「ベル友・雅文化への復古」
11月3日のNHKスペシャル「ベル友(べるとも)・12文字の青春」と言 う番組で、私はようやく最近のポケットベルの使い方を理解しました。
顔も見たこともない者同士で12文字のコミュニケーションを取り合うとい う、「ベル友」と言うシステムは、おおよそ次のプロセスを取ります。 ここではA君という高校一年生の青年を例に挙げて説明します。
(Step.1) A君は情報誌などに「ベル友募集」と言う公募を出し、A君のポ ケットベルの番号などを公表します。
(Step.2) 情報誌を読んだ読者は、A君の公開したポケットベルの番号に、 自分のポケットベル番号と名前(『ミコ』『ヨッチャン』など のあだ名など)をメッセージとして送信します。
(Step.3) 当然A君のポケットベルには、全国の「ベル友」を希望する人た ちからメッセージが届き、一日中ポケットベルが「ピーピー」な り続けます。
(Step.4) A君は、全国から集まったメッセージ(番組では200人くらい は来ていた)の中から自分の条件にあった(彼は、女の子の通っ ている高校の偏差値を調べていた)人の中から、一人あるいは複 数選んで、その人たちを「ベル友」とします。
この後、A君とこの「ベル友」は、お互いに12文字のメッセージを毎日交 換し会うわけです。
さて、このメッセージの送り方ですが、これは至極簡単。
例えば「イイヨ」と言うメッセージを送る場合を考えます。
最初に、相手のポケットベルの電話番号をかけます。その後に、「イイヨ」 に相当するメッセージ(12・12・85)のダイヤルを押します。これは母 音(ア段→1、カ段→2、サ段→3・・・)と子音(ア行→1、イ行→2、ウ 行→3・・・)の組み合わせで作れます。
ただし、ポケットベルに送れるメッセージの長さは、ポケベルのディスプレ イの制限から12文字が限界です。ですから「ベル友」は、12文字のメッセ ージを送る度に一回づつ発呼しなくてはなりません。
私が本当に驚いたのは、彼らが12文字のコミュニケーションを、『インタ ラクティブ(相互同時)』に使っていた、と言うことです。
信じられますか?
彼らは、12文字のメッセージを送っては受話器を置き、ポケベルでメッセ ージを受け取っては、再び12文字のメッセージを電話機から送るのです。
これを何度も続けて「双方通信の会話」を成立させているわけです。
私はこの番組を見ていて、唖然とした想いと、常識外れの思慮のない若者に 対する憤った想いに満ち溢れました。
(何てことをするんだ! 通話料がもったいない!!)
これだと、言葉のやりとりを20回するだけで、A君は最低200円のコス トがかかっていますし、相手も含めれば400円以上のコストがかかっている ことになります。
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もう少し、具体的にA君と「ベル友」との通信の様子を説明しましょう。
A君は、「ベル友」の電話番号に電話をかける。 『キョウハ?』と言うメッセージを打ち込む。 A君、電話を切る。
数十秒後、「ベル友」から 『ダメダッタ・・・』と言うメッセージがポケベルに入る。
A君、再び電話をかける。 『ガンバッテネ★』と言うメッセージを打ち込む。 電話を切る。
数十秒後、「ベル友」から 『アリガト』と言うメッセージがポケベルに入る。
これだけのコミュニケーションで、 −−−しかも、相手の顔も名前も住所 もなーんにも知らないで−−−、すでに40円、時間も数分以上はかかってい ます。
最も、彼がメッセージを送る為にプッシュダイヤルを入力する速度は、ベテ ランキーボードオペレータの入力に匹敵する驚異のスピードでありましたが。
この不思議な通信手段による「ベル友」の会話時間は、一日2時間にも至る と言い、一月の電話代は軽く2万円を超すそうです。
それにしても、電話会社に取ってはこんなに有り難いお客さんはいないでし ょう。
1フレーズ(最大12文字、漢字無し)=1発呼。
未だかつてこれほど贅沢な電話の使用方法があったでしょうか?
