土曜日には、カルチャースクールで習ったラテンダンスを披露して下さい。
子供たち:学校のできごとを、毎日紙芝居で披露して下さい。
これを2週間でも続けられたら、大したものです。
うんざりして、げっそりする家族の顔が、ありありと見えてきます。
その後は、家族で見るテレビ番組は「NHKニュース」に限定してしまいます。
もう誰も文句は言えません。
極め言葉は、「好き嫌いいわずになんでも美味しく『見なさい』。そうでないと、お父さんに落語やってもらうわよ」
で、O.K.です。
先日、帰省の帰りの高速道路の車の中で、ノートパソコンで、嫁さんに「魔法少女まどかマギカ」を見せてきました。
娘二人と私の圧力に屈して、仕方なく視聴を開始しました(半分眠っていたようですが)が、このアニメの要件定義「黙って第3話まで見ろ」でも、嫁さんはハマりませんでした。
(おや、嫁さんは、この要件定義に当て嵌らない最初の人物になるのかも)
と思ったのですが、第6話を越えた辺りから、真剣な眼差しになってきました。
そして、第8話を終えた所で、嘔吐感を訴えたので、急いでパーキングエリアで休憩することになりました。
「物凄く、気持ちが悪くなってきた」と言う嫁さんに、私は「もう見るのを止めた方がいいんじゃないのか」と勧めました。
しかし、「ここで止めたら、一生、悪夢で出てきそうで怖い」とのこと。
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「もう一度、確認するけど、本当に『ハッピーエンド』で終わるんだよね」
と嫁さんから念を押されて、パーキングエリアで私は娘達と協議しました。
―― あれって、ハッピーエンドだよね
―― 見方によっては、バットエンドとも言えるかもしれない
―― しかし、「救いが全くない」という訳でもないし
などと、話し合った結果、「条件付きでハッピーエンドと認められる」と見解の一致を見て、嫁さんにその旨を告げました。
ちょうど自宅についた時に、最終話が終了し、実家から自宅までの間に、嫁さんは全12話を視聴を完了しました。
普段アニメを見ない嫁さんではありましたが、「面白かった」との評価を得て、一安心です。
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それにしても、自分の好みのコンテンツが、必ずしも他人の好みと一致しないということは、よくあります。
自分の好みを強制するのもほどほどにしないと、下手をすると一生恨まれる可能性もあります。
皆さんも注意しましょう。
あまりにも腹が立ったので、数日、この日記をリリースするのを差し止めていましたが、数日経過しても、私の気持には揺らぎがないことを確認したので、リリースします。
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教育現場において「体罰」に「効果」があるのはあたりまえです。
「銃を付きつけられたら、誰だって従う」という、この野蛮な理屈と同じであるからです。
私は、少くとも我が国は、
―― 「体罰」に「効果」はあるのは知っているが、それを「止めよう」と決めた国
であると思っていました。
例えば、クラウゼヴィッツを出すまでもなく「戦争は政治(外交)の延長である」のは自明です。
しかし、戦争が、どんなに優れた外交的効果が期待できたとしても、我が国は、
―― 決して戦争をしない、
―― 決して核兵器を持たない
と決めました。
本当に凄いことだと思います。
一方、
―― 我が国の教育現場は、「体罰」を絶対的な意味において封印した
この教育方針は、この「戦争放棄」の理念と並び立つ、我が国が誇る教育信条であると、私は、ずっと信じていました。
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「今まさに、自殺をしようとしている子供を力づくで止める為に、止むなく体罰を行使した」という、緊急避難的な状況での話なら、ともかく、だ。
高々「チームを強くする為」程度のことに、「体罰が有効だ」と、この教師は言ったそうですね。
多分、この教師は人気があって、生徒からも同僚からも信頼を得ていて、間違いなく人間として尊敬するに足ると思われている人間だろうとは思います。
なにせ「校長」から体罰を「看過」して貰っていた程の人間ですから。
だが、私は、そんなことはどうでもよいのです。
この教師は、「効果」として「体罰」をいう手段を行使した ―― この一点において、私はこの教師を絶対に許せない。
この教師は、信じられないくらい、無知で、低能で、下劣で、百万の罵声を浴びせても、まだ足りないくらいに、「最低な奴」と、私は決めつけます。
その程度の知性しかない人間が教師をやっているかと思うと、絶望的な気分になります。
『「体罰」以外のありとあらゆる手段を考えて、試して、実施して、それでも上手くいかなくて辛くて、悔しくて、そうして一人で泣く』 それが、教師だろう、と思うのです。
私は、この教師を含め、「体罰」に「効果」を求める全ての教師を、問答無用で、絶対に許しません。
