「一本の骨」

江端さんのひとりごと

「一本の骨」

1999/06/28

                              

今回の一件、色々ありました。

そして、私としてはこの情けなく不名誉極まりないどうしようもない事件を、毎回誰かに話したり聞かせたりするは、真に煩わしいと思っております。

正直言いまして、このエッセイを執筆する作業自体が極めて憂鬱です。

私は今、国立Y病院の4人部屋病室のベッドの上で、このエッセイを執筆しております。

事件発生後、何も口にしていません。食事はもちろん、一滴の水さえも取っておりません。

点滴用の長さ5cm程度の針が、左腕に刺さったままで、その上から包帯がぐるぐる巻きにされていますし、つい4時間前までには、直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から胃のど真ん中まで、70時間近く差し込まれ続けていました。

ご理解頂けると思いますが、現在の私は心身ともに衰弱の限りを尽くしております。

そして、健康な心と体を取り戻した後でも、今回の事件による私の肉体的精神的苦痛は癒されることはないでしょう。

そして、恐らく、この事件は多くの人々に大いなる軽蔑と嘲笑をもって、皆さんの記憶に残っていくことでありましょう。

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今回、私がこのような悲惨な状況にもかかわらず、文字通り病床でエッセイの執筆に踏み切ったのは、以下の理由に因ります。

第一に今回の事件が、私の意図せぬ形で流布されない為。

第二に、この事件に関して何度も何度も第三者に説明するのが不快かつ面倒である為。

そして第三に、自分が忘れていた大切なものを思い出し、そして決して忘れてはならないことを自らに戒める為に他なりません。

このため、私はこの江端人生史上、最高級の不名誉な事件を、あえてWebサイト、電子メール等を用いて公開することに決定しました。

従いまして、今回の事件に関しましては、本エッセイを持ちまして最終報告とし、本件に関する問い合わせ、およびそのお返事に関しましては、一切ご遠慮いただきたく希望しております。

悪しからずご了承くださいませ。

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私の嫁さんは、毎日帰りの遅い私のために、昼食用と夕食用の弁当を2食分作って、私に渡してくれます。

最近の私は、仕事と通勤時間の都合で、どんなに早くても午後10時を過ぎないと帰れない有様で、どうしても夕食が遅くなってしまいます。

そのため、最近の私は、慢性的な脂肪肝と診断され、毎月の血液検査の為に会社の保健センターに呼び出されていました。

これを何とかしようと、嫁さんは、ずいぶん面倒だったと思うのですが、毎日夕食分の弁当まで作ってくれることになり、その後、私の脂肪肝は再検査の必要が不要な段階まで改善されていきました。

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その事件が発生したのは、1999年6月18日、午後12時30分から、数分を経過したころでした。

その日に限って、私はずいぶん腹をすかせており、そして、私の好物の鮮やかな紅色の鮭の塩焼きの切り身が、几帳面に弁当に配置されて、私の目の前に飛び込んでいました。

私は勢いよく、その切り身を口に放り込んで、----- その時、ちょっと無理があるかなと、ちらっと思ったのですが ----- ひとくちで飲み込みました。

口の中で、切り身の対角線長の長さに相当する何かが、喉の中を1回転して、ちょうど喉の根元を通過しようとしていた、まさにその時、その対角線長の何かが、ちょうど重力加速度の方向と直行した向き、すなわち水平の状態になったのです。

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『嘘だぁ、そんなに詳細に覚えていられるものか。江端、おまえ、また脚色しているだろう』と思われる方がいるのは、百も承知で敢えていわせて頂きますが、世の中には不思議な現象があるもので、交通事故が起こった瞬間、自分がスローモーションで空(くう)を舞い、地面に落ちていくのを感じたと言う体験をした人が多くいると聞きます。

まさに、それです。

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私はその鮭の切り身が、どのような形で私の体の中に突き刺さっていったのかを、その経緯が手に取るように理解できたのです。

そしてその瞬間、喉を金串で突き刺されるような痛みを感じると共に、その事件のあった該当位置が、到底自分の手に届かぬほど臓器の奥で発生したことを、即座に直感したのです。

すぐさま、私は古典的な方法、たとえば「ご飯を丸のみにする」だのを数回試みましたが、すぐに諦めました。

その痛みの大きさ、そしてその痛みの発生する個所から、この事故が民間療法で及ぶものでないことが、直感的に分かったからです。

私は、机の上に弁当箱を広げたまま、即座に横浜工場の保健センタに走りました。

勿論、保健センタで喉に引っかかった異物の除去ができるとは考えていませんでしたが、横浜工場のある戸塚駅付近にある、耳鼻咽喉科の診療所を紹介してもらえるだろうと思ったからです。

