第5章 Dear Scene



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第5章 Dear Scene

朝の6時頃一度目が覚めたが、ウイスキーの一気飲みをしてさらにもう2時間眠る。 披露宴は午後からであるので、とにかく睡眠時間の確保に努めた。

モーニングコールのベルの音で本当に目を覚ます。

風邪の症状は少し治まっていたようで少し安心するが、浴室の鏡をのぞき込むと、な んとなく疲れた顔をしているようにも見える。

こんな時は化粧のできる女性がうらやましい。横浜に戻ったら、男性化粧品の使用を 考えてみよう。

最上階のラウンジで、バイキングの朝食を取る。

このラウンジの窓も神戸港に面していて、足元から天井まで仕切の部分がない。大き なシネラマの画面で風景を見ているような気分になる。

窓際の席は恋人と思われる若者や、旅行中の夫婦が座っている。口数が少ないカップ ルもいれば、朝から二人でひっついてはしゃいでいるカップルもいる。

さすがは一流のホテルだけのことはあり、どの食べ物も飲み物も素晴らしく美味しか った。特に私は牛乳に関して、私は一言を持つ者であるが、実に美味しかった。

コーヒーをすすりながら今日の天気を見る。すこし曇ぎみであるが、雨がふることは なさそうだ。この季節としては少し寒いくらいの日である。晴れてくれるとよいのであ るが。

祝儀袋を買うのを忘れていたので、電話でフロントに問い合わせると、地下の食堂街 の中に、専門店があると聞き一安心。

地下の売店が開く時間になったので、部屋を出てロビーに出ると、偶然そこで新郎に 出会った。丁度新郎のご家族が揃っていたので、紹介して貰う。そういえば、古田さ んとの付き合いは結構長いが、一度もお家の方には合ったことがなかった。

家とか、親戚と言うようなしがらみも何もなく、ただ一友人として付き合うことので きた日々は、結構貴重だったのかも知れない。

お母上に「この度は、ご面倒なことをお願いいたしまして・・」と言われすっかり恐 縮してしまう。実際のところ私は、本当に面倒なことを引き受けるような殊勲な人間で はない。今回の場合、「面倒」より「面白そう」が勝っただけである。

「いえいえ、騒がしいだけの宴会にしてしまうかもしれませんので。」とお返事した が、社交辞令でなく本当にそうなる可能性が大きいのである。

ホテルの地下一階にある、贈り物の専門店に行く。
「祝儀袋を下さい、ええ友人の結婚式です。親しい友人です。」
「どれにする?」お店のおばさんは、私に3つの種類の祝儀袋を見せて言った。
「あの・・、これくらいの予定なんですけど。」と私の差しだした指の本数を一瞥する と、一つの袋を選んでくれた。
「あの〜〜、申し訳ありませんが、ついでに教えて欲しいのですけど。」
と私は、お金をいれる方向、包み方、名前のいれ方など全て教えて貰って、そこで筆ペ ンを借りて、作業を始めてしまった。
「最近の若い子は、こういう常識的なことをちゃんと教えてもらっていないのかね。ほ らほら、そこは「〆」と書いてはダメ!、「寿」って書いて封をするのよ。」
「あの〜、『ことぶき』って横に何本の棒ありましたっけ?」と言うと、おばさんはま すます困ったように、と言いつつもどことなく説教しているのが楽しそうに、ささっと 紙にサインペンで字を書くと、私に見せた。
「ちゃんと字くらいは書けないとね。」
「これから、あんたたちはたくさん結婚式にでるのでしょ。」
「もっと社交的なことも勉強しないと、恥かくよ。」

残念ながら、全くその通りである。一言も言い返せない私である。

一生懸命に筆ペンと格闘している私に、おばさんが尋ねる。
「あんた、今日スピーチでもやるの。」
「あ、はい、いや、司会者です。」
おばさんは驚いたように、
「そりゃー大変だね。今、緊張しているでしょ!」
世話を焼いてくれるおばさんに対して『そんなことないです。』と言うことが、何か とても申し訳ないような気がしてきたので、
「はあ、少し。」
と言う。

おばさんは非常に満足したように、大きく頷いたのであった。

まあ、なにはともあれこのおばさんのおかげで、色々助けられた。心から礼を言って 店を出た。私の背中に「がんばってね。」と声をかけてくれたおばさんであった。

部屋に帰る途中、ロビーで新郎新婦のペアに偶然出会ったので、最後の打ち合わせを 私の部屋で行うことにした。新婦のおばあさまが、和歌を読まれたので披露して欲し いとの依頼の他には、特に変わったこともなく、進行スケジュールの時間を確認した。

3人で最後の打ち合わせをしている風にしながら、私は今日結ばれる二人を風景を見 るように眺めていた。ずっと昔から、この二人がこうして椅子に座って話しているこ とを知っていたような気がする、不思議な気分である。
懐かしい風景を見ているようである。

「遥か昔に決まっていたことが、たまたま今日やってきただけ。」と言う感じの二人 。愛情とか信頼とか言うものの奥底にある何かが、どんな冒険や経験でも決してたどり 着けない確固としたものが、そこにあった。

それは、私にはないものであった。

再び一人になって原稿の暗記をしていると、いつの間にか12時30分前。

チェックアウトの時間が迫ってくる。私は黒の礼服に着替え始める。買っておいた黒 の靴下を履き、白いネクタイをしめる。

白いハンカチをスリーピークになるように折り畳む。寮の部屋で何度も練習したおか げで、うまくチーフを作ることができるようになった。右のポケットに差し込んで高さ を調節する。鏡の前で色々な角度で立ってみる。

完璧!

最後にもう一度だけ、通して練習をしてみる。満足とは言えないが、チェックアウト の時間が迫っているので、やむなく荷物を持って部屋を後にした。



Tomoichi Ebata
Sun Feb 4 19:11:56 JST 1996