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何度も書きましたが、私は、学生の頃、ギリギリまで迷い、最後の最後で「教職」を断念した人間です。
私は、自分のことを
『効率的な手段を求めて、簡単に「体罰」を行使するタイプの、狭量で卑怯な人間だ』
と自分自身で、よく判っていたからです。
だから私は、「教師」を選んだ奴には、絶対に優しく接しない。
教師という、この世で一番辛い職業を選んだのであれば、一番辛い道を歩け。
その覚悟がないなら、初めから教師なんか選択するな、馬鹿野郎めが。
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しかし、教師が生徒の全ての責任を負わされる、という今の状況は、絶対的な意味で、間違っていると思います。
「体罰」以外の方法を全て試みても、なお、思いの届かない子供もいます。
それは、もう、
―― 諦める
という選択をする時期に来ているのではないか、と思うのです。
それは、教師、子供、保護者、社会の全てを不幸にするものではありますが、「どっちもダメ」などと、外部の者が勝手に言うことは、甚しく卑怯であると思えるのです。
「体罰」を放棄する代償として「諦める」というのは、概ね、妥当な対価であると、私には思えます。
今回のケースに当て嵌めるのであれは、
「体罰を行使してまで強くしたチームの実力など、髪の毛程の価値もない」
で良いのです。
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金八先生や、GTOや、ごくせんは、どこにもいない。
どこにもいないからこそ、これらがドラマとして成立する。
そんなことは、もう誰もが知っていることです。
私は、物理的暴力を伴ういじめ対策の解決方法を知っています。
「非接触」のルール化と運用です。
大人であれば、どのような理由があれ、他の人の体を触ることは、許されません。それだけで犯罪が成立します。子供にそのルールを適用するだけで良いのです。
プロレスごっことか、そのような遊びを、全て一掃すれば良いのです。
「子供どうしのふれ合い」がなんたらかんたら、という声が、もう聞こえてきますが、そんなものが、本当に必要なんですかね。
そんなものなくったって、人間は普通に育つし、それが理由でコミュニケーション障害になるとは思えません。
むしろ、コミュニケーション障害は、程度を越えた過度な接触(いわゆる、プロレスごっこ)が原因で発生する方が、絶対多数でしょう。
「子供時代にじゃれあうことで、人間としての『うんたら、かんたら』」というのは、真っ赤な嘘だと思う。
なぜなら、その理屈の延長上には、
―― 人類は、未だに、取った獲物を奪い合うのに、棍棒で相手を叩き殺さなければならない
という結論があるはずだから。
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■「じゃれあう」というコミュニケーションは、もう人類にはいらない
↓
■「非接触」のルールを全世代に拡大適用して良い
↓
■誰かに接触した段階で、「アウト(犯罪)」と言える世の中にする
↓
■フィジカルハザードによる「いじめ」が残存できる余地はない
これで良いと思うのですよ。
皆さん、難しく考え過ぎなのではないでしょうか。
いじめ対策として監視カメラを設置する、という話をすると、面白いくらい同じ反応(2つ)を聞けます。
(1)「プライバシーの侵害」
(2)「効果がない」
です。
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上記(1)の「プライバシーの侵害」って何でしょうか。
私は「生徒の家の部屋の中を撮影しろ」といっている訳ではないのです。
現在のイジメの問題の根幹は、誰もがその現場を目撃していながら、それが「イジメ」であるかどうかを認定する手段がなく、それを告発できるシステムがないことです。
この手段を提供するだけです。
「いじめ」と「プライバシー」 私には十分にトレードオフできると思えます。
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上記(2)の「効果がない」については、私もかなり調べましたが、誰もその実証実験の証拠を持っていないのです。
それは推測ばかりで、しかも理由が1つという貧弱さ。
「カメラの死角に入ったら効果がない→いじめがさらに陰湿化する」ばっかり。
3つ程、事実で反証します。
■イギリスでは、すでに4万7000台のカメラが学校内に設置されて、いじめ対策に一定の効果が認められています。
■私自身が、幼稚園に通っていた娘の問題(「いじめ」かどうかは認定できなかった)を聞いて、具体的なシステム構成図を伴う、自費による監視カメラの設置の提案を行っただけで、一気に問題が沈静化しました。
■監視カメラというのは今や、指の上の乗るくらいの小ささであり、しかも無線LANなどによって、どこでも、追加設置できます。「死角」を作らないシステムは、簡単に設計できます。
結論:物理的ないじめ対策に、監視カメラは効果があります。