私がこのように慌てていたのには、その日が金曜日であり、そして明日になれば、大抵の診療所や病院が、週末休みとなること、そして、この機を逃すと、週末を地獄のような痛みの中ですごさねばならないことが分かっていたからです。

自分に手の負えないことは、とっとと他人の手に渡す。

悪いことは、大抵、時間の経過と共にさらに悪くなる。

小さいころから病気がちで、一時期は医師の誤診で死にかけたことのある私は、この事故が簡単なものではないことも、直感的に理解していたようです(この事件に関しては、いずれまた)。

いずれにしろ、私のこの能力は、一種の自己生命保全の超能力と言ってよいものかも知れません。

そして、事実その通りだったのです。

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そして、私は、横浜工場の保健センタで紹介してもらった耳鼻咽喉科に電話した後、課長に受診外出の許可を得て、その診療所に走りました。

その間にも、喉の奥の痛みは、鈍痛から鮮明でクリアな鋭痛に変わって行き、唾を飲み込むと、痛みのあまりうめき声が出そうになるほどになってきました。

首を左に90度くらい曲げると痛みが和らぐので、首を曲げたままにして呼吸をしていました。

私は、受診開始時刻の40分も前に診療所に入って、痛みを堪えながら待っていましたが、その痛みがあまりに尋常じゃなかったので、私は受付で時間外診察をお願いしたのですが、先生が来ていないと言うことで断られました。

それにしても、受付には所狭しと、4人ものかなり歳の行ったばあさん達がいて、不審な感じがしました。

診療時間になって、3人目で診療室に入った私は、その薄暗い向こうに、少なくとも70歳は過ぎたような白衣を着た爺さんを見つけ、その瞬間、嫌な予感に襲われました。

私は、この爺さんがすぐさま喉の患部に刺さった異物を除去してくれるものと期待していましたが、爺さんは、喉の中を色々弄り、何度も鼻の中から内視鏡スコープを入れて覗いた挙句、一言いいました。

「無いね」

私は返事ができませんでした。

そして、(無いわけがないだろう、この爺!)と言う言葉を飲み込んで、私はかろうじて黙っていました。 爺 :「痛いの?」 江端:「痛いです」

痛く無ければ、ここに来るか! 爺 :「でも、無いよ」

こう言う場合、患者はなんと答えれば言いのでしょう。

『そうですか、ないのですか。それでは私の気のせいですね』とでも言えばよかったのでしょうか。

今だから言えますが、そんなことをしていれば、私は本当に死んでいたかも知れないのです。

私は黙っていました。

爺も黙っていました。

そして、そのそばで爺のアシスタントをしているばあさん達も黙っていました。

そして、20分間、全員が黙り続けていました。

嘘ではありません。

本当に20分間です。

こう言う場合、別の設備の整った病院を紹介することが、医師の務めであることは分かっていたのですが、私は怒りと痛みで理性など、とっくの昔に吹っ飛んでいたので、その爺に代わって、そのような提案を一言足りとも言う気はありませんでした。

診療所の待合室には、その時すでに20名近い患者が待っていましたが、爺は、何かを考え込んでいる風に、ひたすら黙っていました。

この爺は、「医者」として失格と言うことは言うまでもありませんが、私が見立てるに、すでに老人性痴呆と見うけました。

その時、私は『老害と言うのは、まさにこういう事を言うのか』と思ったものです。

私はお年寄りをこのように罵るのは本意ではありませんし、少なくとも年長者には、敬意を持って接するべきであると信じております。

しかしながら、医療行為を行う者が、老齢を自覚せず、現場に居続けるのは、迷惑を通り越して、極めて危険な行為です。

『歳とって職務を果たせなくなったら、とっとと隠居(引退)してくれ』

私の偽らざる気持ちです。 

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その後、ようやく国立病院の紹介状を書いてくれることになり、まあそれはそれでよかったのですが、この手続きを行うばあさん達の手際の悪いこと悪いこと。

『タクシー飛ばしして行くから』と私が何度行っても、交差点の名前とか地図を書いて説明しようとするし、病院からの緊急往診の可否を知らせる電話がこなくても、まったく催促しないし、おまけに最後には受診料として、1万円以上も請求されずいぶん頭に来ました(ただし保健証を持ってきていなかったので、後日清算と言う事になるのですが)。

紹介状書くだけで、1万円とはおいしい商売だな、と毒つきたいのを我慢して、飛び出すように診療所を飛び出てくれば、後ろから領収書をもって駆けつけてくるばあさん。

『この領収書が無いと、健康保険書を持って来て貰った時、清算できないから。』

私はがっくりして、ばあさんから領収書を受け取りました。

そして、診療所を背にしながら、私はつぶやきました。

老害の巣窟か!ここは!!

