江端さんの忘備録

2012年07月分を表示
2012年 07月 31日
「エロ本を取り上げる保護者」のITバージョン
「子供にパソコンを教えるのは良いことか」という議論が出てくるのが、私にはよく分かりません、

私は「良いことに決まっている」と思っています。

理由は便利で、自分の表現したいものを、現実に簡単に表現する「便利な機械」であるからです。

もし、悪いことであるとすれば、「電卓」も、「ソロバン」も、等しく否定されなければならないでしょうし、さらに言えば「シャープペン」や「鉛筆」までも否定されなければならないはずです。

これを極論であるという人はいると思いますが、それならそれで、合理的な反論を伺いたいと思います。

まあ、あるとすれば、猥褻サイトや、裏サイトというアクセスによる、子供への悪影響が気になる人もいるでしょう。

しかし、そのようなアクセスができなくするプロバイダもありますし、最悪LANケーブルを、ひっこ抜いてしまえば良いでしょう。

# 我が家の場合は、家族全員に「常に完璧な通信ログを記録している」と宣言しています。

-----

さて、パソコンやゲーム機を忌避(きひ)する人達の理屈は、常に同じです。

子供時代に、パソコンやゲームをやっていると、人間として「変になる」とか、外で走り回ることや、自然の中で泥だらけになることをしなければ、人間として「何かが歪むことになる」という、―― 奇妙な観念です。

では、反論します。

私はゲーム世代といわれる人間の一人です。

もっとも、私はゲームが苦手だったので、ゲームでは遊びませんでしたが、それほど屋外でも遊ばなかったし、泥遊びもしなかった。

酷暑の夏や、極寒の冬に、外を走り回るなどという、(子供心にも馬鹿げたと思う)行為もしなかった。

野原を駆け回ることもしなければ、虫を手で掴むこともしなかった。

で、その結果として、私は、一体何を失い、何に困っているのでしょうか。

別段、何も失っておらず、困っていることもありません。

子供時代に、外で走り回らなくても、泥だらけにならなくても、結局私たちは、大人になれば、経済や市場が要求する場所に配置され、その場所に応じた労働を提供することになるだけです。

----

パソコンごときで、子供の人格形成が影響されると思っている人は、多分、パソコンときちんと向きあったことがないのでは、と思っています。

子供達にとって、パソコンの操作など、エレベータのボタンを押す程度のものです。

その程度のものが、人格に影響を与えるはずがありません。

パソコンごときに恐怖している大人達は、子供にその誤った脅迫観念を押しつけるのではなく、隅の方で黙って蹲(うずく)まっているのが、妥当な対応です。

『あの子達は、パソコンを操作しているのではなく、電卓を叩いているだけなのだ』、と自分自身に言い聞かせながら。

----

ただ、この理屈は、少々、公平に欠けるかな、とは感じています。

私は、その気になれば、いつでも、

■子供達のパソコンの内容を破壊し、
■通信障害を発生させ、
■スマホの通話を妨害する

ことができます。

要するに「エロ本を取り上げる保護者」のITバージョンです。

このような「エロ本を力づくで取り上げる」手段を持たない保護者のイライラは、心情として理解できます。

とすると、我々IT研究者の次の市場は、

○保護者向けの、子供の通信内容の盗聴手段
○保護者による、子供の電話の妨害手段

といったところでしょうか。

うむ。これは需要がありそうだ。

早速、ビジネスモデルを組み立てて、市場規模を調べてみることにします。
2012年 07月 30日
女性性善説
昨日記載した、

『「週末」と「夜間」は、無理してクーラの使用を差し控えなくても大丈夫』

の理屈ですが、ここから「裏」が取れると思います。

==========
東京電力「でんき予報」 最大電力実績カレンダー
http://www.tepco.co.jp/forecast/html/calendar-j.html
==========

現在、90%を上限に電力量の消費を押えています。

日本の皆さんは立派だと思います。

本当のデッドラインは97%dと言われています。

一つの発電所が、大体3%を担当しており、そこれが、ダウンすると、もう「後がない」という状態になるからです。

-----

話は飛びますが、97%で思い出しました。

ホームレスの方の97%が男性だそうです。

また、死刑囚の93%も男性だそうです。

今、私は、この情報のソースや、理由について、敢えて調べていません。

率直に、自分なりの頭で、その理由も考えてみたいと思っていまして。

-----

話をもう一つ、飛ばしてみます。

米国に赴任していた時に、フロリダのディズニーランドに行ってきたことがあります。

そこで、嫁さんが娘(当時2歳)を気にして、うかつにも、財布の入ったバッグを、女性トイレに置き忘れてきました。

直ぐにトイレに戻ったところ、バッグは残っていたのですが、サイフが取られていました。

(その後、様々な悲惨な目にあったのですが、今回はその話は割愛します)

この話を、嫁さんが、実家のお義母さんに話をしたところ、

『女性でもそういうことをする人がいるのねえ』と言われたとのこと。

私は、その時、一瞬「あれ?」と妙な違和感を感じたのですが、今日までそのことを忘れていました。

-----

つまり、上記のコメントの中には、

「女性は、生れながらにして、その特性が『善』である」

という、「女性(のみ)性善説」を含んでいた、と思うのです。

「性善説」「性悪説」については、私はこれまで色々語っていますので、本日はその話は割愛します。

しかし、少なくとも「性善/性悪」をSEX(性)で区別する、という考え方は

―― 明文化されていないが、暗黙知的には、存在していたような気がする

のです。

そこで、(特に)女性の方に対して、質問なのですが、「女性性善説」という考え方は、もしかしたら、「女性」の間では一般的だったりするのでしょうか。

-----

というのはですね。

◯「悪女」という言葉はあるが「悪男」という言葉はない(「醜男」はあるが)

これは、「女性性善説」が成立するが故に、そのアンチテーゼとして「悪女」という用語が出てくると考えられるからです。

また、上述したように、死刑囚は、(冤罪を除けば)、極刑を課せられる程の「悪」を行なった訳ですが、その女性の死刑囚は僅かに"7%"。

人口比率からいっても不自然です。

-----

一方、生物学的(遺伝子学的)な戦略からは、あまり不自然ではないような気もします。

男は種を落したら、任務終了。あとは、男が、どこでのたれ死のうが知ったことではありません。

女は、新規の生命を創成するという任務、そして、それを育成する任務が課されています(生物学的に、という事ですよ。ここで「イクメン」とか言う言葉遊びは除外、とします)。

「悪」を実施することで、生存を危ぶまれる状況になることは、忌避(きひ)されるべきだし、社会も(無意識に)そのように働いているのかもしれません。

-----

と言う訳で、「女性性善説」について、ちょっと皆さんの意見を教えて下さい。

勿論、「正解」を求めているのではありません。

むしろ、面白い論理付けができたら、私の担当している連載でパクりたいなぁ、と、姑息で卑怯なことを考えているんです。

いえいえ、ちゃんと出展は明らかにしますよ。

ほら、諺(ことわざ)にもあるじゃないですか。

「卑怯の中にも、礼儀あり」って。
http://www.tepco.co.jp/forecast/html/calendar-j.html
2012年 07月 29日
ビールの季節です
この夏は殺人的な暑さです。

昨年から申し上げている通り、節電の第一義は「ブラックアウト(大停電)」の回避です。

基本的に、週末は電力に余裕があります。企業、官公庁が休日となるからです。

また、夜間も余裕があります。工場などの電力の使用がなくなるからです。

ですから、

『「週末」と「夜間」は、無理してクーラの使用を差し控えなくても大丈夫』

工夫で凌ぎましょう。

我が家の場合、家族を私の部屋(6畳)に全員をつっこんで、過させています。

夜も、一つの寝室に全員を集合して、4人がザコ寝。

「デフォルト29度設定 + (必要に応じて)扇風機使用 」

「同時に2つのクーラを使用しない」

をルールにして、無理なく、この酷暑を過しています。

-----

さて、夏と言えば、ビールが美味しいですよね。

私も自分で作るくらいビールが大好きなのですが(ここ十数年は作っていませんが)、嫁さんの実家は、全員が下戸という家でした。

# 参考文献「やさしいお酒の作り方」(リンク御参照)

ですので、初めて、嫁さんの実家に伺った時に、ビール瓶が1本だけ、ポツンと食卓に置かれていた時は、

「これは、『お前は、帰れ』と言われているのか」

と、不安になったものです。

勿論、誤解だったのですが。

-----

まったくお酒を飲めない人は、その酒の常識的な量が分からないらしいのです。

嫁さんのお義母さんは、生れて初めて購入するビールに、隨分迷った上げく、その一本を選んだそうです。

下戸の人にとって、「ビール」「日本酒」「ウイスキー」のいずれのお酒であっても、

「一本」

という単位でしから、アルコール飲料を理解できない。

瓶ビール一本は、633ccあります。

これは牛乳パック1本分弱。

このような容量を水分を一人で飲みきる、ということを、お義母さんは理解できなかったようです。

多分、これ以上飲んだら「溺れてしまう」と心配したのかもしれませんし、「ビールが残ったら、捨てなれけばならない」と心配したのかもしれません。

# ご存知の通り、ビール直ちに体内に吸収されて、小便として排出されます。

# そうでなければ、ジョッキビール2杯で、全員「溺死」です。

-----

まあ、なんというか、「各家庭の文化の違い」というものも、この程度の内容なら、面白いものです。
http://www.kobore.net/tex/alone93/node37.html
2012年 07月 28日
老いしエンジニアへのエール〜退社前10年間を生き残る、戦略としての「老獪(ろうかい)」
この度、