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纒めると
「暴力」の行使が「即解雇」という、大人の当たり前のルールを、子供に適用して良いと思う。
■何を犠牲にしても、いじめを絶対に根絶する
■大人と同様に法律等を適用して、いじめの当事者を社会から追放する
という大人側のメッセージを、まだ伝え切れていない、と感じます。
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もちろん、このようなハード(仕組み)的なアプローチよりも、ソフト(教育等)的なアプローチが望ましいのは、言うまでもありません。
ならば、いじめ問題は「統計値」として扱い、「前年度より自殺者が減少していれば、一定の成果があった」とする考え方にシフトすべきでしょう。
そして、今、この時間に、現実に苦しんでいて、助けなければならない子供達には、諦めて貰いましょう。
将来の明るい社会の為に「あなたの『犠牲』が必要なのです」と言って。
半年前に、実家に入ってきた泥棒を、たまたま帰省していた私が取り押さえました。
その時は、捕まえたその泥棒を動けないように、ひもで縛っておいたのに、逃げられてしまいました。
先日、帰省した時、驚いたことに、同じ泥棒が、同じように実家の家の中に入り込んでいたところにバッタリ出会いました。
今回も私が取り押さえて、手と足を縛って、テーブルの下に放り込んでから、警察に電話しました。
ところが、今回も、また逃げられてしまいました。
変だと思って、父を問い詰めたのですが、明らかに何かを知っている風なのに、分からん振りをしていました。
また、母も何か知っているようでした。
その時、隣りの家のおじさんがやってきて、私に話があるのでついてきてくれ、と言い出しました。
「今、忙しいから」と断わったのですが、どうしてもというので、一緒に付いて外に出たところで、おじさんが大きな石を振り挙げて、今、まさに私の頭にぶつけようとしていました。
「何をする!」と言いながら、飛び跳ねながら、おじさんを蹴り付けました。
しかし、おじさんも、何か本気で私に怪我をさせようという風には見えず、なにか「ふり」をしている風に見えます。
まるで、「反撃してした私に殺されたい」というような感じすらしました。
おじさんが倒れたところに落ちていたカップを口にしようとしたのですが、私は反射的に、そのコップを叩き落しました。
なぜか。私には、そのコップに毒が入っているのを知っていたようです。
「何があったんだ! 一体、皆、何を隠しているんだ!!」と、おじさんの襟(えり)を掴んで、揺さ振りました。
すると、おじさんは、深く溜息をついて、ポツリと言い出しました。
「・・・、そうだな、もうそろそろ話す時が来たかもしれない。あの
『黒い苺(いちご)』
の話を」
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と言う、夢を見た話を、家族にしました。
みんなが「おおーー!凄い!!」といって、続きを聞きたがりました。
嫁さん:「で、何がどうなっていたの」
私 :「そこで目が覚めたから分からん。誰より、私が、この話の真相を知りたい」
長女:「凄いなぁ、サスペンス小説じゃない。『黒い苺(いちご)』というのが真に迫っているよね」
私 :「なんかね、私以外の登場人物の全員が、真相を知っているのに、自分だけ知らないんだよね」
嫁さん:「もう一度寝れば、続きが見られたかもしれないのに」
私 :「試みたのだけでど、眠れなかった」
次女は、パソコンを立ち上げて、この話を短編小説として書き出していました。
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「真相と犯人が分かったら、教えてよね」と、次女に声をかけて、自分の部屋に戻りました。
先日、初音ミクの技術解説のコラム(前半)を公開して貰ったのですが、その反響に驚いています。
なんか、(私の記事としては)見たことがないような、ツイート数が付いています。
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■インターネットは勿論ですが、各種資料、学会誌、特許庁の検索エンジンなどという、一般の人には縁の薄いパス
と、
■同僚、親戚(現役の大学生(女性)を含む)は勿論、自分の娘(中二と小4)とその友人までも、インタビューの対象に含めたコネクション
をフル稼動して調査・取材をしたかいがありました。
また、
■娘達には、3枚以上のイラストの絵を要求し、しかも4回書き直しを命じました。
(「アルバイト代が見合わないよ」と、今でも文句を言われ続けています)
これらをプロデュースするのは、正直疲れました。クタクタです。
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嫁さんからは、「この記事は、それだけの調査をするに『見あう』ことなの?」と、呆れたように言われたのですが、