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タクシーを飛ばし、国立Y病院に着いたのが、午後4時30分。

時間外受付窓口を経て、2階の耳鼻咽喉科に行くと、看護婦さんが「先生、ちょっとどっかに行ってしまったので、座って待っていて貰えますか」と言われ、やむなく待合室のベンチに座って待っていましたが、一向に医師が現れる気配もありません。

時間外の病院は、がらんとして人気が無く、まるで終電時のローカル駅のような寂しさでした。

私の痛みをよそに、廊下の向こう側では、若い夫婦とその両親と思われる人物が、元気に話をしており、その会話が静かな午後の病院の廊下に、わずかなエコーを響かせて聞こえてきました。

誰もいない建物に一人残されたような不安と孤独感。

そしているうちに、若い医師 -----それが、私の主治医となる先生なのですが----- が、耳鼻咽喉科の部屋に入ってきて、それからしばらくして、私は名前を呼ばれて、診察室に入っていきました。

私と同じ位の年齢で、エネルギッシュであると同時に冷酷な厳しさを持っている感じの声がするクールでハンサムな若い先生でした。

(・・・・私と似ている)

私は不安に襲われました。

クールでハンサムという点もそうなのですが、この先生は、ようやく最近仕事の仕組みが分かってきたところで、それなりの実力もありそうな一方、人生の重みが無く、クライアントの気持ちを解する様な「人生の深み」が今一つ足りなそうな感じがしたからです。

もっと簡単に言えば、『やさしい』と言う雰囲気を全く感じさせない人物だったのです。

口や喉の中の異物を除去してもらうためには、当然口の中を探索しなければなりません。そのために、喉の奥に小さな鏡の着いたスティック状の棒を差し込まれて、喉の奥をまさぐられることになります。

喉の奥に金属を置かれたら、大抵の人は『うえっ』と、吐きそうになるでしょう。

私が『うえっ』となる度に、先生は嫌な顔をして金属棒を引き上げていたのですが、3度目に至ると「あんたねえ!」と激しい勢いで怒られました。

普段の私なら、そんな理不尽な態度を取られれば、その段階で、即、戦闘開始です。

ですが、今回私は闘う訳には行きませんでした。

なぜなら、圧倒的にこちらのほうの立場が弱かったからです。

私は一刻も早く、この激痛の原因となっている異物を除去して欲しかったのです。

その後、鼻の穴と口の中に麻酔薬を入れられ、私は鼻水とよだれをたらした状態で、内心では(もう、どうでもいい・・・)と思いながら、喉の奥を金属片でまさぐられたのですが、問題の異物は発見されませんでした。

私は心底あせってきました。

異物が喉の中に無いってことは、別のところにあるのだろうか、と思っていたところに、この医師は、私の心をぐさっと突き刺すことを、平気で一言で言ってのけました。

「食道に入っていたら、もう取れないね。手術をするしかないよ。」

手術? 胸をメスで切って開ける?

呆然としている私をよそに、「じゃあ、鼻からカメラ入れて、食道の中を見るから。」と言うと同時に、私の鼻の中には長さ30cmはあろうかと言う、先頭に小さいレンズのついた直径5mmの管が入り、それが私の目の前、いや、もとい、鼻の前でスルスルと差し込まれて、残りの管がどんどん無くなっていきまし た。

信じられない光景でした。

私は自分の頭部の中に、宇宙空間に繋がるブラックホールがあるとは思ってもいませんでした。

管が、鼻の穴から喉をつき抜けているのを、喉の奥で感じます。

このような未知の、そして不快極まりない気色悪い感触は、今まで一度も体験したことがありません。

医師は、カメラをのぞき込みながら「無いなあ・・」とつぶやいていました。

私は(早く見つけてくれ!)と言う思いで必死でした。

「あ、あった!」

医師のその声を聞いたとき、私の顔面は歓喜に輝きました。

すべての物事には原因があり、原因があれば対策が立つのです。

もう一人の、この医師の上司と見られる医師も、そのカメラを操作して、問題の患部を発見したようです。

二人の会話の内容から、その状態はざっと以下のようだと判りました。 位置:食道管から2〜3cmの地点 異物:長さ3cm程度の骨 状態:食道管のど真ん中、両端に水平状に、相当堅固に突き刺さっている。 そして結論としては、「手術による除去しかない」と言うことでした。