「英語に愛されないエンジニア」のための新行動論 ―番外編―:
若きエンジニアへのエール〜入社後5年間を生き残る、戦略としての「誠実」

という内容のコラムを寄稿させて頂きました。

しかし、よくよく考えれば、この文章より、私が書いて相応しいのは、

『老いしエンジニアへのエール〜退社前10年間を生き残る、戦略としての「老獪(ろうかい)」 』

だと思います。

お呼び頂ければ、どこにでも書きます。ご用命下さい。

それはさておき。

-----

歳をとったエンジニアというは、まさに私がそのまっただ中にいるのですが、これまた生存戦略が難しいです。

しかし、悪いことばかりではありません。

それはですね。

後僚の技術の説明に対して、

「分からない」

と言っても、叱る人が「少ない」か、または「いない」ということです。

若い頃は、「分からない」なんて言おうものなら、そりゃもう、鬼のように叱られたものです。

『勉強不足』『プロとしての自覚なし』『その程度の知識は常識』『計算もできないのか』『トレンド知らずして技術を語るな』・・etc.etc.....

-----

先輩に対して不要な敬意を払う必要は全くありませんが、我が国においては、入社年度の早い先輩に対して、このような罵倒をすることは、

―― 大変難しい。

ビバ! 日本文化!!

私が退社するまで、この風習だけは残って欲しい。

「分からない」と堂々と言えることだけでも、エンジニアにとって、歳を取ることって、本当に素晴しいんですよ。

勿論、私の回りの後僚達が、心底困っているし、本当に怒っていることは、よーく知っていますが、

―― 諦めて貰っています。
http://eetimes.jp/ee/articles/1207/26/news006.html
2012年 07月 27日
「鉄」になりたい
先日、電車の中で、赤ちゃんを抱えたお母さんに、鉄道ついて一方的に喋っているお兄さんがいました。

このお兄さんは、いわゆる

http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20120705

に記載した「挙動が予測不能な人」とお見うけしました。

赤ちゃんを抱えたお母さんは、困惑したようにお兄さんの話に相槌をうっていましたが、まあ、それほど困った風でもなかったようですし(次の駅が終点だったですし)、

なにより、

「私がその『お兄さん』の話を聞きたかった」

ので、そのまま立ち聞きしていました。

-----

その「お兄さん」の話が、鉄道の運行管理システムについてしゃべりだしていたのですが、それを聞いている内に、

『兄ちゃん、それは違うぞ』

と突っ込みそうになりました。

『この鉄道会社は、運行管理に分散管理システムを使っていない。CTC(Centralized Traffic Control,集中制御システム)方式のハズだ』

と、危うく、会話に乱入してしまうところでした。

-----

とは言っても、私が知っているのは、列車運行管理システムのごく一部。しかも業務で覚えたくらいです。

この程度の知識しかない私が、鉄道の仕事に関わっていることは、本当に「鉄(鉄道ファン)のかた(の中でも、特に運行管理システムマニアのかた)」に申し訳ない気持ちがしています。

きっと、運行管理に興味のある「鉄の人」であれば、私の仕事を、『タダでもいいから、関わらせてくれ』とおっしゃるくらい、興味があると思うのですよ。

せめて鉄道ファンの方に負けない位の熱意で、仕事しなければなあ、と思っています。

それはさておき。

-----

あるシステムの仕事をする場合、そのシステムを心底「愛せるか」どうか、が仕事の成否の分かれ目という気がします。

愛せれば「何もかも知りたい」と思うし、愛せなければ「命じられた技術範囲の課題だけを、そつなくこなせば良い」と思う。

では、この観点から私の過去の仕事を検証してみましょう。

「GPS」→愛せたと思う。今でもGPSからの測位メッセージを聞き分けられる。

「無線ネットワーク」→どうかな? 自宅の庭にイーサネット敷設しているくらいだし。

「エンジン制御」→期間が短かかったしなぁ。シミュレーションだけの仕事だったし。

「サンマとサバ」→たぶん心から愛せたと思う。今も、この2つの魚、大好きです。
http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20120705
2012年 07月 26日
読書感想文に関する思い出
小学生の私は、夏休みの宿題の「読書感想文」という宿題が、非常に憂鬱(ゆううつ)であったことを覚えています。

あれは、見方によっては「虐待」であるとさえ言えると思います。

第一に、文字だけの羅列を100ページ以上も、目でトレースさせられるという虐待。

第二に、そのトレースされた文字列の羅列に対して、感想を強要されるという虐待。

極端な比喩で言えば、「コンピュータのバイナリ列(0110101101010・・・)を眺めて、どんな感想を言えというのか」という感じでした。

子供心に『主人公が、どういう気持ちになろうが、知ったことか』と思っていました。

それでも何か書かなくてはならない。

そこで、

『主人公は、とても強い人だと思います。(中略)。私も主人公のような人間になりたいと思います』

などと、心にも思っていないような感想文を、書かなければならなかったことは、今でも、私のトラウマになっております。

子供心に、自分の意図に反したものを書き、権威に屈したという気持ちがあり、今でも本当に悔しい。

これは虐待によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)ではないかと。

-----

文部省(現 文部科学省)の推薦図書、という制度にも疑問を感じていました。

さすがに小学生で、「国家による子供の洗脳教育」などという、ひねくれた考えはしませんでしたけど。

それでも『あんたが、推薦する本なんて読んでたまるか』という気持ちで、一人、別の本を選んで読んでいました。

# もっとも、文部省の推薦図書というのは、確かに、面白い本だったのですが。

-----

この読書感想文という宿題、なんとかならんもんでしょうか。

その辺のおっさんを適当に掴まえて、「このおじさんのこと、どう思う?」と尋ねるような、どうも奇妙な感じがするんですよ。

また、原稿用紙2枚以上とかいう指定も、なんか嫌らしい。

文章を書く能力は、ほっといて育つものではない、というところまでは同意できるのですが、読書感想文を原稿用紙2枚以上、というのは、結構な「虐待」だと思うんですよ。

『2ページまで読んだ。主人公の名前が気にいらないので、読むのを止めた』

『5ページまで読んだ。『ドラゴンボール』のような楽しさがないので、読むのを止めた』

という、「読書」の「感想」を書かせる、ということなら ――

-----

まあ、教育現場が、このような感想文を受理できない、というのも分かるのですけどね。
2012年 07月 25日
「ちゃんと調べてから質問しろ」という書き込みの精神構造
「ちゃんと調べてから質問しろ」

という内容の書き込みは、結構見ます。

しかし、あれって一体なんでしょうかね。

そんなもん、

「ちゃんと調べるのが面倒だから、質問している」

「最短時間で質問に対する直接の回答が欲しいから、質問している」

に決まっているじゃないですか。

-----

「ちゃんと調べてからでないと、質問すべきでない」という変な思い込みをしている奴は、昔からいました。

昔は、その理由付けとして、「無駄なメッセージによってサーバの負荷を与えてはならない」という、正当(と見えるような)理由は、一応あったのです。

画像や映像やつぶやきが、日常的にバンバンアップされている今からは信じられないことだと思います。

当時のネット接続とは、電話回線や狭帯域の専用線で接続されて、全てのメッセージが一度、1つのセンタサーバに集められてから、再度、分配されるという通信をしていたのです。