それに「見合う」と感じさせるものが、確かにあったのですよ。
「初音ミク」には。
http://biz-journal.jp/2013/01/post_1323.html
■2013年 01月 18日
・ほめ屋
「ほめ屋」というサービス、または自動アプリケーションってないかなぁ、と思うのですよ。
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あのね。何度でも言うけどね。
そして、どの著作者でも同じだと思うけどね。
私が執筆している著作は、その裏に100倍以上の調査資料やインタビューの結果の山があるのです。
それを、泣きながら削り取って、妥当な分量にして、適当な表現にして、そして、5回は書き直して、そんでもってリリースしている訳なのですよ。
「こんな記事を、いまさら何で書いているんだ」
「調査が十分でなく底が浅い」
「目新しくない」
だと。
じゃあ、初稿から第5稿までの原稿全文と、調査資料の全てを、そっちに送ってやろうかじゃないか。
その上で、完璧な評価をして貰おうじゃないか。
何だったら、公開討論を提案してもいいぞ。
ネットじゃ手緩い。F2Fでやろうじゃないか。
いい加減で的外れな評価をしようものなら、返り討ちにしてくれるわ。
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と、こんなことを言っても、しょうがないのは、よく分かっているのです。
で、上記の「ほめ屋」の話になります。
否定的、非難的コメントを、私に届かないようにしてくれるサービスやアプリってないでしょうか。
これって、創作に関わる人にとって共通的にニーズがあり、圧倒的な支持を受けると思うのです。
相当高めの価格設定であっても、私ならサービス提供を受けたいと思います。
-----
「批判を受けてこそ、著作の品質を上げることができる」と決め言葉のように言われています。
しかし、私は、自分の著作の品質の向上など、人生においてただの一度も考えたことはありません。
私が望んでいるのは、いつだって、
■自分が、何の制約もなく、好きなように著作物を創作し、
■皆から、「面白い」「楽しい」と評価されること、だけ
ですから。
http://eetimes.jp/ee/articles/1204/09/news002_3.html
「肩たたき券」とか「肩もみ券」という概念を、最初に発明したのは誰でしょうか。
「サザエさん」あたりかな、と思っているのですが。
これらの「債権請求券」(×債権請求権)というのは、なかなか良くできていると思います。
子供が金銭債権(お金)を持たないとした場合、子供の労働力という債務が、それらの「券」を構成しているからです。
なお、「債権」とは、「ある者が特定の者に対して一定の行為を要求することを内容とする権利」のことす。
この場合、発券者(子供)に対して、「肩たたき」または「肩もみ」という行為を請求する場合に使われるものが「肩たたき券」とか「肩もみ券」となる訳です。
先日、部屋の中を大掃除していたら、部屋の隅々からこれらの「肩たたき券」とか「肩もみ券」が出てきました。
私は、夜遅くに帰宅するので、「肩たたき」「肩もみ」の債務を要求する時間もありませんし、これをいつでも使いたいという程でもありません。
一方、今、子供達は、お年玉等で、潤沢なお金を持っています。
とすれば、これらの「券」は金銭債権としての性質を持っても、良いのではないかと考えました。
-----
と言う訳で、今週末に、子供達に、
「肩たたき券」とか「肩もみ券」で、キャッシュバックを求めてみようかと思います。
彼女達が、いくらで、これらの「券」の交換に応じてくれるのか、つまり
―― 自分達のサービスが、どのくらいの価値があるか
を明確にして貰おう、と考えている訳です。
_ 私は、自分の著作に対して、その内容の間違いを訂正して頂くことを目的としたメールアドレスを開示しています。
例えば、今回の「初音ミクに関する技術コラム」に対しては、http://www.kobore.net/miku.html からアクセスして頂けると、私あてのメールアドレスが届きます。
-----
ただ、ですね。繰り返しになりますが、このメールアドレスは、「批判コメント」というか、私の誤記や誤解を修正して貰うことを目的としておりまして、
・ご推奨のボーカロイド曲のご紹介
・取材に来て欲しいというご要望
などを目的としたものではありません。
あくまで、私の著作物から間違いを直して頂き、より良くして頂くことを目的としております。
従いまして、本来の目的とは異なるメールは(拝見させて頂いておりますが)、お返事はご遠慮させて頂いております。
あしからずご了承下さい。
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これとは逆に、間違いをツイッターのみで、指摘して頂く方もいらっしゃるのですが、こちらも困っています。
ツイッターだけでは、指摘のみで、その理由や根拠までも記載して頂けないからです(140文字の制限)。