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医師:「手術しないと、あれは取ることができない。」

江端:「はあ、手術ですか。」

医師:「手術自体は、非常に簡単で10分もあれば終わってしまうから、心配しなくていいよ。」

江端:「はあ、そうですか。」

医師:「じゃあ、今日ね。これから」

江端:「今日ですか」

医師:「じゃあ、これ」

江端:「・・・?」

私は、訳のわからないまま心電図とレントゲンの書類を持たされ、検査の場所に行かされました。

その後、その結果を持って帰ってきたら、また、その後すぐに血液検査に行かされ、耳たぶをナイフで切り、何秒で血が止まるかと言う、えらい乱暴と思われる検査を受けていました。

検査の時点でも、痛みは引いていくどころか、ますます酷くなり、情けないやら辛いやら・・・、それでも、まあ、それでも10分の手術で済むと言うことは、今週末自宅で静養していれば良いと言うことだと、私は内心ほっとしていました。

大事に至らなくて済んだ、と。

この間に自宅の嫁さんと、会社の上司に電話をして、これから緊急手術を行うことを報告したら、嫁さんも上司も一様に驚いていましたが、すぐに帰れると安心させました。

しかし、この段階で、私はまだ事態を正確に把握していなかったのです。

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一通り検査が終わって、耳鼻咽喉科に戻ってきた私は看護婦さんに聞きました。

「すみませんが、今日やる緊急手術の内容を教えてもらえませんか。妻に連絡しなければなりませんし・・・」と尋ねていたら、診療室のドアの向こうから、「江端さん、入って」と言う先生の声が聞こえてきました。

「これからやる手術はね、金属の管を口から食道まで挿入して、食道口まで直通の管を通して、引っかかった骨を取り除きます。」

口から食道まで、金属管を突っ込む?

その瞬間、私は聞き違えたのではないかと、自分の耳を疑いました。 

「全身麻酔をするから、あなたはそのことを覚えていないことになるけど。」

私が人生で経験したことの手術は、盲腸の手術で、その時使った麻酔は脊髄から注射する局部麻酔でした。

私の持っている「全身麻酔」に関する知識と言えば、意識が回復せずにそのまま植物人間になったり、死亡したりと言う、極めてネガティブなものです。

しかし、本当に私にショックを与えたのは、医師の次の一言でした。

「それでね、手術自体はそれほど大したことはないのだけど、恐ろしいのが感染症でね。手術で金属管を食道口に挿入するから、食道に相当の傷をつけることになる。そこから菌が感染すると、その近辺にある肺、心臓を直撃して命にかかわる場合がある。従って、手術後、3日間は飲食できないし、最低一週間から10日は、入院してもらうことになる。」

入院? 魚の骨で入院? 一週間も? そんなの聞いたこと無いよ。

私は、職場の机の上に地層のように積まれた仕事の束を思い出して、一瞬意識を失いそうになりました。

あの膨大な量の仕事を、一体誰が代わりにやってくれると言うのか?

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それから、私は急かされながら、入院手続きを行うように指示され、時間外受付窓口で、書類の処理を行っていましたが、何しろ、新しい社宅に引っ越したばかりで、私は自宅の住所も電話番号も暗記できていない有様でした。