こうなってくると、「真に有用なメッセージ」という観念が登場せざるを得ません。

そして「有用とは何か」という、誠に下らない議論の応酬メッセージが、逆にセンタサーバを含むシステム全体を圧迫するという、誠に馬鹿げたことが実施されていた訳です。

それはさておき。

-----

「ちゃんと調べてから質問しろ」

という、情報量ゼロの内容を書き込んでまでも、

「私は不愉快である」

ことを、公に表明するとは、どういうことなのかと考えてみました。

-----

その前に、一つの実施例を紹介します。

昔、コンピュータによる積分計算方法において、論理値と計算値が一致しないという質問をした人がいました。

それに対して、私は「ああ、『丸め誤差』のことだな」と思って読んでいましたが、それに対して、なんと30以上もの回答があり、

◯丸め誤差くらい、ちゃんと調べてこい。

◯この程度の初歩的なことも分からないなら、コンピュータを使うな

◯FAQ(Frequently Asked Questionsの略語で「頻繁に尋ねられる質問」)だ、素人め。

という回答でぎっちり。

質問者は、さぞびっくりしたことでしょう。

なんで、疑問に思ったことを質問しただけで、こんな罵倒を受けなければならないのか、不思議であっただろうし、質問者は隨分傷ついたことでしょう。

なんであれ、初歩的な質問が出てくると、嬉々として「鬼の首を取った」かのように、このような罵倒回答をする奴の、歪(ひず)んだ精神構造が、私にはさっぱり分からん。

-----

私が思いついた、この「精神構造」の一つの仮説は、

『このような厳しい言葉を浴びせることで、質問者はより成長していくのだ』

とかいう、上から目線の教育論もどきの理屈です。

残念ながら、私には、この理由以外は思いつきませんでした。

もしそういう理屈で、「ちゃんと調べてから質問しろ」と書きこみしている人がいるのであれば、言わせて頂きます。

<ここから>

思い上がるなよ、阿呆が。

人より多くの知識があるなら、何も言わずに、ただ教えてやれば、それでいいじゃねーか。

それが面倒なら、放っておけばよかろうが。

その程度のチンケな知識で、人に下らない説教して、優越感にひたっているんじゃねーよ、馬鹿野郎めが。

<ここまで>
2012年 07月 24日
指名制に関する考察
誰も私を「キャバクラ」へも「メイド喫茶」へも連れていってくれません。

「『江端が怒り出す』と思うから」という理由なのだそうです(以前も書きましたが)。

私にはよく分かりませんが。

-----

「キャバクラ」とは何かを調べてみました。

◯「キャバクラ」は、日本人特有の和製英語で、「キャバレー」と「クラブ」の合成用語

◯歌や踊りのショーを見ながら、お気に入りの女性(ホステスさん)と会話やダンスを楽しむことが発祥で、クラブほどは高くないが、気軽に若い女の子と会話が出来るという、接待サービスの一態様。

◯料金の単位は「1人・時間」

次に料金の相場を調べてみました。

◯基本的に60分5千円で、延長が可能(自動延長もあり)。但し、飲食料金を含まない。楽しく酔っ払って気付くと4時間経っていて、伝票を見ると「3万2000円」ということもある。

◯「事後一斉清算」と「前払い」の2種類もある。当然、店側から見えれば前者が望ましい。

◯「7時〜8時4000円/8時〜9時5000円/9時以降6000円」くらい。

◯実施例

午後9時から2時間飲んだ場合

基本料金:6000円として2時間で1万2000円

指名料:2000円として2時間で4000円

女の子へのおごり:1000円の飲料を2杯 2000円
--------------------------------------
総計 1万8000円

ここにTAXが加わって、ざっくり 2万円

-----

インモラルな行為もなく、ただ会話をするだけで2万円。

他のサラリーマンは、私とは別口の給料が支払われているのだろうか。

そして、そこでは、一体どんな凄い話術が展開されているのか。

NHKでやっている「日本の話芸」に匹敵するクオリティなのだろうか。

私が、『制御システムのリアルタイム性能』についての話題を振っても、ついてきてくれるんだろうか。

もしかしたら、私が見落しているサブシステムの性能についても、指摘してくれるのかもしれない。

とすれば、「2万円」は、決して高くない。

-----

なんで、私が、キャバクラについて調べているかというと、先日の打ち合わせで、

「次回の定例報告の資料作成については、作成者とて江端を『指名』する」という偉い方の指示があったことに起因します。

「指名された私には、一体いくらの「価値」があるんだろう」と考えたのですが、よく分かりません。

そこで、ケーススタディでアプローチしてみることにしました。

そもそも「指名」という「価値」が、一般的に使われている世界はどこだ。

そういえば、「キャバクラ」と称呼される遊興システムに、「ユウコさーん。1番テーブル御指名でーす」というセリフがあったような気がする。

とりあえず、その世界から調べれば、何か分かるかもしれない。

―― と、まあ、そういう経緯に因る訳です。

-----

でも、キャバクラの指名料って、1時間2000円程度なんですね。

これなら、多分私の方が高い。

# 根拠はないけど、そうとでも思わないと、仕事なんぞやっていられない。
2012年 07月 23日
油絵とペイントツール
絵画というのは、その作者の思想又は感情を、創作的に表現したものであって、視覚を通じて認識されるもの、と定義できると思います。

で、あるとすれば、その創作的表現の方法が、油性の顔料を使おうとも、パソコンのツールを使おうとも、そこに差ははいはずだと思っています。

どちらも等しく、創作的価値があり人に感動を与えるものである、と思うのです。

-----

これまでも、何度も、娘に、パソコンのドローツールを使ったイラストの作成を依頼しています。

そして、そのドローツールは恐しく使い難い反面、凄い表現手段を持っていることが分ってきました。

単なる線画だけでなく、風景画や抽象画なども作成することができて、そして、プロが使うような各種の画技を持っていることも分ってきました。

私が、マニュアルの指示通りに操作するだけで、私が生れて一度も書いたことのない、見事な水彩画風のサンプル絵が完成した時は、目を疑いました。

「自分の想定する表現を超えて、作画ができる」というのは、このようなドローソフトは勿論、プレゼンテーションソフト(パワーポイント等)でも、よく見られます。

また、ワープロソフトに至っては、手紙の挨拶の例文まで完璧に揃っており、記載する内容さえちゃんと理解していれば、それなりの体裁の文章など、あっという間につくらてしまいます。

そもそも、私がこの文章を記載しているテキストエディタがなければ、私の中から文章が生まれてくることもなかったと断言できます。

-----

万年筆で記載された原稿が、ワープロで作成された原稿より優れているということはないでしょう。第一、本になるときに活字になっていますからね。

釜と薪の火で作った御飯が、電子ジャーで作った御飯に及ばないということはもうないようです。今、徹底的な解析によって、全く同じプロセスを再現して、同品質の御飯が作れるようになってきています。

-----

では、キャンパスに描かれた手書きの絵画と、ドローソフトの絵画ではどうだろうか?

ここに創作的価値に差異はあるのだろうか。

私は悩んでいます。

-----

と、このような大層なテーゼを提示しているのは、哲学的な観点ではなくて、娘に画材を購入してやるべきかどうか、を迷っているからなのです。

上の娘(中学生)は、仕事を理由に徹底的にドローソフトを使わせてきた結果、結構な使い手となっています。

彼女は、まず白い紙に鉛筆で絵を書いて、スキャナで取り込み、それを叩き台として、ドローパッドを使って線図を作成、着色を行い、イラストを完成させます。

そのまま編集部に直接メールで納品できるというメリットもありますが、それ以上に、

「部屋が汚れない」

カンバスや絵の具は全く不要。パソコンだけあれば、どこでも作成可。

これは、保護者としては大変助かります。

-----

下の娘(小学生)も、自分で短編の少女マンガを書いているので、私は、上の娘と同様に、「コミック作成ソフト」を勧めたのですが、全く使っていません。

なんで使わないのか、と尋ねたら「操作が難しい」と言われました。

これは全くその通りで、「操作」の為に「創作意欲」が減退しているのだとしたら、本末転倒です。

そもそもパソコンの操作は、絵を描くという行為に対して、直感的ではありません。なんと言うか、「1アクション、無駄が生じる」というか。

例えば、筆の太さや、色彩の濃厚を変化させるのに、いちいち操作画面を指示しなければならないというのは、創作の邪魔になっているように思えるのです。

-----

纏めると、私が悩んでいることは、3つです。

(1)下の娘には、ちゃんとした画材(Gペン?よく知りませんが)を与えて、絵を描かせた方が良いのかどうか

(2)あるいは、徹底的にドローソフトを使いこなせるように、バシバシと鍛えて、パソコンの操作、創作の一部として体に沁み込ませるようにすべきかどうか。

(3)仮にパソコンでの絵画を普通に扱えるようになった時、油絵等の絵画へ戻ることは可能か。


父親がIT関連の仕事についているばっかりに、子供達の潜在的な能力が、パソコンによって破壊されていることがないだろうか、ということが、目下の私の心配事項です。

-----

で、多分、そんな心配をする程には、私達の娘には才能はない、というオチに落ちそうではあるのですが。
2012年 07月 22日
読書家判別方法
本を読んでいる人かどうかを見破る、簡単な方法があります。

「○○○○作品全集」 (○○○○は、有名な文豪)