できたら、メールで、指摘個所とその根拠、引例等を示して頂けると助かります。頂いたメールは全文開示を原則としておりますので。
なお、開示に際しましては、ご本人とご意向を最大限尊重して、プライバシー等には十分配慮致します。
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じゃあ、どうやって、江端に接触すれば良いんだ? という場合は、ツイッターを使って頂くのが良いかと思います。
http://www.kobore.net/miku.html
コンビニで、「人生に成功する方法」という様な題目の本が、並ぶようになっています。
「コンビニ」と「人生に成功する方法」の間には因果関係があるのだろうか、と、いらんことを考えてしまいます。
私が、このような本をマーケティングをするとすれば、当然に、
「人生に成功していない」(「人生に成功する」の定義が不明だが)
または
「人生に成功していないと思っている人」
がいる場所に、拡販をかけると思います。
とすると、コンビニは「人生に成功していない」という人が集ってくる場所、とも、定義できる訳です。
まあ、それはさておき。
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時々、この手の本に手を取って立ち読みしているのですが、面白いことに気がつきました。
「人生に成功する方法」の著書の内容が、
■「人生に成功する」という言葉や内容を定義しないまま論じており、
■「人生に成功する」為に、他の人の知見や経験等を全く参照しておらず、
■「人生に成功する」という内容が、自分に体験談だけに基づくものである
という事実です。
纒めますと、「俺の人生って、成功だろう」「皆、そう思うよな」という内容に読めてしまうのですよ。
で、自分の経験から導かれる結論なので、それらの本に共通する知見は全くなく、てんでバラバラです。
100人の著書があれば、100の結論があり、そこには共通とする前提も条件もない訳です。
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と言うことはですよ、次のような結論に帰着するのではないかな、と思うのです。
(1)自分が「人生が成功した」と思えば「人生は成功したものとなる」
(2)「人生が成功した」と思える方法は、その当人以外には適用できない
(3)上記(1)(2)に基づくと「人生に成功する方法」という本を読むことでは、「人生に成功することはできない」
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私が、「人生に成功する方法」という題目の本を書くなら、こうなる。
(1)「人生に成功する」とは、(a)年収2000万円以上を稼ぎ、(b)人生で4人以上から愛の告白を受けたことがあり、(c)現在家族または恋人がいることである。
(2)「人生に成功する」為には、上記(a)(b)(c)を実現すれば足る。
(3)その具体的な方法については、本屋にいけば沢山の資料があるし、あなたの努力で、上手くいく場合もあり、いかない場合もある。
多分、どの本より誠実で、役に立つ本になると思う。
_ 6年間使っていたホームページの掲載に使っていたサーバの運営会社が、「サービスを止めることになったので、出てってくれ」と言われてしまいました。
住みなれた下宿を離れるのは残念なのですが、大家さんが「もう、このサービスでは、とても食べていけなくてねえ」と、疲れたように言っているように感じて、なんだか気の毒なくらいです。
大家さんから紹介して貰った、新しい部屋・・もとい、新しいサーバは、現在の50倍の広さもあって、家賃は半分くらい。
これは、大家さんが疲れてしまうのも、無理はありません。
インターネットのB2Cサービスというのは、近年、さらに難しくなっています。今や、ホームページくらいなら、無料でサーバをレンタルしているサービスは、山ほどありますから。
私の場合は、自分でドメイン名(kobore.net)を持っており、これを維持する為には、無料のサーバでは難しいことや、色々な個人的な実験をしていることもあり、未だに有料サービスを使っています。
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引越しの時に、「あれ、この図面、こんなところに!」とか、「この文章、ここに隠れていたのか」という新鮮な感動と、御対面。
それらを見ながら、昔の思い出にボーッとして呆ける、と。
「畳の色が、そこだけ若いわ」という、キャンディーズの歌のように、コンテンツの引越しも、現実の引越しも、あんまり変わりません。
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しかし、これまでは狭い部屋の中で、色々話し合いをしながら、大きな人(写真とかイラストとかのコンテンツ)に出ていって貰ったり、小さくなって貰ったりしていたのところに、
―― いきなり、50倍もの広さの部屋を与えらた。
これまで、泣く泣くコンテンツを捨ててきた、あの悲しい日々は、一体何だったの?