なにしろ、私は診療所に行って、すぐ帰ってくるつもりだったので、この時点での私の服装はGパンにポロシャツ、所持品は財布ひとつだけでした。

その後、その先生に引っ張られるように入院病棟に連れて行かれ、4人部屋の病室で、手術用の服であるピンク色の術着に着替えさせられました。

そして、パンツの代わりに、ふんどしのような『T字帯』なるものを着けさせられました。

T字帯の上から術着を着け、当然スリッパもありませんから、黒のビジネスシューズを裸足の上から履いた姿は、自分で見てもかなり滑稽で、悲しい光景で した。

その合間の時間をぬって、携帯電話からかろうじて嫁さんに「今から手術」と言うことを連絡して、入院の準備を頼みました。

私は、自分で移動ベッドに載り、そのまま医師と三人の看護婦さんに引っ張られて、慌しく手術室に運ばれていきました。

移動ベッドの金属がきしむ音と共に、目の前にある病院天井がどんどん後ろに遠ざかって行きました。

エレベータ、廊下、そしていくつもの扉が視界に現れては消え、私は自分がどこに連れて行かされるのかすら分からないままでした。

そして、いきなり目の前に、あの病院ドラマでおなじみの無数の照明灯からなる真っ白な手術室が現れ、そして、手術室の中では、なぜかFM横浜の放送が流れていました。

そして、自力で移動ベッドから手術台に登って横たわった私の元に、年の頃にして40歳くらいの優しそうなおばさんが立っていました。

「こんにちは、私が麻酔担当の××(名前忘れた)です。」

と話しかけられている最中にも、看護婦が、心電図用の電極を体中に貼り付け、血圧測定用のバンドを腕に巻きつけていました。

「不安でしょうけど、心配ありませんからね。」

その時の私は、慌しすぎて、不安になることすらできませんでした。

(あ、そうか、そうだよなぁ。手術前だもんな。普通、不安になるよなぁ・・)などと、まるで他人事のように考えていたのです。

口にマスクが当てられ、変な臭いだなと思った瞬間には、意識が朦朧としてきました。

そして、「江端さん、聞こえますか・・・」と誰かに言われたような気がしたことを最後に、その後のことは全く覚えておりません。

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手術自体は、10分程で終わったそうです。

私は術後すぐ、朦朧としながらも意識を回復し、真っ先に医師に「刺さっていたものを見せてください」と頼みました。

今回の事件を引き起こした奴 ----- もっともそれは自分自身なのだけど---の姿を一目見ておきたかったのです。  

医師は私に試験管を手渡してくれましたが、朦朧としている私の目には、その「もの」を見つけることができず、そのまま意識を失って移動ベッドに沈みこんでしまいました。

我ながら、「敵」に対する執念深さに感嘆してしまいます。

移動ベッドで運ばれながら、気分を聞かれましたが、「眠い」とだけ答えていたことを覚えています。

そして、術着とT字帯を着けたままで、手術後第一日目の夜を迎えることになります。

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その時の私は、左手に2本の点滴用の針が差し込まれ、左の直径5ミリの塩化ビニール管が、左の鼻穴から、喉の奥、食道を経由して胃のど真ん中まで差し込まれていました。

と書くのは簡単ですが、喉の奥に管を差込み続けると言う、この不自然な状態と不快感を表現するのは容易なことではありません。

どだい、喉と言うのは何かの異物を保持する所ではありません。

大抵数秒以内に何かを通過させるだけの器官です。

そんなところに、動き回る管をぶら下げている違和感は、やってみなければ決して解らないものでしょう。

やがて、麻酔が切れて、手術をした箇所の痛みが本格化してきました。

喉の奥に絡んだ痰を吐き出して見てみると、深紅の鮮明な痰が白いティッシュの上で美しいほどです。

管が鼻穴から入っているので、鼻汁をかむ事もできず、一度喉の中に吸い上げて、口から唾といっしょに吐き出すしかありませんが、その時、腫れ上がった患部を刺激するのか、喉が裂けるような痛みでうめき声が出てしまいます。

そして、息苦しくて眠れなくて、立ち上がったり、横になったり、首を傾けたりしましたが、その全ての状態において、喉の奥で管が動き回り、喉の粘膜を触れて行き、そして傷ついた患部に触れた時の激痛は、半端なものではありません。

あまりにも苦しくて、点滴を代えに来た看護婦さんに、「この管を抜き取って貰えないか」と頼んでみたのですが、この管から当面は食事を取るのだから、抜き取ることはできないと、素気無く拒否されてしまいました。

それでも、「食事の時に、また管を挿入すればよいではないか」と引き下がったのですが、やはり聞き入れてもらえませんでした。

まあ、よくよく考えれば、管を抜き取ったり挿入したりする時に患部を傷つけてしまっては、元も子もありませんから、管を抜くことができないのは極めて当然なのですが、その時の私は、『もし管を抜いてくれるのであれば、何でも言うことを聞くし、いくらでも支払う』というくらい辛かったのです。

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と、言うところで思い出したのですが、よく集中治療室などで、管だらけにされて治療されている患者の姿がよく描かれています。

ですが、一体この患者の苦しみをどれだけの人が理解しているでしょうか。医療関係者に関しても相当怪しいものです。

今、私は渡辺淳一氏のエッセイ集「風のように・忘れてばかり」の中に収められている「外科医の反省」と言う文章を読んでいるのですが、以下のようなフレーズがありました。

『他人の苦しみを、自分のことにおきかえて、その2割でも考えられるようなら、真の友人であり、5割も考えられたら聖人で、8割を越すようなら、もはや神か仏だと言う。それほど他人の辛さや苦しみを、自分のものとして感じることは難しい。その理屈で言えば、医師が患者の気持ちなど分からなくても当然、と言えなくもない。が医療の場では、これでは困る。

「こっちが苦しくて、体を起こすことも容易ではないのに、若い医師は平気で検査をしようとするんだ。」で、その理由を聞いてみると、医師の興味本位や無難だからと言う理由だからだったらしい。「冗談じゃない。患者はその検査一つでどれだけ苦しむか、そこをまず考えるべきだろう」』

この文章を読みながら、私が思ったことは、『医療行為が患者の病気からの回復を目的としていることは言うまでもないだろうけど、その回復の為には苦痛を受け入れよ、と言うのであれば、私はきっぱりとこう言うだろうな』ということ です。

『やだ。』

簡単に言うな。

鼻に管を突っ込まれただけで、この苦しみだぞ。

全身に管突っ込まれてみろ、病気そのものより遥かにそっちのほうが苦しい。

少なくとも健常者が、患者に対して偉そうにモノ申すことが僭越というものだ。

こっち側に来て、同じ台詞が言えるか?