「△△社 総合百科事典」

てなものが、ガラスの扉のついた本箱に飾ってあれば、確実にダウト。

-----

本当に本を読む人は、そんなもの購入しません。

そもそも文豪が書いた本の全てが、面白いはずがありません。

「文豪の著書の9割はクズ」というのが私の持論で、そのような本は、概ねゴミ箱行きです。

占拠される空間(本棚)がもったいないし、必要なら図書館で「待たずに」借りられるし。

また、インターネットの検索エンジンがあるこの時代に、百科事典なんぞクソ重い本を飾る意味もありませんし。

娘が持っている電子辞書ですら、辞書15冊分がすでに入っています。

-----

昔は、書籍を本棚に飾ることで、自分を知的に見せることができた時代があったのかもしれません。

もし、自分を知的に見せることができたなら、それは「全集」に投資する価値はあったのでしょう。

が、今、それやったら、あきまへんですよ。おじ(い)さん。

自分の「無知」を証明することになるだけでなく、「ITリテラシー」ゼロを宣言するようなものです。

-----

私が大学に入学した時に、パソコン(ノートPCじゃなくて、タワーPC)サイズの、英和・和英辞書を贈ってきた親戚がいました。

# いや、本当にあるんです。そういう辞書。

私がその時思ったことは、

―― そっかー、この人、ただの一度も真面目に英語の勉強したことないんだーー

ということでした。

こんな辞書を使う奴が、一体、世界のどこにいるか。

これは、辞書でなく装飾用家具の一部です。しかも、虚構の自分を飾る為の下品なツール。

口では御礼を言いながら、私は頭の中で、そのタワーPC・・じゃない、クソ重い英語辞書をどこに捨てようかと思いを巡らせていました。

-----

さて、我が家の実家には、こういう「全集」が、何シリーズかあります。

40年の時を経て、初めて開帳される本。旧字体で読みにくいったりゃない。

帰省する度に、私が風呂の中で読んでいますが、前回の帰省では、森鴎外と芥川を、風呂の中に落しました。

わざと落した訳ではありませんが、少し、いい気味・・もとい、いい気分でした。
2012年 07月 21日
「できないのか?」に対する対応方法
私は人に「嫌われているかどうか」について、あまり興味がありません。

これまで他人に好かれるような努力をしていなかった訳ではりませんが、結婚と同時にこの努力は停止しました。

自分の味方は「一人いれば十分」であると悟ったからです。

-----

しかし、「無能と思われているかもしれないことには我慢ができない」性格です。

とくに、

「できないのか?」

と言われると、その音声が大脳に届く前に、脊髄反射で

「できます」

と、応えてします。

この、身体的障害で、これまで随分損をしてきたように思います。

-----

これはいかん。「カイゼン」を考えてみたいと思います。

○「できないのか?」→「できません」

これは、本当にできない場合には構わないのですが、別の理由があって、こう応えるのは、どうにも私が愉快ではありません。

○「できないのか?」→「できるのですけど、(色々な沢山の理由を説明した後)、できません」

駄目だ。こういう体系だった説明ができるくらいなら、もっと世渡りは上手く、出世もできていたであろう。

○「できないのか?」→「やりたくありません」

うん。これだな。

これは質問に答えていないと言う点でも良く、また、真実(「やりたくない」)であるという点でも更に良い。

さらにバージョンアップ。

「私の為(利益)にならないので、やりたくありません」

究極のパターン。

「あなたの利益になるくらいなら、やりたくありません」

-----

え? 何があったかって?

当然ですが、私にも不愉快な日はあるんです。

そういうことです。
2012年 07月 20日
カンズメ
私は自分の文章のイラスト(アイコン)の作成を、中学生の娘に依頼しております。

もちろんイラストの質としては、世間の水準以前です。

しかし、私の考えるコンセプトをそのまま絵として落すことができて、かつ、必要な時に発注できるのは、現在、この娘だけで、大変重宝しております。

もちろん、対価を支払って雇用していますので、クライアント(私)のO.K.がでるまでは、何度も書き直しを命じます。

-----

しかし、さすがは中学生。

スケジュール管理が全然できないし、納品日を簡単に忘れるし、パソコンの操作が分からんことを、パソコンのせいにする。

プロであれば、即刻解雇という場面が何度も登場したのですが、それでも、私が解雇できないのは、私がイラストを書く能力を持たないからです。

私の言葉が、同時通訳的に、娘のエンピツの先の紙の上に現われてくるのは、本当に「魔法」のようです。

私を逆さに振ったって、このような能力は出てこない。

こういうのを「才能」というんだろうなぁ、と、ちょっと嫉妬したりします。

-----

今回、仕事が増えて、一回1枚の絵が、4枚に増えることになり、当初、娘は月収が4倍になることを随分喜んでいました。

友達との遊興費(カラオケで遊ぶ金)は、この「イラスト収入」にかかっているらしくて、私の連載が打ち切りになることを、本当に恐れているようです。

中学生のくせに、すでに、下請けの零細企業の町工場の社長のようです。

ところが、1枚→4枚というのは、想像を絶する厳しさだったようで、進捗が捗々(はかばか)しくありません。

そこで、私は、日曜日の夜、娘をファミリーレストランに連れ出して、そこで、イラストの下絵を書かせ続けました。

いわゆる「カンズメ」というやつです。

2時間くらいの仕事で、娘が意識が混濁してきているのが分ったので、予定のノルマを達成できないまま、ファミレスを後にしました。

-----

私:「それにしても2時間でギブアップか。演劇部の部員が、その程度の集中力でいいのか」

娘:「あのね! 何かを新しく創るっていうのはね、普通でない体力がいるんだよ!!」

その通り。

そこに気がつくことができたのであれば、このイラストの仕事は、金銭以上のメリットがあったのだと、娘もいつか気がつくことでしょう。

-----

娘:「隣の家族、私達のことを変は目で見ていたね」

私は、娘のモデルとなる為に、ファミレスの中で立ち上がり、歩き回り、人物のポーズ(後ろを振り向く、足を組み換える、必要に応じて大きい声でセリフを言うなど)を取っていました。

私:「仕事だ。仕事とは、人の目を気にしていてはならないのだ。特に創作に関わる者にとっては」

と、極めつけました。
2012年 07月 19日
「体育会系」という不名誉
誓って言いますが、一部の例外を除いて、私はスポーツ全般が嫌いです。

勿論、これは幼少のころからの運動音痴であったことが原因です。

そもそも、「走る」「飛ぶ」「泳ぐ」という行為の代替として、人類は、技術や文化を獲得してきたのです。

それに逆行するオリンピックは「野蛮行為の世界祭典である」と私はここに断言したい。

-----

先日、家族で市民プールにいってきました。

大変な混雑だったので、娘二人を、競泳用コース(片道50メートル)に放り込んで、合計1000メートル程度、泳がせていました。

このコースは、ゆっくり泳ぐのはO.K.なのですが、途中で立つことが禁じられています。

勿論、運動音痴の私は、娘達に指導するスキルもないので、私も娘達といっしょにダラダラと1km程度を、平泳ぎで流していました。

嫁さんは、片道25メートルのプールでクロールの練習をしていましたが、酸欠でチアノーゼ(顔色が青紫)の初期症状が現わていました。

-----

帰りの車の中で、家族全員がグッタリしているので、「どうしたのか」と尋ねると、

―― なぜ我が家は、いつもこのように「体育会系」のノリになるのか ――

とクレームを言われてしまいました。

スポーツ全般が嫌いな私にとって「体育会系」とは、まさに真逆の評価。

これを受けいれることはできません。

誓って、私は、娘たちや嫁さんに、何かをやれと命じたことはありません。

ましてや叱ったことなど絶対になく、常に「泳ぎ方」を褒めて、楽しく行えるように雰囲気作りに余念がありません。

さらに追い打ちをかけるかのように、

―― スキーもそうだよねえ。一日中、コースをくるくると回り、時々、上級者コースに皆を連れていくしね ―― と。

心外です。

私はいつだって、「そろそろ、このコースも飽きてきただろう。別のコースでも、試してみるか」と、絶妙なタイミングで尋ねています。

家族の一人でも、嫌だと言えば、決してそのようなコースに連れていったことはありません。

そのスポーツが嫌いにならないよう、それほど私が心を砕いていることか。

それは、私を徹底的な運動嫌いさせた、筋肉脳味噌のアホ体育教師や馬鹿部活先輩への恩讐を、私の世代で叩き切ろうとしているからです。

スポーツは無理なく、楽しく、できなければ、できないで良い。

これが私のモットーです。

-----

待てよ。

もしかして、この思考体系自体に問題があるのだろうか。

○プール → 泳ぐところ → 故に泳ぐ

○ゲレンデ → 滑るところ → 故に滑る

私の行動原理は、この程度の簡単な三段論法で成立しています。

ところが、結婚前、嫁さんのOL時代のスキーは、

(Step.1)「ゲレンデを2回だけ滑る。あとの時間はお茶して過す」

を基本としていたらしいです。

比して、私の場合

(Step.1)「リフトが動く前から並ぶ」

(Step.2)「リフトが停まる時間になると、最後の一本を滑るために、全速力でゲレンデを駆け抜ける」

(Step.3)「その日の滑りに満足できなかった場合は、ナイターゲレンデにも飛び出す」

うーむ、何かが根本的に違うように思える。

-----

繰り返しになりますが、私はスポーツが嫌いです。

特に、

「スポーツが人間性を高める」だの、

「スポーツが人格形成に資する」だの、

などという言葉が、嘔吐(へど)が出るほど嫌いです。

明かに嘘だからです。

科学的根拠も統計値もないのに、思い込みだけでこういう発言ができるということ自体が、「頭の悪さ」を物語っていると言えましょう。

「体育会系」という単語には、

○上位下達の命令形態を当然として、

○それに対してに正しい疑問をもって対峙するすることができない(か、そのような思考を徹底的に壊されている)