と思わずにはいられません。
こんな広い部屋を与えられて、私がじっとしている筈がありません。
私が「悪さ」を始めるのは、多分、時間の問題だと思います。
_ ―― 合コン。
私には一生で3回しか思い出がありません。
あまり楽しかったという記憶もありません。
話題も乏しかったので。
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大学時代のゼミの先輩との会話。
先輩:「江端はどんな娘だったら、気に入るんだ」
江端:「そんな、『気に入る』だなんて、贅沢なこと言える身分ではないですよ」
先輩:「得意な話題というのは、ないのか?」
江端:「まあ、私としては、先週から放送されている、NHKスペシャルの『イスラム源流』の話題で盛り上がれればいいなと、思ったことはありますが」
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その後、先輩から、合コンに誘って貰った記憶がありません。
初音ミクの(技術?)解説コラム(中編)を掲載して貰いました。
ボカロPのPさんとは、中華料理(今回の記事御参照)を食べながらのインタビューでした。
Pさんも私も、事前にメールで連絡を取りあって、それぞれの観点から相当勉強・調査等をして、このインタビューの当日を迎えました。
しかし、事前に用意したA3の紙にびっしり書き込んだレジュメを読みながら、インタビューのメモを取りながらの食事は、
―― 味気ない
私はホストですので、仕方ないのですが、多分、ゲストのPさんも、ゆっくり食事ができるような気分ではなかったと思います。
1時間半、休むことなく質問をし続け、私はグッタリしてしまったのですが、それに完全に答えて頂いたPさんも相当に疲れただろうと思います。
なんか、本当に申し訳ないことをしたと思います。
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研究員の性(さが)で、調べ出したらトコトン分からないと納得できないです。
ですから、特許明細書の査読の他に、音声技術に関しては、過去の英語の文献まで遡って調べました。
週末の全部を執筆に充てており、嫁さんからは、「力の配分を間違っている」と叱られています。
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3ページ程度の原稿依頼に対して、24ページで戻すという、今回の暴挙。
そろそろ、文章をコントロールする力も付けないとなぁ、と思っているのですが。
一旦、神が降りてくると、私にはコントロールできなくなるのです。
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あ、それと、今回の「初音ミクコンサート」のイラスト、我が家の長女と次女が総力を結集して描き上げました。
で、「イラストへの評価のコメントは、まだないの?」と寂しそうな目で私に尋ねてきます。
「やらせ」で構いませんので、ツイッターで彼女達を褒め捲ってやってくれませんでしょうか。
リンク→「miku.jpeg」
できましたら、100ツイートくらい。
以前お話しましたが、私が寄稿しているコラムは、私自身がコラムのタイトルをつけることができません。
編集担当者さんが、PVを上げるために、色々工夫を凝らして、タイトルを付けています。
で、今回のタイトル、
も、私は関与していません。
むしろ、「おや、今回は、普通に大人しい『タイトル』だなー」と思っていました。
しかし、やっぱりプロは違いますね。
「初音ミク」と「AKB」を同じ範疇で語ると「激怒する人」がいる、という緻密な計算があったように思います(思い違いかもしれませんが)。
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ところがですね、執筆者である当の本人(私のことです)が、この感じがよく理解できていない。
まず、私自身が、「初音ミク」を執筆しているのですが、その視点は研究者ビューでであることです。
―― 「研究者」というよりは、どちらかというと「観測者」
で、「AKB」に至っては、この「単語」を、人生で5回くらいしか使用したことがない、というくらい、全然分っていません。
「激怒する」という感情の発生の土台にすら到着していない状態です。
で、そのような訳で、今、色々な人に教えを請うている最中です。
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このままいくと、今度の執筆の依頼は、
■AKB48を生んだ“革命的”技術を徹底解剖!
■キャラ設定はない?◯◯が語る「AKB48の作り方」?初音ミクファンと同じ?