勿論、全ての看護婦と耳鼻咽喉の医師に、「鼻から管を突っ込んでみろ」と言う気は無いが、少なくともその状態を想像くらいはして欲しい。

いいや、やっぱりやって貰いたい。

ほんの5分でいい。

もっともその間、管を動かしたり、体を動かしたりして貰うが。

その後、「一週間そのまま管を差し込んだままでいてください。」と平気で言えるなら、私も態度を変えてもいいと思う。

閑話休題。

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術後の初めての夜、私は夜中に7回程、痛みで目を覚まし、一晩中うとうとしたままの状態でしたが、それでも良く眠れた方だと思います。  

翌朝、喉の痛みもかなり引いていった・・・と言っても、まだ十分痛かったのですが。

しかし、喉が痛いと言っても、骨が刺さったところ(食道口)自体はそれほど痛くないのに、その周辺がやたらめったら痛いのはなぜだろうかと、私はいぶかしがりがりました。

やはり、口から金属管突っ込めば、大抵の生体組織なんぞ簡単にぶっ壊せるよなぁ・・・となんとなく納得。

事故そのものより、手術自体の影響で入院しているようなものだなあと思うと、仕方ないとは思いつつ、なんとなく情けない気分になってきます。

この気分にさらに情けない気持ちになってくるのが、食事です。

缶入りの栄養スープ、水状のおかゆ、具の無い味噌汁、ジュース、牛乳を塩化ビニールの袋に入れ、点滴のぶら下がっているスタンドに引っ掛けます。

そして次に、そのビニール袋から伸びている管を、私の鼻に繋がっている管とジョイントして、食事を、口も喉も食道も経由させず、直接胃に送ります。

時間が来ると、まず看護婦さんが栄養スープを袋の中に入れてくれます。

そのスープの注入速度の調整は点滴と同じで、管の太さを調節するつまみで変化させます。

あまり遅く入れると時間がかかるし、早く入れると腹の気持ちが悪くなるらしいので、自分で調節します。

スープが無くなったら、次にお椀を掴んで、おかゆを『自分』でビニール袋に入れます。

その次は、味噌汁です。

このおかゆと味噌汁を、ぽとぽとと点滴で落としながら胃に挿入していきます。

この間、私はぼーっと、点滴の速度を見守っているだけです。

味も素っ気もないとは、まさにこのこと。

看護婦さんによっては、おかゆも味噌汁もいっしょに袋の中に放り込んでしまうし。

ジュースと牛乳だけは、一緒に入れると固まるので、別々に入れるように指示されましたが、指示されなくたってそんなことしたくありません。

そりゃ、胃の中に入れば皆一緒だと分かっていても、「イメージ負け」します。

こんな食事の取り方をしているので、当然その時間は長くなり、その間にトイレに行きたくなったりします。

仕方が無いので、点滴のスタンドをガラガラと引っ張りながらトイレに出向いて、用を足します。

(今、飯を食いながら、用を足しているのかぁ・・・)と思うと、人間なんか、所詮一本の管にすぎない、と言うことを強く実感します。

こう言う日々は、体力より先に、心がだんだんやせ細っていく感じがします。

感染が怖いと言うことで、できれば唾も飲み込むなと指示され、唾がたまったらティッシュに吐き出すくらいですから、体は勿論、顔を洗うことすら満足にできません。

第一、点滴スタンドをガラガラ引っ張りながら、満足に歩くことすらできやしません。

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入院2日目。

病棟内の診察室に出向いた私は、担当医の先生から病状に関する説明を受けました。

受け取った試験管の中には、真っ白な長さ3cm、直径2mmの邪悪な光を発する一本の骨。

この骨が、食道口から2〜3cmの所に両側で刺さっており、もし、無理に引き抜こうとした場合、食道壁を裂いてしまう可能性があったため、まず一方側に深く差し込んで肩端をまず外し、そして骨を縦に立てて、もう一方の端も外しそのまま引き抜いた、とのこと。

食道壁が感染すると、肺、心臓をそのまま直撃して、命にかかわるので、感染症の疑いが完全にはれるまでは、退院できない。

江端:「じゃあ、もしこの骨を刺したまま放置していたら、どうなりました。」

医師:「まず、放置できないね。痛くて痛くて堪らないから。」

江端:「はあ・・。」

医師:「まれに放置して、感染症を発生して、手遅れで死んでしまう人もいるね。一年に一件はある。」

古くは、徳川家康が、魚の骨で死んだと言う話があるそうです。

どうやら、この一件、放置すれば私は確実に死んでいた、と言うことらしいです。

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気分が滅入り方が最高潮に達した頃、嫁さんが見舞いに登場。