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NHKスペシャル「ベル友(べるとも)・12文字の青春」では、A君の日常 を紹介する形で進行して行き、ついに面識など一度もない「ベル友」同士のカ ップルが、始めてお互い対面するシーンで佳境に至ります。
私は、『こんなにどきどきする番組、久しく無かったなあ・・・。』としみ じみと思いながらテレビに見入っていました。
駅のターミナルで、始めて出会うことをポケベルで約束した二人。
A君と「ベル友」の彼女の二人は、『もし気に入らなかったら、声をかけな いで立ち去る。』ことを、お互い決めていました。
公衆電話に向かい、凄い勢いでプッシュダイヤルを叩いて、メッセージを送 って自分の位置を知らせるA君。
「デンワノマエ」
しかし、近くにそれらしい人もいなく、何度も何度も「デンワノマエ」を、 懸命に打ち込むだけの彼の姿は、見ていて痛々しく有りました。
(うーむ、これで彼女が彼に声をかけに来なかったら、彼は日本中の『さら し者』になるなあ。)と心配しながらも、私は手元の水割りをぐいっとあけて 、さらに画面に食い入っていました。
そうしていると、彼のポケベルに彼女からメッセージが入ります。
「カイサツノマエ」
5メートルの距離に満たない距離にいる彼らは、電話機に向かいながら、は るばる自分の位置を伝えるために、公衆回線を使ってなんどもメッセージの交 換を続けているのです。
しかも、彼らは両方とも自分から相手に直接声をかけることが出来ないので す。
(ええい!アホか!!お前らは!!!)
私が、大爆笑をしながらこの場面を見ていたことは、皆さんにとっても想 像に難くないと思います。
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しかしながら、日本史をじっくりと紐解いてみますと、有史以来こういうコ ミュニケーションが、そこいらじゅうにあったことが分かります。
平安時代、男性貴族達は、通い妻制度という、「気に入ったときに、気に入 った相手に会いに出かけて、エッチをして帰ってくる。」と言う、実に一方的 な婚姻制度を確立させ、農民から搾取を続けてのんきな権力闘争にあけくれて いました。
この時代の話で、私が『ものすごい話だなあ・・・。』と思ったことの一つ に「夢」の話があります。
平安時代には、心理学や精神生理学の概念などあろうはずもなく、睡眠中の 「夢」と覚醒中の「現実」を明確に区別する考えが無かったそうです。
ですから、夢の中に異性の相手が出てきた時、それは「相手が私のことを愛 しているのだ。」と思いこんで良かったのだそうです。
現代から考えれば、随分身勝手な思い込みが許されたものです。
ま、それはさておき。
平安時代には、相手にラブレターを送るときに、「俳句」「短歌」に想いを 乗せて送ったことは有名です。
定型文章に、抽象構文で書かれた文章を、お付きの介添え人(?)に渡して 、その介添え人が、御簾の奥におわすお姫さまに渡すという、非常に面倒な手 続きを経て、「愛のメッセージ」を渡していました。
さらにその返事をやはり抽象構文の返歌の形で、逆のプロセスを経て送り主 に返すと言う、非常にわずらわしい手続きをして、想いを交換しあっていたの です。
「俳句」「短歌」と言うのは、壮大な「情報圧縮技術」です。
制約された文章の中に、幾通りもの解釈を組み込み、壮大な宇宙を構成する この文化は、MPEG(*1)や、ハフマン圧縮(*2)などでは不可能な程のデータ圧縮 と、さらに送り手の予想もしないようなデータ解凍を可能としてしまうのです。
(*1)(*2)画像や動画の情報を圧縮して伝送する方式。
決められた字数の制約の中で、さらに季節を表現する言葉を入れねばならぬ などの規則で雁字搦めに縛られたこれらの文化は、一言で言えばSM(*3)文化 です。
『ああ、もっと強く縛ってぇ〜!』と言う快感を、俳人たちに与え続けたこ の「俳句」や「短歌」。
日本の有史以来、脈々と確実に伝えられてきたこの文化の背景には、案外こ のSM的な要素が大きな要因だったのではないかと、私は思っています。
(*3) サディスティック/マゾヒスティック的な
勿論、情報通信の常識から言えば、プロトコル(*4)は煩雑、情報内容が不明 瞭、山のようなバーストエラー(*5)が発生したであろう、ろくでもない意思伝 達手段と言えましょう。
しかしながら、おおよそ文化というものは、畢竟「無駄」そのものでありま す。
その人類が長い間培ってきた「恋愛」と言う行為を見ても、その非合理的、 非論理的、コスト、エネルギーポテンシャルを完全に無視した、巨大な「無駄 」の集大成であることは間違いありません。
(*4)通信手順の約束、通信規約 (*5)連続的に情報伝達が失敗すること、あるいは誤った情報が伝達されること
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そして今、徹底的な合理主義が追い求められるこの世の中にあって、若者達 はついに「雅やかな文化への懐古」を始めたのです。