○体制側に与するよう大量生産された、思考停止型人間の製造装置

という意味があると確信しています。

ですから、

―― なぜ我が家は、いつもこのように「体育会系」のノリになるのか ――

という家族の問いは、私のアイデンティティを崩壊させるに十分なフレーズなのです。

-----

この夏と冬に、この問題と対峙して「江端家 = 体育会系」という、この不名誉な称呼から脱却してみせます。

私はここに皆さんにお約束致します。
2012年 07月 18日
「祈り」
この町がかつて 燃え尽きた季節に

私達は誓った 繰りかえすまじと

生命を心を 奪い去ってゆく

ちからも言い訳も 総て許せない

私は祈る以外に 知恵も力も 持たないけれど

短い花の生命を ささやかなこの愛で染めたい

(「祈り」さだまさし)

-----

このHDDがかつて クラッシュした季節に

私は誓った 繰りかえすまじと

メールも業務も 奪い去ってゆく

MBRもシークエラーも総て許せない

私はバックアップ以外に 知恵も力も 持たないけれど

短いHDDの生命を ささやかなこの「技」で染めたい

(「祈り」江端智一)

-----

だから、パソコンの監査なんか止めて欲しいんですよ。

ちょっと、高度(カルト)なセキュリティ設定すると、すぐにシステムクラッシュさせてしまうのです。

そして、今回に限って、「HDDフルバックアップ」を忘て作業開始してしまったし。

この激務の中、システム復旧に使ったこの3時間は、涙が出るほど辛い。
2012年 07月 17日
「原発デモ」の対応方法(続き)
「原発デモ」は、現時点において、平和的かつ理性的に実施されていると思います。

そこで、政府側の「原発デモ」の対応方法の方法として、

『中央制御室を完全開放する』

というのはどうでしょうか。

要するに、誰でも原発の心臓部に入ってこれるようにする、ということです。

但し「原子炉が臨界の状態に達した後」に完全開放します。

狙いは明快。

―― さあ、これらの制御装置盤を壊してみろ。もう誰にも止められないぞ。

-----

「原発デモ」ではなく「原発テロ」を画策している奴は必ずいるハズです。

ですから、間違っても、政府や電力会社が、中央制御室を公開することはないでしょう。

しかし、今回の福島原発事故で、原発テロが、管制塔の占拠や、通信ケーブルの切断よりも、はるかに簡単であることは、はっきりしています。

-----

これまで、「原発テロ」が日本において実施されなかったのは、

―― そのテロの結果から導かれる恐怖が、テロリストとテロリストでない人々との間でも、共有されていたから

と考えるのは、甘いかな。
http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20110329
2012年 07月 16日
「原発デモ」の対応方法
昨日の日記は、「原発デモ」の対応方法を、政府側から記載するつもりで、全然違う結論になってしまいました。

私が書きたかったのは、原発デモではなく、原発テロの話でした。

-----

話は変わりますが、昭和の日本を回顧する映画やドラマが増えておりますが、はっきり言って、「昭和」という時代は、結構、嫌な時代でしたよ。

テロ事件が多い時代でした。

1978年に発生した、成田空港の管制塔の占拠事件は、事実上、ゲリラ側の勝利でした。

成田空港の開港が2ヶ月延期させることになり、少なくとも日本国政府の面子は、国際的に丸潰れになりました。

また、1985に、東京周辺や京阪神の日本国有鉄道(国鉄)の鉄道施設に対してほぼ同時多発的に起きた、過激派によるゲリラ(テロ)事件、「国電同時多発ゲリラ事件」も、テロ側の完全な勝利と言わざるを得ません。

首都圏や大阪地区、22線区の線路の通信・信号用ケーブルが合計33カ所にわたって切断され、首都圏および大阪の全線を丸1日完全に停止させました。

-----

この2つのテロ事件に関しては、よく覚えているのです。

なぜこの2つなのかなぁ、と考えてみたら、両方とも「制御システム」への攻撃だったことが共通します。

まずこのテロの共通点は、少なくとも、

(1)「民間人に対する攻撃(死傷を目的とする爆弾テロ等)を目的としていない」

(2)「システムの懦弱(だじゃく)なポイントを緻密かつ正確に攻撃している」

という点が挙げられます。

私が、図らずも「制御システム」の研究に携わっているのは、このような事件への影響があったのかもしれません。

-----

社内において、初期の検討仕様の段階で、

「テロへの対応」

をいう目次を設ける人間は、私の知っている限り、私だけです。

-----

# あれ、今日も別の話になってしまった。
2012年 07月 15日
家計簿感覚のエネルギー試算
国会議事堂周辺前の、原発デモの参加人数が、1万人(警察発表)〜15万人(主催者発表)だそうです。

ずいぶん幅があるのとは言え、例え、1万人であったとしても近年稀に見る規模の大きさです。

まあ、当然でしょうね。

燃えさかっている工場の消火作業が終わらない内に、別の工場を動かすというのは、どう考えても、人道に反しています。

もっとも鎮火に数十年がかかり、廃棄物の毒性が消えるのものには数万年かかるものがあるという、この特殊な工場の取扱は、難しいものがあります。

我々はこの問題に、真摯に対応していかなければならないであろう。

―― というような、朝日新聞のような書き方はやめよう。

-----

江端のスタンスを表明します。

(1)原発再稼働を容認する。

但し、

(a)半径20〜30km範囲の地元住民の過半数賛同を前提とする。その地域が死滅するリスクを追うのは地元住民だから。
ちなみに、どんなストレステストしていても、隣国からミサイルか空爆でピンポイント攻撃されたら終りです。

(b)政府による株式保有のない、海外の保険会社による保険契約の成立を前提とする。

(c)事故を前提とした避難訓練を義務化する。

(2)原発新設は容認しない

(a)これで、最長40年後には、日本中の原発は全部停止する。

(3)政府による代替エネルギーの変換へのマイルストーン提示

(a)どのエネルギーをどのような比率で変換していくか、また、どのように産業構造を改造しているかのマイルストーンを提示する。

(b)これに関しては、江端も電卓を使ったシミュレーションを実施予定。

近々、某媒体で発表させて貰える機会がありそうなので、そこで試算結果を公表します。

-----

『シュプレッヒコール! 原発ハンターイ!!』では説得力がありません。

皆さん。将来のエネルギーは「どこかの頭の良い誰かが考えてくれる」というスタンスは、もう止めましょう。

本なんか、何十冊読んだって、みんなバラバラなことを、著者の視点からしか書いていません。

家計簿をつける感覚で、あなたなりの我が国のエネルギー試算をやってみましょうよ。

というか、逆だな。

私は、「家計簿感覚のエネルギー試算」くらい、最強の論理はないと信じます。

『シュプレッヒコール! 2015年までに、15%をPVにイコー(移行)!!』
『シュプレッヒコール! 2020年までに、35%をPVにイコー(移行)、風力を7%にゾーキョー(増強)!!』

同じデモでも、これは強いぞ。なにしろ、計算したのは自分なのだから。

-----

「自分なりの計算」で思い出しました。

『我が国で本当に英語が必要な人は、就労人口の100人中4人だけ』

という結論を、私は電卓とホームページのデータだけから算出して、公開しております。

しかし、現時点で、私のこの意見に対して、反論してくれる人は一人もいません。

# 文部科学省と経済産業省と外務省は、公式に抗議してくれると思っていたのですが。

## 無視されているだけでしょうか。

-----

このまま私を放置すれば、私はこの「4%」を吹聴し続けるぞ。

そうすると、我が国の英語へのモチベーションはどんどん低下するぞ。

英会話学校なんかもっと深刻な死活問題だろうが。一体、何をのんびりしているんだ。

さあ、早く、それぞれの組織は、自分なりのデータや将来のマイルストーンを開示して、私の意見を叩き潰しにきなさい。

私は、この「4%」を、叩き潰しに来て欲しいのです。本当に。
2012年 07月 14日
あなたと私の最期
私は随分たってから、国民的アニメ「サザエさん」のカツオの声が変っていることに気がつきました。

# 半年後くらいだったらしい。

当時運営していたメーリングリストで、そのことを指摘したら、「気がつくのが遅い」と言われました。

声優の高橋和枝さんが収録中倒れて、ご逝去されたのだそうです。

<抜粋>

葬儀の席で弔辞を担当した波平役の永井は、(中略)『サザエさん』での役と同じく、父親の波平が息子のカツオに話しかけるような口調で、

「こりゃ、カツオ。親より先に逝ってしまう奴がどこにおるか」
「カツオ、桜が咲いたよ。どうだ、散歩にでも行かんか」

等と呼びかけた。

永井本人は冷静に語ろうとしたが感極まって涙声になり、弔問者の涙を誘った。

</抜粋>

美しい話です。

「死してその人が評価される」とは、まさにこのようなことを言うのでしょう。

-----

ところで、私が誰かの弔事を頼まれたら、冒頭は決めています。

『今はなき敬愛してやまない、○○さん。私はあなたが心底嫌いでした』

そして、故人の嫌だった点を全てピックアップしてやろうと思っています。

私と関係があり、万が一にも弔事を読まれる可能性のある人は、必ず遺言に、。

「間違っても奴に弔事を読ませるな」

「江端に知られないように葬式を実施しろ」

「万一、江端がやってきたら、実力で阻止しろ」

と記載しておくことを、強くお勧めします。

-----

また、私は、私の葬式に際して、生前に、

「葬式参加拒否者リスト」

というものを、予め作っておくつもりです。

私が生前嫌いであった人間に、最後の最後で、「恥」をかかせることが目的です。

心あたりのある人は、ご参加されないことをお勧めします。

-----

多分、私は葬式なんかしないと思う。

私の体の使える部分のパーツを取り出すため、死んだ直後の私(の体)は忙しい。

そもそも、葬式やって私が生き返る訳でもなし、そんな時間と金があるなら、「家族で飯でも食いながら、そこで私の悪口で盛り上がって、私を供養してくれ」と思います。
2012年 07月 13日
「国民の生活が第一」党
早速、特許庁の商標検索エンジンで、調べてみました。

