江端さんのひとりごと 「登る金の龍」 先日の週末、私は嫁さんが実家に帰っていることをこれ幸いとばかりに、昔 の上司も含めて研究ユニットの人間6人を自宅に招待し、飲み会を行いました。 私が入社して以来『こんなに酒を飲む人間達、見たことない』と言う連中で す。 午後3時に集まった彼らは、私が作った自家製ビール20本を夕方までに全 瓶飲み干した挙げ句、そのままワイン5本とスッコチウイスキー1本を転がし、 延々10時間、実に午前1時まで飲み続けました。 私と友人H君が2時間をかけて作った合計16人前の中華料理は、2時間も 経たないうちにほとんど平らげられ、後輩のN君の奥方が差し入れてくれたお 握り十数個もあっと言う間に皿だけになりました。 その間、H君は、夏休みをつかってタイに出かけ、必要もないスーツを2着 売りつけられたと言う話をし、さらに後輩のK君は、同じく夏休みの間にポル ポト派の元勢力地域だった危険地帯を抜けて見に行ったカンボジアのアンコー ルワット遺跡の素晴らしさを、寝ている私の頭の上で滔々と喋り続けていまし た。 そして、昔のユニットでリーダ格の人で、酒を呑み続けている限りは何日で も起きていられると豪語する平澤さん(仮名)は、酒を飲みながらの自己体験 談にかけては、右に出るものがいないと言う話芸のスペシャリストです。 平澤さんは、大学在学中に今の奥さんと結婚し、現在中学受験を控えたお嬢 さんを持つ、ーーー私とそれほど歳の違わないーーーお父さんです。 ですが、社会人になって10年でも経つ今となっても、「徹夜で飲み明かす」 とか、「友人宅に泊り込む」などと言うことは朝飯前で、そのノリは今でも学 生のようです。 実際、午前1時10分に「家に帰る」と言って出て言った平澤さんは、20 分後、最終電車に乗り遅れて、「柿生駅の駅員の応対が悪い!」と文句を言い ながら、私のアパートに帰って来ました。 こんな平澤さんですから、彼が学生だったときは、そのノリが如何なるもの であったかは、想像に難くありません。 「金龍事件」とは、このような平澤さんの日常から発生した事件となります。 ---------- 大学院2年生の時、平澤さんの書いた学会論文は、米国の「フィジカル・レ ビュー・レター」と言う有名な論文誌に掲載されました。 当時、その論文はその分野に置いて高く評価され、平澤さんは華々しい学会 デビューを果たすと同時に、世界中のその分野の研究者からその論文に対する 質問が集中し、毎日毎日が凄まじいプレッシャーの連続で、押し潰されそうな 精神をかろうじて保ちながら生活をしていました。 そんな日々のある日、平澤さんは友人の飲み会に参加し、プレッシャーの日々 もあってか、大学の近くの神楽坂の飲み屋で、へべれけになるまで飲み続け、 深夜の街をぶらぶらと歩きながら新宿区小川町にある大学の友人の家を訪れま す。 後に、この平澤さんの友人が酷い迷惑を被ることになります。 その後、終電のなくなった東京の街で、タクシーを捕まえることの出来た平 澤さんは、意識モウロウとなりながら、後ろのタクシーの座席に乗り込みまし た。 タクシーの運ちゃん:「お客さん、どこまで」 平澤さん :「ん・・、うん・、小石川・・まで。」 この小石川のアパートを2週間前に引き払ったことなど、アルコール漬けの 平澤さんの頭からは完全に欠落し、そのまま平澤さんはタクシーの中で昏睡し てしまったのでありました。 ----- 「お客さん、お客さん!起きて下さい。着きましたよ」 タクシーの運ちゃんの声で目覚めた平澤さんは、ふらふらしながらタクシー を降りると、深夜の周りの風景に妙な違和感に気が着きました。 (・・あぁ、俺、引っ越したんだったけ・・・)と思いつつも、このままもう 一度タクシーを捕まえて、大人しく自宅に帰るような平澤さんなら、問題はな かったんです。 平澤さんは、 丑三つ刻の街を千鳥足になりながら、近くに住んでいた友人 (近くのファミリーマートのバイトで知り合った某大学空手部の友人)宅に向かっ て歩き始めたのでした。 ここまでは、まあ、普通の学生なら、非常識ながらもやることかも知れませ ん。私も、実際学生時代には、よく友人の下宿に転がり込んでは床の上で転がっ て眠らせてもらったものです。 私を驚嘆させたのは、平澤さんがその後友人宅で再び飲み始め、飲み疲れる と友人と二人で直立浮動の姿勢で1つの布団で眠り、再び起きるとまた飲 み始めて、語り始めたと言うことです。 江端 :「なんでそんな朝起きて、すぐ飲み出せるかなぁ?」 平澤さん:「なんでって、お前、起きた目の前に酒が置いてあれば、そりゃ飲 むに決まっとるだろうが。」 こうして、平澤さんと彼の親友は、昨日の残りの酒を翌朝から飲み始め、一 日中熱く語りながら飲み続け、そして飲み疲れると昨夜と同じように友人と二 人で「気をつけ」の姿勢で1つの布団で眠りつづけたのでした。 平澤さんに言わせて、曰く 『真の友人との語らいは、心から発せられる魂の応酬であり、そこには時間 とか空間とか言うような、瑣末な次元が張り込める余地などはないんだ』 そうです。 で、この魂の応酬はとうに2日目の夜を過ぎ、実に3日間に渡って続いたの でありました。 ここで、思い出していただきたいのですが、当時平澤さんは単なる学生では ありません。 奥方を持つ妻帯者です。 この魂の応酬の間、平澤さんの魂は高次の次元をさまよい、そこには「奥方 への電話連絡」などと言う、世俗的な事象など存在しない世界にいたのです。 ----- 不安の嵐の中、夫から何の連絡もなく2日目の朝を迎えた奥方が一番最初に したことは、大学の研究室に連絡をすることでした。 電話に出た、平澤さんの担当教授は言いました。 「平澤君は、本当に良い研究をしてくれました・・・。」 と、まるで故人の事を語るようなその口調は、さらに奥方をパニックに陥れ ます。最近平澤さんが論文のプレッシャーで精神的に追い詰められていた話も ぼんやりと語られ、奥方は血の気がなくなって行きます。 この騒ぎは、当然、大学の研究室の学生全員に伝わります。 平澤さんと最後まで飲んでいた小川町の学生の一人は、責任を感じたのでしょ うか、平澤さんを最後に目撃した場所から、平澤さんのアパートまで、およそ 7kmの距離を丹念に歩きながら、草むらや側溝、川の中まで徹底した捜索を行 いました。 そして、この事件の噂は、あっと言う間に平澤さんの住んでいる街中に広がっ て行き、そして誰もが思いました。 ーーーこれは間違いなく、何かの事件に巻き込まれたに違いない。 真っ先に考えられることは、交通事故。 奥方は警察に届け出ることを決心し、警察に事情を話しました。 しかし、警察の応対は、不安で一杯の奥方の心情など何も考えない冷たい応 対でした。 『あなたねえ、現在東京都で一日あたり何台の救急車が緊急出動していると 思います? 数千回ですよ。そんなもの、警察で全部網羅出来ているとおもっ ているの?』 と、逆に「説教」されてしまったそうです。 これが我々が血税を払って維持してやっている、国民のサーバ(公僕)である 警察のありようとも思えません。 ----- 一方、平澤さんと言えばーーー 当然、そんな騒ぎなぞ知るべくもなく、友人との魂の語らいを終え、タクシー で、今度こそ豊島区雑司が谷にある本当の自分の家のアパートに戻って来ました。 タクシーを降りた平澤さんが、アパートに向かって歩き出すと、いきなり数 人の小学生達が、驚いたように平澤さんのほうを見て、指をさして騒いでいま す。「あの人だ!」「あの人に間違いない!」と騒ぐ小学生を、平澤さんはな んだか良く分からないまま、無礼なガキだと内心憤慨していました。 この時、平澤さんが、街中で最も熱い事件のど真中に居ようなど、知るべく もありません。 ----- そのころ、平澤さんのアパートではーーー ここで、平澤さん失踪騒ぎにおける最後の人物、平澤さんのアパートの管理 人のおばさんが登場します。 おばさんは、奥方に対して、平澤さんの直筆の「書きもの」を見せるように 命じます。 おばさん:「なんでもいいのよ。メモとかそういうものがあるでしょう?」 ところが、そういうものは意外にぱっと見つかるものではありませし、この ような騒ぎの渦中にあってはなおさらです。 大家のおばさんは、しつこく平澤さんの写真とか書いたものとかを奥方に求 めたのですが、奥方は何だか気持ち悪くなってきて、この申し出を断ったそう です。 すると、おせっかいやきの江戸っ子のおばさんは「機転を利かして」平澤さ んがそのアパートに入居するときに書いた契約書を勝手に持ち出します。 そして、「私、良い人を知っているのよ。」と言ったまま、どこかに行って しまいます。 しばらくして、平澤宅に電話がかかって来ます。 電話を受け取った奥方は、管理人のおばさんの意気込んだ声を聞かされるこ とになります。 おばさん:「今ね、私の知合いの人に、平澤さんの書いた字を見せて、平澤さ んの居るところを探してもらっているからね。今、電話代わるわ。」 奥方に有無を言わせないまま、電話の向うではおばさんから、別の人物に入 れ替わる気配がしたかと思うと、なにやら怪しげな声で語り出す声が聞こえて 来ました。 謎の人物:「水晶玉の中に、厚い雲がたち込めています。しかし、その雲の中 から光り輝く・・・む、これは・・龍だ!金色の龍だ! 奥さん、 金色の龍が今まさに天に登って行こうとしております。 奥さん、大丈夫です。ご主人は、もうすぐおうちにお帰りになり ます。安心してお待ち下さい。」 と奥方が謎の人物の謎の話を聞いていた、まさにその時、 「ハロ〜〜」とおどけながら部屋の中に入って来た平澤さんは、重苦しい空 気の中に見慣れない多くの人が家の中にいるのに気が尽き、きょとんとしてそ の場に立ちすくんでしまったのでありました。 --------------- 飲み会の全員が、大爆笑から立ち直り、なんとか話が出来るようになるまで、 しばらく時間がかかりました。 江端 :「私としては、この事件の『おとしまえ』の方が聞きたいですね。」 平澤さん:「そりゃもう、大変だったぜ。」 奥方は泣き叫びながら崩れ落ちてしまうし、担当教授の方は、研究室には居 なかったので、御自宅のほうまで参上して頭を下げに行けば、 「平澤君は、最近本当に良い仕事をしていました。」 と言われたそうです。 やはり大学教授と言うのは、どいつもこいつも浮世離れをしているのか、と 私は思わずにはいられませんでした。 そして、ーーーまあ、これは避け得ない事とは思うのですがーーーそれから しばらくの間、平澤さんは小学生から『あ、龍のおじちゃんだ』『金龍おじちゃ んだ』と、指を指されていたそうでございます。 ----- 平澤さん失踪事件、 名付けて「金龍事件」の一席でございました。 (本文章は、全文を掲載し内容を一切変更せず著者を明記する限りにおいて、 転載して頂いて構いません。)