コストや時間というような、現代社会の絶対的な価値の指標を無視して、彼 らは、わざわざ効率の悪い「無駄」を始めました。
直接言葉を交わすことなく、限られた文字数の中に、万感の思いを込めて、 彼らはメッセージを発信し始めたのです。
彼らの「ベル友」文化の中には、次のような暗黙のルールがあります。
それは、『メッセージの中に「ハート形の文字」を加えられる関係になれる か』と言うことです。
この「ハート文字」を加えることが出来れば、サイバー世界(あるいはポケ ベルネットワーク)で恋人同士になった、と言う証明になるのだそうです。
勿論、これらの文化を『気色悪い』と一蹴することは簡単なことです。
また、『電話代の計算もできないのか、アホー』と嘲ることもできます。
『一人前に異性と会話も出来ない臆病者め。』とも『デートを企画すること も出来ない半端者』と罵ることもできるでしょう。
しかし、わが身を振り返ってみるに、「電子メール」と言う文化がようやく 通常の通信インフラ(*6)として扱われるようになった昨今まで、私はこの世界 で冷遇されてきたと言っても過言ではないと思います。
毎年毎年、年賀状にはメールアドレスを記載し、友人がメールアドレスを取 得したと聞けば、勝手にMLアドレスに追加してしまい、山のようなメールを 投げ続けたものです。
最近では、結婚式の披露宴の乾杯の音頭で、大学時代の担当教授から『新郎 の送信してくる膨大な電子メールで、多くの大学OBが迷惑しております。』 と冗談交じりに指摘されたこともあります。
それでも、私は一生懸命に「メールエッセイ」と言う文化を確立し、『江端 のメールはあきらめるしかない』と言う、皆の共通認識を勝ち取り、ついに『 こぼれ話ML』のメーリングリストの設立にこぎ着きました。
実に5年にも渡る長い長い道のりでした。
(*6) 基盤施設
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インターネット人口が一億人を突破している今でさえも、自分に理解できな い新しいコミュニケーション形態を迫害しようとする人はどこにでもいるもの
です。
旧勢力は、こういう新しいトレンドを開拓しようとする者を、常に冷遇し、 排除しようとします。
電子メールしかり、WWWしかり、古くはワープロがそうであり、さらに古 くはアマチュア無線がそうであり、パソコンキットTK-80を組み立ててゲーム をやったりデータ計算した奴は、『おたく』のレッテルを貼られて、全人格が 否定されるような酷い迫害を受けたものです。
しかし、やがて私たちも旧世代となります。そして、次の通信トレンドを理 解できなくなるのは時間の問題です。
その時に、私たちが『次の世代にどのような態度で向き合うことができるか 』と言う視点で、私たちの世代の資質が問われるようになるのです。
私達は、私達の次の世代が作り出した新しいコミュニケーション形態「ベル 友」を、少なくとも非難する側に立って論じてはなりません。
また、「電子メールでやれよ。」と言うような自分達の都合の良いトレンド に会わせた方向で、彼らのトレンドを誘導してもなりません。
はたまた、「電話で直接相手と話せよ。」などというような、−−−
それは、まるで源氏物語の主人公、光源氏が、藤壷の君に向かって御簾を手 で押し開けて直接喋りかけるような、無粋で趣も何も無いような−−−、 そのような雅文化を破壊するような、バイオレンスなアドバイスをしてもなら ないのです。
私達に出来ること。
それは、彼らの「ベル友」ネットワークに限っては、例えば「秒単位」の課 金(*7)を実現させるように、NTTやNCC各社に圧力をかけることや、ポケ ベルにプッシュダイヤルを付けて、何度もリダイヤルすることなしに安価にチ ャット通信が出来るようにして、彼らの文化を後方で支援してあげることでは ないでしょうか。
(*7)例えば、3分10円の料金形態から、1秒5.5銭の料金形態にするな ど。
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ポケベルと電話という、近代通信機器を使いながら、雅文化への復古を開始 し始めた、若者達。
その文化を「非合理的」とか「ナンセンス」と呼ぶようなら、呼ぶ者こそが 雅趣を解さない無骨者であり、田舎者なのです。
彼らの次の世代の若者達、すなわち私達の子供達は、平安文化から飛鳥時代 を経て旧石器時代の文化への復古を開始するようになります。
彼らは、自分の学校の裏庭の焼却炉から、色とりどりな狼煙(のろし)を上 げて、隣町の女子校の女子生徒に向けて愛のメッセージをやりとりするように なるでしょう。
私はその時、我が子が生まれて始めての異性に贈る、青い空一杯に広がった 愛のメッセージを、温かい思いで眺めながら、彼らの成長をゆっくりと優しい 目で見守っていくような、そんな大らかで心豊かな大人でありたいと、心から 思っています。
そして、願わくば皆さんにも、そう言う親になって欲しいと願っているので す。
(この「江端さんのひとりごと」は、コピーフリーです。全文を掲載し、内容 を一切変更せず、著者を明記する限りにおいて、自由に転載していただいて構 いません。)