江端さんのひとりごと            「江端号、反転!」(中編)  そもそもスキーというのは、険しく辛く、そして時としてはもの悲しく、し かもその広がりと深さは宇宙を包含すると言っても過言では無いほど深淵であ ります。  スキー場というのは、膨大な電力を消費して人間を重力加速度方向と逆の方 向へ運び、位置エネルギーを速度エネルギーに変換すると言う、エントロピー を増大させるだけのものであり、森林伐採などの環境破壊も甚だしく、冬のシ ーズン以外の利用方法はない、おおよそ『地球にやさしい』と言うキャッチフ レーズの対極をなすだけのものであります。  スキーそれ自体にしても、人間が快適に過ごすにはあまりにも過酷な環境− −吹雪によるホワイトアウト、顔面全面凍傷、氷点下20度風が正面から打ち つけながら成す術のないシングルリフト、蟻地獄状態と化して独力で脱出不可 能と化す新雪ゲレンデ−−であり、滑落、転倒、衝突事故など−−ストックで 腹にボディーブローを喰らい、外れたスキー板に殴打され、スキーコントロー ルの出来ない初心者にすべての進行方向を遮られ、崖の寸前でストップを余儀 なくさせられる恐怖−−は、茶飯事です。  さらに、自分の身長以上の棒板を足で振り回すという非日常的行為は、通常 から運動不足気味の我々現代人の筋肉を極限まで酷使し、その後遺症からの回 復には数日を要します。  私の母親は言います。  『寒くて、痛い思いして、酷い怪我をすることもあって、それでいて上から 下に降りるだけでしょう?』  この台詞に対して論理的に反論できるスキーヤーがいたら、是非ともお会い したいものです。  -----  『楽々スキー with えばたビール』の一行がスキー場に到着し、新幹線に乗 ってきた久保川君と合流したのは、午後12時30分。  あらかじめ決めておいた周波数433.68MHzを使って、お互いのトランシーバ で連絡を取り合い無事合流することができました。  「6時半に起きたの? 俺は11時に起きて、同時に到着だが。日立の『楽 々』って世間一般の概念と違うなあ。」  としみじみと言う彼に対して、返す言葉はありませんでした。  昼食を取った後、リフトの午後券を買い我々はゲレンデに出ました。  神立高原スキー場は、新雪フリーク達の願い通りの最上の雪質で、雪を踏む ときに『キュ!』と言う小気味の良い音を上げます。  スキー板を雪面に倒し、ビンディングを蹴って雪の固まりを振り落とすと同 時に、勢いよく踵を踏み込みます。『ガチャ』と『パシーン』が混ざった軽快 な音が聞こえると、嬉しくてぞくぞくしてきます。  リフトの終点駅で降りてから、少し進んだ所にある小さなスペースで、バッ クルを固定します。スキーブーツの硬化プラスチックのシェルを、バックルの 金属が叩くとき『パン!』と言う音が、目の前に広がるゲレンデの雪に吸い込 まれていきます。  山頂付近に吹き荒れる突発的な木枯らしに混じって聞こえてくる、リフトの 始発駅の『ピンポーン』と言う電子音を聞きながら、ゲレンデの最高地点に立 つ私のテンションは最高潮に達します。  今回のスキーイベントでは、まだ初級者の域を出ることの出来ない嫁さんを 常に後方で見守っている必要があり(と言うのは、嫁さんはビンディングと相 性が悪く、一度スキー板が外れたら取り付けることが出来なかったから(*3)) 、私はあまり自由にゲレンデを滑り回ることはできませんでしたが、それなり に楽しむことは出来ました。 嫁さん:「え、ここ本当に中級コースなの?」 江端 :「ちょっときつめだけど、こんなの十分『中級』だよ。」  と言いつつ、私は嫁さんは上級コースに連れていき、結果的にゲレンデの最 上部からたたき落とすことになります。  お分かりでしょうが、私は、嫁さんの考えている『定義』と私の主張する『 主観』をわざと混同して扱っているわけです。一種のレトリックです。  勿論私としては、愛する妻を騙すつもりなど毛頭無いのですが、不幸なこと に、私は見積もりを誤ることもあるわけです。    まあとにかく、どんな急斜面でも決して大滑落することなく、結果的に無事 に降りてきてしまう嫁さんの技量を、私は内心感心しているのです。  (なぜ、あの荷重とストックワークで、こぶ斜面を降りていけるかなあ?)  今でも、上級コースのこぶ斜面をボーゲンで降りて行き、しかも絶対途中で 止まることをしようとしない嫁さんの後ろ姿は、私の視界の中でたちまち豆粒 のように小さくなり、私は慌てて猛ダッシュをして追いつかねばなりません。  「ストップ!ストップ!ストーーーーップ!!」  大声で嫁さんの後ろから叫ぶのですが、嫁さんは止まりません。  (ありゃ、全然聞こえていないな。)  彼女の進路の前に出て、後ろ向きにターンをして、『止まれぇぇぇぇ!』と 叫ぶと、嫁さんははっと気が付いたように止まります。  そして、今夢から覚めたと言うような呆然とした顔で、「あ、智一君・・・ 。」と呟くのでした。  -----  スキー人口が減っていると聞きます。  大変結構なことです。  スキー場は簡単に別のアミューズメント施設への転用が出来ませんし、閉鎖 も出来ません。従って、日本からスキー場の数が減ることはないでしょう。  現在日本は、すべてのリフトで『待ち時間0分』となるスキー王国への輝か しい道を歩み出しています。  この王国への道に立ちふさがるのが、来年に控える冬季長野オリンピック。 これ以上のスキー人口を増やしかねない、このイベントをどのように劇的に失 敗させるかと言うことが今後の課題となります。  