なーんてことに、なるのかなぁ、と。
まあ、ないな。
昨日、「『初音ミク』と『AKB48』の差異点が(論理的に)分からない」旨の日記を書きました。
「激しいフレーズでその違いについて批難してきた人」の何人かにもコンタクトを試みましたが、連絡を頂けておりません。
が、昨日、ほぼ完璧な文章のメールを頂けました。私の状況(例えば、私の年齢等)までも考慮されている見事な文章です。
本人のご許諾を頂き、公開しています。ご一読下さい。
技術コラム「ボーカロイドと初音ミク(仮称)」に対する批判コメント
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私は、他人に説教するようなタイプではありません。
しかし、もし自分達の信じている信念や信条があるなら、
―― 「激しい批難のフレーズ」をツイートする時間で、「きちんと理解して貰う」為の行動を開始した方が良い
などと、説教してみようかなーとも思ったりもしました。
でも、そういう「きちんと理解して貰う」為の行動、というのは、
―― 面倒くさい
ですよね。よく分かります。
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「バカかお前は」「何も分かっていねーな」「糞が」
と言うのは、今回公開させて頂いた上記のコメントに比べて、比較できないくらいラクですよね。
■執筆時間は1/2000くらいですむし、
■文章構成を考える必要もないし、
なにより
■論理立てて説明する必要もない
-----
そういうことを、論理立てて説明するのが好きな人間、というのは、希少価値があるのかもしれません。
だからこそ、私のような者が執筆したコラムでも目を通して頂ける、とも言える訳で ――
と、まあ、なんというか、こういう風にポジティブに考えるように、努力している訳ですよ、私なりに。
我が家では、自分の気に入ったコンテンツを家族に押しつけあうという、文化があります。
押しつけに成功したものとしては、
■長女から発信した「若おかみは小学生!」
■嫁さんから発信した「火車」
■私から発信した「マドキまどか」(シュタインズゲートは失敗)
などがあります。
もう一つ、「図書館戦争」などもありますね。
ただ、同じコンテンツでも、嫁さんは「ラブコメ」というエンターテーメントとして見ているのに対して、私は「表現の自由」という深淵なテーマで見ている点が全く違います。
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「図書館戦争」は、法律の成立過程、運用形態や解釈などつっこみどころ満載なのですが、それが面白い。
図書館隊が正義として、メディア良化委員会が悪として描かれるのは、ある意味当然です。
しかし、私としては、「メディア良化委員会」を正義として捉えた、「図書館戦争」も読んでみたいと思うのです。
■表現の自由の名の元で、平気で蹂躙され続ける個人の尊厳
■表現の自由の名の元で、事実上機能しない著作権者の著作権の権利行使
■表現の自由の名の元で、無責任な発言で人を傷つける匿名掲示板
「表現の自由」と言いさえすれば、どんな批判も無制限に許されるのか。
創作者をどれだけ傷付けてもかまわないのか。
そして、多くの創作者の卵が、批判を恐れて、日陰を選び、メジャーに出てくることを恐れている、この閉塞感を打開する方法はないのか。
というアプローチから、「表現の制限」を肯定する側のお話を作れると思うのですよ。
どなたか、ご依頼頂けたら挑戦してみます。かなりリアリティの高いものを御提供する自信があります。
江端家の絵師である長女と、自宅システムの管理者である私が、「Pixiaの使い難さ」に、ついに根を上げました。
もう、私も限界でした。
オブジェクトの回転すら満足に使いこなせないドローソフトとは、本日をもってお別れです。
―― あなたが悪い訳ではないのかもしれない
―― でも、あなたは、私には、難しすぎるの
と言う訳で、本日只今をもって、9ヶ月つきあってきたPixiaからSAIに移行します。
また最初からドローソフトの勉強のやりなおしです。
本当に泣きそう。
「最初の選択を誤ると、地獄を見る」という好例です。
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私は、何を間違えたのか。
まず、フリーソフトに目眩しされ、機能の充実度に幻惑され、そして、Pixia作品のグレードの高さに、魅惑されました。
私は、何をすべきだったのか。
間違いなく、Amazonで教本の数を調べるべきだったのです。PixiaとSAIでは、教本のケタ数が違いました。
明かに、市場分析を見誤ったマーケティングリサーチ不足による敗北です。
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もはや、高い機能などは、差別化にならない。ユーザはそのようなものを欲してはいない。
ユーザインタフェースこそが製品の価値を決定し、インダストリアルデザインが市場を支配する。
これは、技術を極めることを至上価値と考えてきた、私のようなエンジニアにとって、厳しい現実です。
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これからのエンジニアは、
■使用後3分で稼動を開始でき、
■30分後にはオペレータが使い熟せている
■誰でも簡単に使える
鉄道運行や、電力配電や、上下水や、そして、
原子力発電所システム
を考なければならない時代になるのでしょう。
最近、「初音ミク」ネタで、バシバシ書いております。