嫁さんの顔を見てほっとしたのか、私は気が緩んできてしまい、嫁さんが私の頭の髪を手で梳いた時、不覚にも落涙してしまいました。

私は「あれ?何で?」と驚いてしまいました。

自分でもあまり気がついていなかったようですが、結構痛みなどで苦しかったのかも知れません。

嫁さんの方はさらに驚いて、おどおどしてしまっていました。

私は、彼女にめぐり合えたことを、そして飾ることなく落涙できるパートナーでいてくれることを、今、心の底から本当に感謝せずにはいられません。

嫁さんは、今回の一件のどたばたで随分疲れた様子でしたが、今日も病院の手続きや、必要なものの買いだしなどに走り周り、不便がないように色々と整えてくれました。

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私が、自分でおかゆやらお味噌汁やらを、ビニールの袋に入れて胃の中に流し込んでいるのを、嫁さんは気の毒そうに見ているようでした。

嫁さん:「美味しい?」

江端 :「味なんか、分かるわけ無いよ。」

嫁さん:「どんな感じがするの?」

江端 :「かろうじて分かるのは、『熱い』とか『冷たい』とかかな。注入するスピードを上げると、急激に胃の中が熱くなったり寒くなったりするんだ。味気ないを通り越して、気分が滅入ってくる。」

嫁さん:「それで満腹になるの?」

江端 :「流動食を注入すると、一応空腹感は無くなるんだけどね、満腹感は無いね。何で空腹感が無くなったのか、頭で分かっていても体のほうでは混乱している感じがする。第一、ぜんぜん食事が楽しくない。」

嫁さん:「そりゃそうだろうね。」

と言いながら、二人して、点滴スタンドにかかった牛乳の入ったビニール袋を見上げました。

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ここの病院の看護婦さん、いい人もいるのですが、全体的に愛想が悪いようです。

加えて、流動食の管を間違えて差し込んだり、点滴の管に空気を入れてしまったりします。

特に嫁さんが面会に来ている時に限って、こう言う失態をすることが多く、夫婦でひやひやしています。

丁度、前日『報道特集』という番組で、医療現場の医療ミスに関する特集番組が組まれていました。

最近、医療現場で、医療ミスによる患者の死亡事故が続いています。

大抵の場合、病院側の適切な証拠隠滅(病院内での解剖+即時の火葬処理)で闇に葬られる場合が多いのです。

これは患者あるいは遺族が、圧倒的に医療機関より立場が弱いことに他なりません。

専門用語で畳み掛けられれば、素人が太刀打ちできるわけがありません。

私は嫁さんに、万一私が病院の中で、訳の判らん死に方をしたときには、絶対に病院で解剖(病理解剖)させることを許可せず、直ちに警察に連絡し、しかるべき機関で「司法解剖」をするように、念を押して言い含めておきました。

閑話休題

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入院3日目。

午後の診察で、喉や食道口の傷が収まったと判断され、70時間鼻から胃に差し込まれつづけていた管が抜かれることになりました。

診察していた医師が、その管をつかんでゆっくり引き抜き始めると、その管はどこまで引いてなかなか途切れず、まるで口からテープを引く抜く手品を見ているようでした。

管が抜かれていくときは、鼻と喉を管がすり抜けていくくすぐったい感じで、私は涙と鼻水が吹き垂れて来ました。

そして、その管が完全に体外に出たときの、快感 ---------。

体に巻き付かれていた鎖がはじけ飛んだような、いや、もっと格調高く説明するのであれば、ゴルゴダの丘で十字架に足と手のひらを鉄の杭で打ちつけられたジーザスクライストスーパースターが、冤罪判定通知を受け取ったローマ帝国の役人の手によって、十字架から外され、その下に準備されたタンカの下で手当てを受けながら、ようやく安堵の笑顔を見せたときのように-------