全てのスキーヤーは今こそ決起して、長野道封鎖、降雪抑制技術の開発、必 要に応じて成田空港の南北のウイングを同時爆破するなどの作戦を今から立て るべきかもしれません。  しかし、スキー人口が減ってきた本当の理由は別の所にあるのではないか、 と私は考えています。  それは、初心者の育成問題です。  さあ、思い出して下さい。  あなたが一番最初にスキー板を付けて、午前中ボーゲンを教えて貰って昼食 を食べた後、あなたの友人はあなたを何処に連れていきましたか?  まあ、間違いなく『チャンピオンコース』に連れて行かれたと思います。  ゲレンデの始まる崖のところに立っても、ゲレンデが見えないほどの急斜面 。人間の降りるところとは思えない人工の絶壁。  ひきつった表情で振り向いたあなたが目にしたのは、素晴らしい笑顔で微笑 む友人でした。  「急斜面で滑ると、荷重移動の感覚がつかめるから。」と言いながら、彼は あなたがゲレンデで地獄を見るのを待っていたはずです。  今なら分かるのですが、手っ取り早くスキーを上達させるこつは、『恐怖心 の払拭』にあります。  チャンピオンコースの極限の恐怖を味わった初心者は、その後恐怖の感性が 麻痺し、スキー技術に集中できるようになります。また、急斜面の滑走で荷重 移動の感覚を掴めるのも、確かに事実です。  短期間でスキー技術が上達した人物と言うのは、例外無くこの恐怖の洗礼を 受け、そして見事に打ち勝ったものなのです。  だが、そこに『愛』はあったのでしょうか?  このような洗礼は、初心者スキーヤーに取って、特に短期間で爆発的な上達 を遂げたいと願う初心者であればなおのこと、「愛のムチ」とも「泣いて馬謖 を斬る」(明らかな誤用)と言うことも出来ましょう。  しかしそれ以上に、そのような残酷な洗礼を施したあなたの友人は、楽しん でいたのではないでしょうか?  こぶ斜面で『どっかーん』と言う音を立てて吹っ飛び、崖のようなゲレンデ をしがみついた蛙のような姿で滑落していく初心者は、上中級者のよこしまな な自我を十分に満足させてくれます。  そして、ぴくりとも動かない初心者の横にさっそうと滑り降り、手を差し出 すと言うチュエーションは、日常生活で簡単に得られるものではありません。  そうです。初心者の育成は名ばかり。  その実、初心者を育成する者は、とても『楽しかった』のではないかと、私 などは邪推してしまうわけです。  だって、私は『うまくなりたいから、厳しい練習をお願いします。』などと 、一度だって頼んだことはないのです。必ず上級者が、嫌がる私を無理矢理に チャンピオンコースに連れていったんです。未だ、この法則に例外は見あたり ません。  こうして、厳しい自然淘汰・・もとい、人工的淘汰に打ち勝ってきた数少な いスキーヤーのみがゲレンデに生き残ることになります。反面、アイロニーな 見方をすれば、スキー以外に楽しい娯楽を見いだせなかった悲しい大人達だけ が、ゲレンデに置き去りにされた、と見ることもできるのではないでしょうか ?  ここに私は、『スキー人口の増加を抑制したものは、実はスキーヤー自身で あった。』と言う大胆な仮説を投げかけたいと思います。  散々世話になり、私を育成する時間はゆうに100時間を越え、その教え方 は論理的に的確で、私を一人前のスキーヤーとして育ててくれた恩師である久 保川師匠@野村総研、ならびに地平師匠@IIJに、私は今、勇気を持って問 うてみたいと思うのです。  -----  一方、この状況を上級者の側の視点に立つと、また面白い分析ができます。  まともに立つことも出来ないような急斜面で、スキーを外して倒れている初 心者スキーヤー(しかも若い女性なら言うことなし)が途方に暮れています。 上級者であるあなたは(ここであなたが男性だと仮定するが)彼女の外してし まったスキー板を脇に抱えて彼女に近づき、スキー板を乱暴にゲレンデに置く と、彼女の後ろ側に立ち両脇を抱えて彼女を抱き上げます。  セクハラだ、と私は思います。  しかし、全ての状況が−−被害者が、救援者が、そして回りの観衆さえも− −それを『是』とする非日常的空間、それがスキーと言うものなのです。  また、このようなこともありました。  私の学生時代の後輩の妹に、「ユカ」と言う名の陽気で明るくて性格もよい 可愛い女の子がいました。私達大学の研究室の仲間は、彼女の企画したスキー ツアーによく参加したものです。  しかし、彼女はゲレンデでは全然もてませんでした。声をかけてくる男は、 全く皆無だったと聞きます。  なぜでしょう。  理由は明快、彼女のスキー技術が平均をはるかに越えるものだったからです 。チャンピオンコースのこぶ斜面を華麗に舞い降りるその姿は、リフトから見 ていても、その部分だけがスポットライトに照らされているのではないかと見 まごうほど気高く美しく実に見事なものでした。  その技術は、完成された神の領域にいると言っても過言ではありませんでし た。  という話を彼女にしたところ、彼女は『私、転ぶわ!』と叫んでいました。 しかし、内心私は無駄だと思っていました。  そして事実無駄でした。  転んだって女王様は女王様。  普通の女性が得ることの出来なかったものを得ることの出来た彼女は、普通 の女性が比較的簡単に得ることの出来るものを手放すことになったのです。  まことにスキー道とは奥深いものです。   〜〜〜〜 E-mail:See http://www.kobore.net/mailAddress.gif 〜〜〜〜〜 (If you would like to enjoy your life, send message "subscribe kobore" to majordomo@iijnet.or.jp .)