このブームもいずれ終了すると思いますので、もう少しご辛抱下さい。
―― 今回、連載記事で、「AKB」と「初音ミク」を一緒くたに記載したことで、かなり騒ぎになっている
というお話はしました。
私が、これを「狙って」やっていれば、大物なのですが、残念ながらそうではなかった、というお話もしました。
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「粒度」ってあると思うのですよ。
例えば、私であれば、
■通信プロトコルのTCPとUDPを一緒にして議論されたら怒るだろう
と思うし、
■「リアルタイム」という言葉を、「処理速度が速い」と言う意味で使われたら不快だ
と思う。
同僚には、
■「ハッカー(本来の意味はコンピュータに精通した専門家)」を「クラッカー(システム等を不当に攻撃する犯罪者)」の意味で使われたら、激怒する
という人間もいます。
嫁さんなら、
■英文科を「英語の文学」を学ぶ学科と言われたら怒る
でしょう(正解は「イギリスの文学」(北米等の文学は含まない))。
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「AKB」も「初音ミク」も、私の立ち位置からすれば、同じアイドル文化であり、区別がつきません。
なぜか。
私が、アイドルにトコトン興味がなく、その「粒度」に到れないからです。
どのくらい興味がないかというと、これは、もう、絶望的に興味がない。
「前世でアイドルに両親を殺害された」のかもしれないと思うくらい・・いや、この表現は変だな。これでは「アイドルを憎悪する」という話になってしまう。
まあ、ともかくですね、ティーンエイジャの頃、アイドルに心酔している友人を、「心底羨しい」と思ったものです。
「あれほど、何かや誰かを愛せる人生は絶対に幸せだろう」と純粋に思いました。
それはともあれ、私は「AKB v.s. ミク」の構図を、「知識」として理解していますが、「魂のレベル」では理解できていないのです。
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で、今回の騒ぎとなっている、「AKB v.s. ミク」を、色々な人の助けを頂きながら、先ずは「理論」から理解しようと思っているのですが、これがなかなか難しい。
なぜか。
「好き嫌い」は理論で説明しにくいものの中でも、特に、ラスボス級に難しいものであるからです。
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私が皆さんにお願いしていることは、相当に難しいことです。
それは良く分かっています。
だからこそ、是非とも挑戦して頂きたいのです。
「AKB v.s. ミク」の背景、歴史、そして課題、課題を解決する手段(←これはいらんかな)、今後についての考察を含む、徹底的で圧倒的な論理構築を。
そして、是非とも、私に「参った」「私が間違っていた」「訂正をさせてくれ」と言わせて下さい(何が間違っていて、何を訂正すれば良いのかは、さておき)。
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「バカ」「アホ」「糞」「勉強不足」程度の用語では、私を不愉快にはできても、私を倒すことはできません。
・・・、あ、いや、別に、倒さなくてもいいですが。
「100%の男は浮気したがっている」と決めつけている男がいますが、一体、なんの根拠があって、こんなことを断言できるのかが不思議です。
反例を提示します。
「私は、嫁さんと結婚してから、この方、ただの一度も浮気したいと思ったことがありません」
こんなこと、嘘ついてもしょうがないですからね。
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別に「俺は浮気はしない!」などと誓った為、という訳ではありません。
そもそも、私は、
■他人の浮気を批判したこともありませんし、したくもありません。
■第一、浮気が悪いことかどうかも良く分かりません(私が知っているのは民法上の契約違反行為に該当する、ということくらい)。
■赤の他人が何しようが、まったく興味ないです。
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まず感覚としては「なんで、そんな面倒なことを、わざわざ」という思いから出発して、
理屈は、単純な三段論法です。
(Step.1)嫁さんが浮気をすれば、間違いなく私は凄く悲しい。
(Step.2)(実際がどうであるかは、さておき)逆も真に違いないと思っている
(Step.3)だから浮気しない。
こんだけです。とても明快な話です。
「それが分かっていても、してしまいのが『浮気』だろう」と言われても、現段階では、私には理解できないのです。
今後、人生を積み重ねて、一生懸命精進を続ければ、いずれ、私にも分かるようになるのかもしれません。
一応、努力してみますが。
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私は、この話で「自慢」をしたい訳ではなく、実は主張したい点は、まったく別のところにあります。
私は安易に「100%」という言葉を使うバカが嫌いなのです。
「どんなに普遍的真実に見える事象でも必ず例外がある」という自然界の法則を理解できない、こういう知性のないバカを見ると、心底腹が立つのです。
そして、そのバカが規定した定義の範疇に私が入れられてしまうことが、滅茶苦茶に不愉快なのです。
――低能なお前の足りない頭が決めつけた、バカげた定義の中に、この私を入れるな
と。