ううむ、やはり、この快感を説明するのは、難しい。

難しいから説明しないけど、とにかくもの凄く気持ちがよい。

診察室から出た私は、思わずスキップをしながら、病室に戻って、その足でタオルと石鹸を持って、洗面室に駆け込みました。

実に70時間ぶりの洗顔。

そして、その後わずかに残っていた喉の痛みも嘘のように引いていきました。

もしかして、喉の痛みの半分以上は、この管の責任だったのかもしれません。

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そして、その日の夕食。

それは、5分のおかゆと味噌汁、それと野菜の煮込み、それとちょっと怖かったのですが、魚の煮物がありました。

それらは、いわゆる病院食と言われるもので、勿論味など何も期待できない食事であることは判っていました。

でも、本当に美味かった。

味がどうこうと言うのではありません。

食事と言うのは、勿論舌で味わうことは言うまでもありませんが、同時にその触感を、喉で、食道で、さらに胃で楽しむことで、初めて完結すると言う事を痛感しました。

どこにも痛みが無く、顔が洗えて、そして口から食事ができる。

そして、今の私には遠い夢ですが、これに毎日風呂に入れたら、それ以上の何を人生に何を望むことがありましょう。

退院は、あと3日後の予定です。

感染症の不安を完全に払拭するまでは、絶対に退院させないという病院側の姿勢は、医療現場の立場からは当然そう言わざるを得ないだろうし、いきなり退院して仕事の前線に出れば、体力が消耗し、感染症が発生しやすくなる点からも妥当な処理だと思います。

課長には、「このド忙しい、本当にいい時期に休んだねぇ」と嫌味も言われていますが。

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4人部屋のこの部屋の中には、かなり年老いた方も、私と同じように鼻から食事を取っている方も、また、声が出せないだけでなく、からんだ痰を吐き出せなくて、夜中に悲鳴にも似た咳をしながら苦しんでいらっしゃる方もいらっしゃいます。

真夜中にその悲痛な咳き込み方を聞くだけで、今の私にはその方の苦しさ、辛さ、悲しさが手に取るように判るのです。

ですが、その苦しみをどんなに理解してやろうとしても、どんなに我が身に感じ様としても、その人の苦しみには、絶対に、絶対に、絶対に及ばないのです。

その人の苦しみは、その人だけのもので、誰のものにもならないのです。

私のこの事故を契機に、私は病室で嫁さんとゆっくり話をすることができました。

私達は、結婚した時から、お互いに「苦痛を伴う延命処理を全力で阻止する」と言う認識で一致しています。

気軽に言える本人の苦痛を無視した無責任な生命賛歌は、私達夫婦と関係の無いところで好きなようにやってくれればよい。

私達夫婦は、お互いの苦痛からの開放のためには、たとえ罪に問われようが、何だってするつもりです。

私達は、この誓いを病室で再度確認し合いました。

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昔、友人に、『「闘病」って何だろうね。結局病で死ぬなら、その闘いは負けたってことなのだろうか』と言う質問をしたことがあります。

友人は、流石に「ばかもの!」とは言わなかったけど、私のこの考えを叱咤を込めて改めてくれました。

『闘病とは、その人の生きる姿勢であり、その病と闘っているその生き様自体に価値があるものなの。その命を賭けた闘いの中に、命の輝きを見るからこそ、意味があるの。勝ち負けじゃないのよ。』

確かに、そういう生き方は素晴らしいし、人にも感動を与えるでしょう。

だが、敢えて言わせて頂きます。

それがどうした。

私は人の為に生きているんじゃない。

苦痛を伴う延命で、その命の持ち主たる私が苦しむなら、何の価値がある。

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安楽死に関する法案の可決は難しそうですし、私個人に関しては法案が可決しなくてもよいし、むしろ、可決しないほうが良いと思っています。

なぜなら、安楽死にかこつけた犯罪は、私だって恐ろしいと思うからです。

それに、法があろうがなかろうが、私にはどうでもよいことなのです。

私の命に関することは、私の命の持ち主たる、この「私」が決定するからです。

世界を席巻しているある宗教では、命は神からの贈り物であり、人間にはその贈り物を最大限利用する責務があると説いています。

笑わせるな。

贈り物なら、きちんと品質保証した物をよこせ。

持ち主が苦痛に苦しむような品質の贈り物なら、最初からいらん。

しかし、少なくとも「神」とまで呼ばれる何者かがそのようなことをするわけが無いとも思うわけで、従って「神」が存在するかどうかはともかくとして、命は命の所有者のものである、と私は思うのです。

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勿論、私のこの過激な考え方に、抗議したい人も多くいるだろうと思います。 「生命の尊厳軽視も甚だしい!」と激怒している方もいるでしょう。

私は、これらの方からの抗議を受け付け、公開の場で討論をすることにやぶさかではありません。

私はどんな議論も受けて立つつもりです。

来なさい!

ただし、私に抗議に来る方は、必ず以下の事項を実施した上で来ることを忘れないでください。

鼻穴から、喉、食道を経由し、胃の中に至る塩化ビニール管を通し、そのビニール管を通して、最低7食の食料を注入し、70時間以上その管を維持したまま日常生活を続けること、勿論、この間一滴たりとも水分、食料を口から摂取してはならない。

この行為を実施したと言う公的な証明書を付けて、私のところに来てください。

きっと実りある建設的な議論ができると思います。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)