『商標に「国民の生活が第一」 が含まれる商標が 0件でした』

と出てきました。

なんだ、民主党は出願していなかったのか、と、その迂闊(うかつ)さに呆れました。

もっとも、間違いなく、拒絶理由通知(商標法3条1項3号、4条1項16号)が通知され、即拒絶査定が確定するだろうなぁ、とは思いますが。

少なくとも、出願ぐらいはしているかと思っていました。

-----

指定役務を、

「国民の生活が一番となることを目指す政治活動に関する役務」

としたままで、この拒絶理由に弁駁して、上手く審査官を説得して、登録商標することができた人(弁護士、弁理士)は、多分、その業界では権威になれることでしょう。

で、この商標権を「民主党」に売る。

どんな値段でも買ってくれると思います。

「民主党」は、この商標権で、これで小沢新党を政党名称から切り崩しを行なう(差止、損害賠償の請求で)、と。

挑戦する価値はありそうです。

知的財産権を使った権力の濫用の典型パターンですが、権力闘争という点ではあんまり変わりないですしね。

-----

さて、この政党名(国民の生活が第一)に対する、私達夫婦の感想です。

嫁さん:「何も考えていなかったのかな?」

私:「『私の政治基盤が第一』という政党名なら、投票も前向きに考えたんだけどなぁ」
2012年 07月 12日
権力不在という罪
システムの研究員として、いくつかのシステムの設計に携わってきました。

詳しく話すことはできないのですが、その中には、自分の信じるシステム思想を「捻じ曲げて」でも、行わなければならないシステム設計もあります。

-----

先日、『江端さん! あのシステムは何ですか!!』と、ユーザとしてシステムを利用してきた後僚に叱られました。

叱られる理由も分っていました。システム構築を始める前から、その事象が顕著に現われてくるであろうことも、私はかなり正確に予見していました。

「ちゃんとシステムの設計計算をしたのですか?」と問われたので、事前検討結果も見せました。

-----

「江端さん、事前にここまで分っていながら、どうして・・・」

―― まあね、それはね、

『お客様のご希望、お金、納期、それらを総合的に判断し、なおかつ、利益の出るシステムを提供しなければならないから』

だよ、―― と応えておきました。

-----

後僚が「江端さんが、もっと政治力のある立場にあれば・・・」と呟いた時、意表を突かれた感じがしました。

そういう視点から「自分」を見たことがなかったからです。

私は、その学生時代の経緯より「権力 = 悪」という、単純な二元論で物事を見るクセがついていました。

しかし、社会人になって二十年余。

そのようなチャイルディッシュな思想はすっかり消えてなくなったと思っていたのですが、案外そうではなかったのかもしれません。

-----

『そっかー。出世できないことや、権力を持たずにいることが、誰かに迷惑をかけることもあるんだーー』

と、心底、びっくりしたのです。
2012年 07月 11日
サークル オブ ライフ
ライオンキングとは、ディズニーによるアニメーション映画であり、また、ミュージカルでは、日本でも劇団四季が上演を続けています。

このライオンキングのコンセプトは、自然界を支配するバランス、「サークルオブライフ(Circle of life)」です。

生きとし生けるものが、バランスを取りあって生きている ―― と言えば、聞こえは良いですが、要するに「弱肉強食」「適者生存」「自然淘汰」のことです。

階層型ヒエラレヒーの中で、喰う/喰われるという関係のバランスを維持することで生態系は維持されている、ということです。

だからこそ、我々は、喰う/喰われるという関係を不可避なものとして、生きとし生けるものを、等しく尊重して生きることが大切なのです。

-----

我が家(私を除く)の家族の「虫」への嫌悪、恐怖は半端ではありません。

この時期になると、我が家の塀には「やすで」が大量に発生するのですが、殺虫処理を、家長(私)に押しつけております。

『自分の家なのだから、自分でもちゃんと管理すること』と言ったら、庭中に半端ではない殺虫粉を散布し、私は真剣に、家族の健康への影響が心配になりました。

虫が家に入ってきたといっては、瓶で捕獲した虫の駆除を、私にメールで依頼してくる始末です。

-----

先日、私がこのライオンキングのコンセプト「サークルオブライフ(Circle oflife)」の話を持ち出して、家族に説教をしたところ、以下のように言われました。

『確かに全ての生命は、等しく尊重されるべきだけだと思う』

『でも、虫は別』
2012年 07月 10日
たった一人の世論調査
ご存知の通り、私は、物事を「額面通り」には解釈しません。

縦にしたり横にしたり、裏側に回ってみたり、叩いてみたり、蹴ってみたりして、その内容を、自分なりに表現するようにしています。

ところが、このアプローチや思考方法には、重大な欠点があります。

世間一般の多くの人から形成されている意見、つまり「世論」から乖離(かいり)することが多くなるからです。

まあ、私のエッセイは、『世論とのズレの部分に価値がある』とも言えるのですが、かの「マーク・トウェイン」も言っているように、

『まず事実を掴め。そうすれば、思うままに曲解できる』

が、私の座右の銘です。

つまり「事実」が何より重要なのです。

-----

新聞やテレビニュースで「世論調査」などから、「世論」を読みとることは可能なのですが、その調査結果に基づく理由が、

「なんか、しっくりこないなぁ」

「どうも、嘘くさいなぁ」

と思うことが多いのです。

すっきりと理解できず、イライラするというか。

-----

そこで、私は、私専属の調査機関に対してインタビューを行なうことになります。

私:「一体、『小沢一郎』の何がそんなに気に入らないのか」

嫁さん:「顔」

-----

これです。この答です。

私が知りたい世論調査の理由とは、こういうものなのです。

これは、どのような世論調査でも絶対に出現し得ない理由であり、そして、だからこそ、真実なのだろうとと思います。

嫁さん:「『国民の生活が一番』という言葉を、世界中の誰が言っても良いが、『アンタだけは言うな』と思う」

嫁さん:「『言動』が『顔』と矛盾している」

無茶苦茶で、暴論だと思うのですが、私はこのような発言を心の中にメモして、エッセイなどに反映させています。

-----

という訳で、江端のエッセイ作成システムにおいて、私の嫁さんは、

「たった一人の世論調査機関」

というシステム構成要素として、しっかりと組み込まれています。
2012年 07月 09日
私、正解されやすいんですよ
「私、誤解されやすいのですけど、これでも家庭的な女性なんです」

などと言っていた女性は、私の回りには存在しませんでした。

というか、そもそも、多くの女性がいる環境を過したことがないので、当然と言えば当然なのですが。

-----

「家庭的な女性」の定義は何なのでしょうか。

そもそも、「家庭的な女性」における「家庭的」とは、どういう状態を言うのでしょう。

そう思って、調べてみたんですが、全くそのような記述は見あたりませんでした。

事例はいくつかあったのですが、阿呆らしくてお話になりません。

(1)料理だけでなく、お菓子も作れる女性
(2)ボタン付けなど、裁縫をさらっとこなす女性
(3)デスク周りが、きちんと整理整頓されている女性
(4)掃除や庭いじりなど、手際よくできる女性
(5)薄いピンクのマニキュアが塗ってあるくらいのシンプルネイルの女性
(6)子どもに対して、やさしく接することができる女性
(7)朝早くても、ハツラツとしている女性
(8)飲み会などで、会計役をしっかり担える女性
(9)誰の前でも常ににこやかで、言葉遣いが丁寧な女性

