IT介護_第4回目
これまでの経緯
(1)介護ITとは、要介護者を救うものではない。介護者の支援に過ぎない
(2)見守りITは、ほとんど役に立っていないという事実
(3)私たちは、誰もが認知症から逃げられず、そして、そこにあるのは異世界に飛ばされた恐怖があるだけである
前半
オープニング
冒頭「父を殺すという決断」
主客転換
人生致死率100%
これから、死を迎える私たちに
要介護者となった自分の中で、特に「死」についての判断が要求される場面
主題
あなたは親を殺せるか?
あなたは自分の子どもや他人に殺される覚悟ができているか?
自分の殺され方を第三者に伝えているか
子どもに、「自分を適正に殺すことを、きちんと教育しているか?」
江端の見てきたチェックポイントは2つあるように思える
ペースメーカ
胃ろう
(分かりにくいけど)すでに手が打ない状態の認知
それを認めない本人(と家族)
まず考えない点
遺産相続(とそれに関するトラブル)は入れない
本人の脳と体が、終末期でないケースは考えない
考えるべき点
死の話題をタブーにしていないか
致死率100%なのに
恋愛や結婚や
なんとかなる、と思っていないか
自分だけは、楽に死ねるとか
自分だけは、家族に迷惑をかけないで死ぬとか
自分だけは、醜態をさらさずに死ねるとか
甘い!
なんとかなっていないよ
自分の介護→死のシミュレーションができているか
尊厳死協会の話
付録
安楽死と尊厳死の違い
~
https://kou.benesse.co.jp/nigate/social/a13n0510.html
尊厳死のデータ
調べる
遺言書
その中でも、特に介護→死に至るまでのプロセスについて
今決定しておかないと、地獄が待っているぞ
日本の「延命万歳」に巻き込まれる
医者も法律も政府も、そしていわゆる肉親も「殺してくれない」
前期高齢者と後期高齢者は嫌なことばだが、なかなかいい線ついている
グラフがあったはず
どうせ死ぬなら、と思っていないか
「100年後に誰も覚えていない」が、アホを非難された理由
どうせ死ぬは、それほどかっこいい言葉ではない
われわれは死ぬまでの間を快適に生きるために、面倒くさい人間関係や不愉快な対応をしている。「どうせ死ぬなら」と開き直れるほど、人生は短くなく、むしろ残酷なほど長い
課題を解決するアプローチ
「迷惑」という呪いの言葉を排除する
そもそも「迷惑」とは?
ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること。また、そのさま。「人に迷惑をかける」「迷惑な話」「一人のために全員が迷惑する」
成程、ブロードキャスト性がある
フィードバックメカニズムが機能しない
行為による精神的暴力+それに対する消費時間
生きていることは「迷惑」そのもの
まず、自分で自分を制御できない子どもは迷惑である
同様に自分で自分を制御できない高齢者も、また迷惑である
この流れで言えば、障害者も迷惑ということになる
迷惑な人
子どもでも高齢者でも障害者でもないのに、無知で低能であるが故に迷惑な人
徹底した「自分第一主義」
その為に必要な「迷惑」は最大限発生させればいい
迷惑をかけない人生は幻想だし、迷惑をかけない介護は、ウソである。
「なんとかなる」は、やることやった後
加えて江端の場合
迷惑はどーでもいい
「苦痛」回避を第一に
苦痛を知らせる手段
苦痛を推測して貰う技術
苦痛から逃れる為の訓練
自殺できるだけの体力は維持しておかないと
寝たきりになったら、誰も殺してくれなくなるぞ
それでも残る課題
本当に「死」が最適な選択可は、当人になってみないと分からない
苦痛があっても、生きているだけ幸せと思うかもしれない
死の恐怖は、苦痛に勝ると言えるかもしれない
遺言状を撤回したくても、できないだけかもしれない
人を殺すという決断をした場合のトラウマ
私は1mmもないけど、診療内科でカウンセリングを受けることになったという人の話を聞いた
父を殺した決断は、本当に正しかったのか、今でも分からん
が、私は決断しなければならない立場にあった
だから決断した
私は、それについて、私は誰からも賞賛も非難も受けるつもりはない。ただ「父殺し」から逃げなかった自分、という自我だけを持って、これから生きて、死んでいくつもりである
「正解」は、誰にも永遠に分からない。
将来への提言
苦痛の定量化技術の確率と数値化
苦痛推定アドバイザのいう職業の確立
怪しげな宗教でなく
科学的アプローチに基づいた、苦痛推定
「父を殺す決断」を本人の自我だけに任せるのではなく、よりどころとなる何かを
コミュニケーションができなくなった場合における、自己意志の確認技術の確立を
「死んでラクになりたい」を、私たちは、もう少し真剣に考えても良いのではないか
後半
Web化してみるか
前振
題目は「『迷惑』という名前の暴力」
無責任に濫用される「迷惑」
私の例
時間(納期)を守らない奴は嫌い。時間泥棒だから
遅刻を前提に動く上司がいたが、それなら最初から来るな、と言いたい
先に始めてくれ、が、3回続いたら、もう相手にしない
言葉だけの「子供に迷惑をかけたくない」
まったく実践していない
「もっと大局的には、社会に迷惑をかけたくない」
私は、かなり腹を立てているが
子供を餓死させて、何が「迷惑をかけたくない」」だ
国家とは、国民の生存を担保する保険装置である
生存保証とは安全保証である
それができないなら、国家に何の意味がある
もっとも簡単な方法は、子供を作らない→結婚しないこと
あるいは、「子供を止めること」
迷惑をかけない、という考え方が正しいのかどうかも怪しい
私達は「迷惑をかける;/かけられる」という前提とした社会を作らなければならないのではないか
これが「お互い様」の精神なのだろうか。私は嫌いであるが
ベタベタした人間関係が嫌い
しかし、これは普通であったはず。どこから変っていったのか?
弱者正義の理論
だれもが将来弱者になる可能性があるから?
私を守れ、と主張するものは、守りたくないが、守らなくてもいいよ、と言われると守りたくなる
これを利用しているのか?
俺をおいていけ! と言われたら、「わかった」といって簡単に見捨てると思う。私という奴は。