江端さんのひとりごと             「停滞党宣言」           (第2章 第1項 続編1)  一方、このような「未来への羨み」転じて「未来への呪詛、嫉み、嫉妬」 に対し、その逆方向の動きも無い訳ではない。  「過去への憧憬」、すなわち「昔は、よかったわねぇ〜。」である。  「昔は、自然がいっぱいあってよかったわねぇ〜。」「昔は、この辺も静 かでよかったわねぇ〜。」「昔は、農薬の心配なんかしなくてよかったわね ぇ〜」などが、それに該当する。  この項目に当たるものは、主に自然環境、住宅環境、土地問題、受験戦争 、就職難などのように、時間の経過と共に常に悪い方向へ傾いていくものに 対して向けられることが多い。そして、現在の劣悪な環境に対し、自分達が いかによい時代を過ごしたかを自慢げに語ると言う形で発現する。  さらに、これらの「過去への憧憬」は前述した「未来への羨み」に対して 、時として真っ向から対立する形としても現れる。  「機械で書かれた宛名書きの年賀状なんて、欲しくないわ。」  「自分がどこにいても会社から電話されるなんて、考えただけでもごめん だ。」  特にひどい攻撃を受けた3大アイテムは、ワープロ、パソコン、携帯電話 である。この3大アイテムに対しては、デジタル世代に立ち向かえない大人 達は勿論、言論人、知識人と言われている多くの人間やほとんど狂気と言え るほどの攻撃が行われ、数年前には、日本で進歩的と言われた新聞(はっき り言えば、朝日新聞である)で、このようなデジタル文化やネットワーク文 化をネガティブに位置づけるコラムを書いていた程である。    さらにメディア文化に目を向けよう。  この過去への憧憬を具現化するアニメ「ちびまるこちゃん」が日本中を席 巻したことは記憶に新しい。あのアニメの舞台は、その作者が子供だった時 期と同じ、昭和40年代(1970年あたり)を設定しているのであるが、 それより溯り昭和一桁代、さらに大正生まれの人まで口を合わせて「私の子 供の時代はあんな風だった。」と懐古している。   何時でも昔はよかったと言う考え方は、常に良い思い出しか記憶に残らず 、仮に悪い思い出があったとしてもそれは確定した過去の事例に過ぎないか らである。常に未来に向かって生きねばならぬ我々にとって、過ぎ去った過 去とは恐るるに足りない、他岸の火事そのものなのであることを否定するこ とはできない。  「過去への憧憬」と言うものが、かなりいい加減な記憶や思い入れによっ て支えられている一面を示していると言えるが、この点の考察については割 愛する。    話を本論に戻そう。  不思議なことに、過去を良いものとして懐かしみ、現在を欠点だらけの環 境と決め付ける者たちのそのほとんどは決して過去を取り返そうなどとしな い。  例えば、電話の無い個人の自由を満喫した生活を送ることを、誰一人とし て邪魔するものはいないのに、誰一人として電話を手放そうとしない。  洗濯物を洗濯板で洗おうが、米を炭火と鍋で炊こうが、あるいは緑豊かな 廃村へ引っ越して貰っても、私に関して言えば全く構わないし、それに対し て文句を述べるつもりもない。製造過程が死ぬほど大変であるが、無農薬食 品を食すると言うことが健康と美容に極めて良いと言うことは言うまでもな い。  よかろう。  確かに昔の生活が、現在の生活に比べ良かった面が多いことを、堂々と認 めよう。そして、そのような言動や行動に対して非難などせず、基本的には 静観し、可能な限り支援をしても良い。こういう姿勢に対して、異を唱える 人間は少ないと考える。さらに、昔の生活に戻ること自体、さして難しいこ ととも思えず、それを妨げる要因もなどほとんど無いと断言して良いであろ う。  ところが、誰一人としてその素晴らしき過去に戻ろうとしないのである。   (本文章は、全文を掲載し、内容を一切変更せず、著者を明記する限りにおい て、自由に転載していただいて構いません。)