これらの能力を全て具備する女性が、「家庭的な女性」の実施例になるということなのでしょうか。

これは、実現不可能な女性であるとして、特許出願であれば、「実施可能要件違反」(法36条4項1号)を理由に、拒絶査定されるような「実施不可能な女性」ですよ。

このような女性を求めている男性が、本当に存在するとすれば、これは、

『矯正不可能な馬鹿』

と断定して良さそうです。

-----

矯正不可能な馬鹿な男は、まあ、ほっとけば良いです。存在しない女性を求めて、いつまでも彷徨(さまよ)っていれば良い。

しかし、このような「実施不可能な女性」を、本気で目標としてしまう女性がいたら、これは悲劇です。だって「実施不可能」なんですから。

「努力すれば、なんだってできるはず」という言葉を吐く阿呆が、まだまだ世の中には沢山いるようです。

私は、

「ふーん、そうですか。人間は、100メートルを1秒で疾走できるようになるんですね、努力ごときで」

と応えて、こういう馬鹿を叩き潰すことにしています。腹が立つからです。

ま、ともあれ、誰であれ、何を目指しても良いとは思いますが、「エネルギー法則を無視した永久機関」を作るような努力はすべきではないと思います。

-----

さて冒頭に戻りますが、

「私、誤解されやすいのですけど・・・」

てなことを言っているあなたは、多分、あなた自身を誤解している。

それは、「誤解」ではなく「正解」。

事実とは、一定の客観性を持って、外部から観察された結果であり、主観に基づいて内部から観察された結果は「思い込み」と言います。

あなたが自分のことをどう思っているかは、実際問題どーでも良いことなのです。

あなた以外の人が、あなたのことを「家庭的ではない」と判断すれば、あなたがどのように考えようとも、「あなたが家庭的ではない」ことは確定された事実です。

-----

ですから、

「私、正解されやすいですけど、家庭的であると誤解されたいんですよ」

というフレーズが、多分正解。
2012年 07月 08日
「コスト」に関する考え方
以前、大震災時の水道の断水シミュレーションの一環として、

「コーラ」で「カレー」を作る

http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20110401

という実験をしたところ、後僚から、

「世界一値段が高いカレー」であると評されました。

「時間単価の高い主任研究員の江端さんが、そのコーラカレーに費した時間を、研究コストに換算する」と、そういう結果になるそうです。

-----

私は、何かを自分自身で作り出すことや、古くなって動かなくなったものを、自分で修理するのが好きです。

パソコンは勿論ですが、部屋の壁や、ウッドデッキ、散水機を作ったりするのは勿論ですが、動かなくなったパソコンや、自転車のパンク修理なども、さくさくとやってしまう方です。

さっきも、動かなくなったマイコン内蔵の扇風機をバラして、中を眺めていました。

Webでインバータモータの仕組みを調べながら、マイコンボードから出ていく信号線と電力線を追いかけて、色々勉強になりました。

-----

原因は、モータの経年劣化、と特定しました。

根本的な原因は、インバータ制御が、電力をケチって、余計な電力をモータに与えない為だろうと考えました。

うーん、修理に出したら購入時の金額を超えるだろうが、ちょっとばかしモータがヘタっただけで廃棄するのは、ちょっと悔しい。

「初期駆動トルクが弱くて、最初の回転ができないだけかな」と思い、扇風機のカバーを外して、扇風機の羽を手で回したら、動き出しました。

-----

ここまでの、故障の特定と、扇風機の再利用の方法の着想に、約2時間。

確かに、安い扇風機買った方が、経済的だったとも言えましょう。

しかし、インバータモータの仕組みを勉強した費用と考えれば、儲かったとも言えます。

その考え方は、人それぞれです。

-----

という訳で、今私の部屋では、

○羽を手動で回すことで動きだす扇風機が

○羽を剥き出して回転している状態で

地味に風を作り出しています。
http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20110401
2012年 07月 07日
生れた直後から
西尾維新の「化」「傷」「偽」「猫」「傾」「花」「囮」「鬼」「恋」全部読了。

「恋」は、図書館の予約で「44人待ち」から動かないので、昨日購入して、昨日中に読んでしまいました。

「化物語(上下)」だけは購入しておこうか、と思っています。

勿論、ネタをパク・・・もとい、参考にさせて頂く為です。

私が書かせて貰っている連載コラムは、大人のエンジニアを読書層としているので、ライトノベルからの引用など、

『誰にも気が付かれないはず』

ですよね。

とまあ、それはさておき。

-----

高校生の時、「ちょっと仲の良くなった」と、私が思い込んでいた女の子がいました。

自転車で下校する時、その子とすれ違う時に「お先に!」と、明るい青少年風に声をかけたら、彼女が、不機嫌そうな顔をして、私の方を睨めつけていました。

ショックでした。

『仲の良くなった』と思ったのは、私の一方的な思い込みだったんだ。

そうとも気がつかずに、なんて恥かしいことを、と、思い出す度に、自分の部屋の中で転がり回っていました。

「ちょっと喋ったくらいで、なれなれしい奴だ」と思われたに違いないと、悲しくなったり、落ち込んだりして、酷く暗い一日を送っていました。

勿論、翌日から、彼女を避けるように、学校の中を動いていたのですが、学校って結構狭いんですね、これが。

で、ついに、彼女と出会ってしまいました。

-----

「昨日の帰りに、私に声をかけたのって、江端君?」

「え?」

「いや、私、凄く目が悪くて、ちょっと離れるだけで、人の顔分からないんだ」

「あ、ああ、そうなの。ふーん、それは大変だねぇ。うん、昨日ね。そう、そういえば、自転車に乗りながら、声かけたような気がするよ」

と言いつつ、昨日からの鬱(うつ)が、一気になくなり、空にも飛びたくなるような気持ちになったのを覚えています。

-----

で、なぜ、いい年をこいて、こんな青春の甘ずっぱい一ページの回顧禄を記載しているかというと、

私が、

「生れた直後から、無愛想で、人間嫌いで、強調性がなく、人に冷徹で、思いやりという概念すらない」

という様な、人非人みたいに思われているみたいなので、今の段階で修正をしておきたいと思いまして。

我が家の家族の、特に娘たちに。
http://www.kobore.net/wannatosee.txt
2012年 07月 06日
推定有罪
小沢一郎氏に関わる陸山会事件(検察審査会によって、2011年1月に強制起訴された)について、私は当初から「無罪」を予想していました。

当初から「証拠が弱いし、足りない」と思っていましたから。

「無罪」というのは、「犯罪を犯していない」と同義ではないというお話を以前しました。ここで私のいっている「無罪」とは、その意味での無罪のことです。

http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20100127

-----

小沢一郎氏は、我が家で評判が悪いです。悪いなんてもんじゃないです。憎悪の領域にまで達しているかとも思えます。

ところが、その理由を聞いてみると、もう完璧な論理破綻というか、集団ヒステリートいうか、とにかく内容が凄い。

『悪いことをしていそうな顔をしている』

-----

我が日本国民は、建前としてであれ、差別を行わないこと、差別と闘うことをを基本として、色々なものを構成しています(法律、教育、行政、その他色々)。

『悪いことをしていそうな顔をしている』だけでで、「推定有罪」を認定されることは、「差別」などという次元を、軽々と超越しています。

不思議なことに、「小沢一郎氏」だけが、この「推定有罪」の適用が許されている。

これは、ちょっと考察する価値がある問題だと思い、考えてみました。

-----

(1)権力者であるから、心理的衡平の観点から不当な評価でも許される

(2)前科(政界の壊し屋)があるから、悪意を推認しても許される

(3)顔は自分の持ち物であり、持ち主に責任がある(前記の論旨)から許される

うーむ、司法としては、どれ一つとして受けいれることができない理論だろう。

受けいれたら、司法制度が完璧に崩壊する。

-----

これと、もう一つ、面白い話を聞きました。

○裁判は有罪が確定されるまでは、無罪として取り扱われるのが原則

○従って、小沢氏は、現在無罪であり、国会議員を続けていくことに、倫理的にも、論理的にも、手続的にも何の問題はない

という私に対して、

×それは間違っている。

×市民による検察審査会によって強制起訴された時点をもって、『国会議員としての資格なし』と認定されたと考えるべきだ

と嫁さんは主張しました。

----

意表を突かれた感じでした。

そうかー、そういうことか、と、目の見開かれる思いでした。

我々一般人は、原則として法律によってのみ、権利と義務の範囲が規定されているのですが、国会議員には、これに加えて、

「信頼感」

という、定義ができず、非論理的かつ、あやふやな無体物よっても、厳しく制約を受け得るんだ、ということに気がつかされました。

----

私は、技術と知的財産権については、普通の人より知っている方だと思いますが、こういう「信頼」「愛」「友情」とか言う、無体の価値観に関する知見については、

―― 恐しく無知である

ことを、実は、良く自覚していたりします。
http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20100127
2012年 07月 05日
挙動が予測不能な人
知的障害という言葉が、どのような状態を示すのか、私はよく知りません(これから勉強します)。

ここでは、「ある状況下において、私(江端)が全く予想ができない挙動を示す人であって、それに対して江端が対応を思いつくことができない人」と定義してお話します。

例えば、電車の中で、たまに見かけるのですが、突然奇声を発したり、満員の車両の中を歩き回ろうとする人が、これに該当します。

このような知的障害の人が、社会の中に通常の状態として「一緒にいる」ということは、もの凄く良い状態にあると思っています。

なぜなら、色々な性格や特性を有する人を寛容的に内包しているということは、その社会がとても良い状態にあることを示す、一つの指標(インジケータ)であるからです。

-----

しかし、コミュニティは、運命的に、異質の者を排除しようとする傾向があります。(現実に、私自身も、よく排除されそうになります)

