尊敬され得る人々

江端さんのひとりごと

「尊敬され得る人々」

2007年7月12日(木)

(その1)

私が高校生の頃だったと思います。

ロシア(当時のソビエト連邦共和国)の領域を通過した、韓国の民間航空機がソビエト軍の戦闘機に撃墜されるという事件がありました。

後に「大韓航空機撃墜事件」と呼ばれる事件です。

今になってみると、冷戦はその後半部を終了し、数年後に終結を迎えることになっていたのですが、当時の誰もがそのようなことを予想すべくもなく、世界はこの惨事に声を失なったものです。

その後、この事件は、各国の主張が入り乱れて、何が何だかか分からない状況を呈していました。

先ずは、ソビエト側による否定、事実の隠蔽に始まり、日本の自衛隊による通信記録の傍受の公開、米国による追訴、そして、最後にアンドレイ・グロムイコ外務大臣の「大韓航空機は民間機を装ったスパイであった」という声明の発表に至ります。

当時、私は、民間人(296人)を満載した戦闘能力を全く有しない民間機を、正規軍の戦闘機が撃墜したという事実に対するショックに加え、人類として到底認容しえないこのような非道な暴力が、軍事的な観点からは『十分に認容され得る』という事実に、衝撃を受けたものです。

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大学に入学した後、私はいわゆる学寮達と共に議論を行うことを常とする「政治に極めて意識の高い自治寮」に入寮し、色々なことで(愚にもつかぬことも多かったですが)議論を闘わせたりしていました。

大学2年の夏休みに実家に帰省した私が、父の運転する助手席に座っていた時だったと思います。

どういう経緯で父とこの事件(大韓航空機撃墜事件)について話を始めたか覚えていませんが、その頃、少しだけ聞き齧った地政学の本の話を引用して、『この事件のソビエト側の対応を、認容できる部分もある』という論を展開していました。

私は、---- もし、『大韓航空機 = スパイ機』であったとすれば、または、その恐れがあったとすれば、例え、それが航空機の整備不良による事故であったとしても、ソビエトが国防の観点から、そのスパイ機の可能性がある旅客機を撃墜することは、ある意味仕方がなかったのでは------ と、自分の考えを言いました。

父は、私とそのような話をする時には、いつも嬉しそうに話の間の手を入れ、私の話がどんなに稚拙でも、その話の腰を折ることなく、最後まで聞き入れてくれたものでした。

その時の父は、いつもの父とは違う様子で、ハンドルを握りながら、フロントガラスを見つめながら言いました。

『智一。そうではない』

私は、少し驚いて父の横顔を見ました。

『航空機が民間機である以上、如何なる理由があっても、民間機を撃墜するということは許されない』

私は意外な感じを受けながらも、父に反論しました。

『もし、韓国機がソビエトの領空をスパイ目的で侵犯しており、国益を脅かすことが明らかであったとしても?』

父は、息子にキッパリと言いました。

『仮に、その航空機の機長を含め、また仮に乗客のほとんどがスパイであって、悪意の目的をもって、領空侵犯をしたとしてもだ。

そこにたった一人の無関係の乗客が乗っているのであれば、どのような者であれ、その命を奪う行為を正当化することはできない』

唖然としている息子に、父は静かに続けました。

『それが「人間」と言うもの、「命」と言うものではないか?」

それは、恐らく、沢山の命が奪われる現実を間の当りにしてきた者だけが持ち得る、魂から絞り出された言葉だったのだと思います。

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私は、サイドウインドウの方を向いて、そのまま黙り込みました。

胸の中に広がる熱いものに突かれて潤んできた眼を、父に見られたくなったからです。

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(その2)

私は2000年から2年間、仕事で米国に在住する機会を得ました。

この時、私が幸運だったことは、日本からチームとして参加することになり、チームのメンバの内、所帯を有するものは、家族とともに米国に滞在することになったこと。

そして、その家族の方々がいずれも気持よ良い方ばかりで、多くの交友を深める機会を得ることができたことでした。

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ある休日のこと、私は自分の担当していたプログラムの数行を修正する為に、休日に家族をつれて職場に出ました。そこで、私の先輩とその奥様に出会いました。

奥様は、当時、皇太子のご令嬢の誕生を、インターネットで確認する為に、先輩とともに職場に来られたとのこと。 (コロラドの少くともフォートコリンズという地域には、日本語向けのテレビ放送はなかった)

その時、私は『はあ、そうですか』としか応えられませんでした。

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私は、一度、無礼を承知で、奥様にお伺いしたことがあります。

『芸能人の誰かが結婚したとか離婚したとか、そういう週刊誌に掲載されるような内容は、興味の対象になり得るものでしょうか』と。

これに対して、奥様は、「トム(Tom)」(赴任先では、全員がこのような愛称で呼び会うことが、赴任先の会社のルールとして統一されていた)と、私をお呼びになられた後、次のように続けられました。

『あなたは、自分の大切な家族や友人が、幸せになったり不幸になったりした時に、それを「興味の外」ととして置いとけるものでしょうか?』

『いえ、そのようなことはないと思います。家族や友人を思い、同じように、喜び、または悲しむと思います。また、そのような人間で在りたいと思います』

『私も同じです。私も友人達の不幸に悲しみ、幸福に喜んでいるだけです』

しかし・・・と言いかけた私を制して、奥様は続けられました。

『違いがあるとすれば、私はその友人を良く知っているのですが、逆に、その友人は私のことを全然知らない、という、ただそれだけのことなのです』

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私は、このパラダイムを提示された時の衝撃を忘れられません。

冗談でも、揶揄でもなく------、私は今でも、この奥様のことを尊敬できる人々のお一方であり、心から敬愛すべき対象であると、固く信じております。

(本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)