なぜか。

面倒くさいからです。

そういう異質の者を理解して受けいれるより、どこか遠くに置いて、閉じ込めておく方が、コミュニティとしてはコストが小さくてすみます。

実際、知的障害者に関して、上記のような傾向は大きいと思いますし、それに対して、やむを得ないという考え方も理解できます。

誰が何と言おうと、現実問題として「挙動が予測不能な人」は怖いです。

どのように対応すれば良いのか、全然分からないからです。

-----

先日の通勤電車の中でのできごとです。

前の席に座っていたおばさんが、突然笑い出しました。そして、立ち上がって歩きながら、別の席にうつってはその席で笑い出し、それを繰り返していました。

車両の中には、なんとも言えない緊張が走りました。

我々が危害を加えられている訳ではなく、またそのおばさんが特別危険な状態にある訳でもありません。

つまり、私達は

―― 何をしたら良いのか分からなくて、思考停止状態に陥いってしまった

訳です。

皆、そしらぬ顔で、本を読んでいるフリをし、また寝たフリをし、あるいは、スマホを扱い始めたりし、とにかく、その状態を無視することで、その場を対応していました。

そのおばさんは、さらには電車の床の上に寝そべって、クルクル体を回しながら、ケラケラと笑い続けていました。

その側に立っていた若い女性は、そのおばさんを、透明人間のように見えないように振る舞っており、その様は大変痛々しかったです。

-----

こういう時、私達は、何をすれば良いんでしょうか。

私は、「見えないように振る舞う」という行動が精一杯でした。

これは、正しかったのでしょうか。

もし、正しくなかったとすれば、何をすべきだったのでしょうか。

学校や会社では教えてくれませんでしたし、私の乱読した(膨大な)書籍においても、そのような対応方法に関する記載は、何一つとしてなかったと思います。

どなたでも良いので教えて下さい。

これは、真剣で真面目なお願いです。
2012年 07月 04日
2万4000年後の「毒」
昨日も記載した通り、

「1グラムのプロトニウムを置いておくだけで、半径500メートルの人間を全部殺傷する」と言われているプロトニウム。

そのプルトニウムの放射能半減期は、2万4000年です。

ちなみに半減期とは「半分に減る」というだけで、無くなる訳ではありません。

------

半分になるだけでも2万4000年。そんな「モノ」を本当に人類が管理できると思いますか。

賭けてもいい。絶対無理だ。

100年もあれば埋めた場所を忘れ、200年でその存在を忘れるでしょう。

大体、古代エジプトなんぞ、今の民主党政権の比じゃないくらいの絶対的権力が支配していたはずで、その権力基盤は永遠とさえ思われていたのです。

それから、高々、5000年も経っていないのに、

○王の名前は分からんは、

○埋めた場所すら不明だは、

○建造物は跡形もないは、

ほとんど情報量ゼロに近い状態になっているのです。

-----

どこの誰が、数万年オーダで、人類史上最凶にして最悪の「毒」を埋めた場所なんぞ、覚えていたいと思うでしょうか。

絶対に忘れてしまい、その上、訳の分からん被曝の被害が数万年続くことに、私は自分の命は勿論、家族全員の命を賭けても良いです。
2012年 07月 03日
核武装準備国
お前、そんなことも知らなかったのか? と馬鹿にされそうですが、

私は我が国が、

「核武装準備国」

であるという認識を全然持っていませんでした。

-----

きっかけは読売新聞の社説。具体的に知ったのは、ETV特集「“不滅”のプロジェクト〜核燃料サイクル〜」を見たときです。

簡単に説明します。

(1)中共(中国共産党)のプロトニウムの原爆開発の成功を知り、我が国における核戦力の保有はおそらく不可欠である、と外務省の官僚が考えた。

(2)高速増殖炉ができるまでの間、プルトニウムは使い道がなくて溜まっていくが、ほとんど実験用の用途しかない。

(3)しかし、そのプロトニウムは、即に原爆として利用可能であり、日本の技術力をもってすれば、半年ないし1年半くらいあれば足りる。

(4)つまり、日本はいつでも核武装化可能であるという軍事的脅威を、外交カードとして使える、と。

なるほど、プルトニウムは所有しているだけで、潜在的軍事力になる、ということか。

この年齢になるまで、この程度のことに気がつかなかった私は、本当のアホです。

-----

一応調べてみたのですが、実に多いですね、日本のプロトニウム所有量。

国内に10トン(世界の合計が46トン)あります。

私の知っているプロトニウムの毒性に関する知識は、「1グラムのプロトニウムを置いておくだけで、半径500メートルの人間を全部殺傷する」というものなので、10トンの毒性というのは、ざっくりその、10,000,000倍くらいあるということです。

加えて、原発1つに使うプロトニウムが4kgだそうですので、日本の潜在核保有力は、ざっくり10,000/4 = 2500発 分はあるということです。

10トンのプロトニウムが全部核兵器に転用できる訳ではないとは言え、なかなかボリュームのある数値です。

加えて、我が国は、小惑星サンプルリターンを実施しうる衛星を送り込めるような、緻密なミサイル・・・もとい、ロケット技術もある、と。

-----

分からん。

なぜ、世界は、日本を脅威と思わないのだろうか。

私は、心底「恐い」と思うぞ。

# アジア各国が「日本の軍備化を懸念する」旨のコメントを聞く度に、不思議な気持ちだったのですが、今なら良く分かる。
http://www.kobore.net/cgi-bin/diary/read.cgi?date=20120407
2012年 07月 02日
世界で一番難しいシステム
昨日、お話した、特許発明活用プロジェクトの打合せの中でのお話です。

知財ライセンス部のAさんとB君は、iPadを使って目の前で、架空のアカウントから、人物やアバターを作り出しました。

そして、その人物を日本の中の適当な場所に出現させるという芸当を、60秒程度でやってのけました。

そして、たちまちの内に、それらの仮想人物を動かして、システムがシナリオ通りの反応をするかどうかの確認作業に入ってしまいました。

その様子を、ただ唖然と見ているだけのCさんと私。

今回の打合せを主催された知財部のCさんは、

「もう、ツイッターとかFacebookとか、私には全然分からないよ」

といって、頭を振っていました。

-----

ツイッターやFacebookが、理解できないシステムであるというのは、私も同じです。

問題は「理解できない理由」にあります。

我々は、暗黙的であれ明示的であれ、「技術」を「ある目的を達成する為の手段」と定義しています。

また、「システム」とは、「それらの技術が集めて、さらに上位の目的を達成する手段」と認識しています。

ツイッターも、Facebookも、これを情報系システムと見てしまえば、上記の定義に当て嵌めることが難しくなります。

システムが何を目的としているのかが、分からないからです。

仮に「人とのつながり」という目的と定義できたとしても、そのビジネスモデルを想起することは、かなり難しい。

つまり、我々の考えるシステムの目的は、金銭的な利益と切り離せないのです。

-----

私は、Cさんに応えていいました。

―― 大丈夫です、Cさん。私も全然分かりません。

少なくとも、ツイッターやFacebookは、

鉄道運行管理システムや、配電自動化システムや、位置情報補足システムよりも、

比較にならない程「格段に難しいシステム」であるということだけは、保証します。
2012年 07月 01日
パーツとして生きるということ
珍しく、私の作ったソフトウェアに対して質問がきました。

名前からすると、タイかシンガポールの人のようです。

-----

相談内容は、こんな感じでした。

『現在使っているソフトウェアの品質が悪いので、江端の公開しているソフトウェアを使いたい。ついては、○○という通信環境で、それは可能だろうか』

好感のもてる愚直な英文メール、適度な私のプログラムへのヨイショ(素晴しいソフトウェア等)、そして、雰囲気としては、研究費の少ない大学の通信研究室の研究者と見ました。

問題は、私のソフトウェアの方にありました。

11年前に開発完了して、8年前にサポートを中止しているソフト。

これをメンテナンスするのは・・・、うん、やっぱり無理だろう。

-----

そんな訳で、

『やってできなくはないだろうが、恐しい程のソフトウェアの改造が必要になると思う。悪いことは言わない。使うのは止めた方がいいと思うよ。』

と返事しておきました。

こういうソフトウェアは、いつまでも公開しておかない方が良いのかもしれません。

しかし、私としては、私のソースコードの役にたつ部分を切り刻んで、誰かのプログラムの中で、生かして貰えれば、私としても結構幸せなんだけど、と思っているのです。

DHCPやらARPやらの、管理系のマイナーな通信プログラムのソースコードなんぞ、スクラッチから書くの面倒です。

私のプログラムを一部を使って楽できれば良い、と思うのですよ。

-----

私は、私の死後、私の体の使える部品の全てを、余すところなく全部誰かに使って貰う旨を、宣言しています(保険カードの裏に全チェック完了)。

# ただ、いかなる形態であれ、絶対的な意味において「検体」は拒否していますが。

ソフトウェアであれ、私の体であれ、人の役に立てば、それは「私にとって」幸せなことです。

全体であれ部分的であれ、未来に生き続けることは、多分、素敵なことです。