20年くらい前になりますが、「利己的遺伝子」という話題が流行ったことがあります。
「我々人間を含めた生物個体は、遺伝子が自らのコピーを残すために一時的に作り出した『乗り物』に過ぎない」という理論です。
この理論、非常に物事を説明するのに便利な理論でして、スポーツや勉強の競争原理は勿論、性欲やSEX、子育てや「子どもに対する保護者の犠牲的行為」までもが、一通り、キレイに説明できます。
参考文献 利己的遺伝子論に基づく「花見」
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生物である私達人間は、世代毎の生殖による「減数分裂」を繰り返すことによって、自分固有の遺伝子を失っていくことになります。
50%→25%→12.5%→6.25%→・・・・
利己的遺伝子論が、「個」の維持までをサポートするのであれば、「生殖によらない子孫の生成」つまり、「クローン」が一番筋が通っているハズです。
しかし「クローン」は、遺伝子情報を100%伝えるものですから、環境の変化に対する適応性がありません。
もし、私の遺伝子からなるクローンを1万体ほど作ったとしても、彼等に「テレビドラマ(例えば、「渡る世間は鬼ばかり」)を見せれば、全員がテレビの前で悶死してしまうでしょう。
これでは、「個」としても「種」としても、後世に残ることはできません。
ですから、哺乳類等の生物は、「種」としての生き残り戦略だけを選び、「個」としての生き残り戦略としての「クローン」は選択しなかったのです。
利己的遺伝子論は、「種」の生き残り戦略としては上手く説明ができても、「個」の生き残り戦略としては説明できないのです。
しかし、私達個人は、人類がどうなろうが「知ったこっちゃない」のであって、「自分自身が生きのびる」ことができれば良いはずなのです。
とすれば、「個」としての私達は、「クローンを選びたい」という特性を持っていても良いと思えるのです。
さて、ここから、今回のコラム
[『結婚を計算する』番外編] 精子提供サービスの実態と、ヒトのクローンにおける安全面の課題、および技術的進歩
の話に飛びます。
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少々話はそれますが、この原稿を執筆している最中に、嫁さんと長女に
■『見たこともない男性に精子を提供してもらって子どもを産む』のと、
■『自分自身のクローンを産む』のは、どっちがいい?
■ただし『どっちも嫌』という答えは不可
と質問してみたところ、2人とも迷うことなく「前者」と答えました。
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の話をさせて頂きたいと思います。
あれは、原稿脱稿一日前の深夜1時ごろだったと思います。
長女:「自分で自分自身を産むんでしょう?」
私:「遺伝形質としては100%同じだから、顔、身長、体格、それと基本となる知力や体力も、概ね同一と考えていいけど、『自分自身を産む』のか、と言われると、ちょっと違うような気も・・・」
長女:「そんなの、気持ち悪いってば!」
私:「自分の双子の姉妹(兄妹、姉弟、兄弟を含む)について、ちょっと調べてみたんだけど、その姉妹を『気持ち悪いと感じる』という意見は、全く見あたらないんだけどな」
長女:「兄弟は『育てる』わけではないでしょう。「自分」が好きでもない「自分」が「自分」を育てることなんて、できる訳がないじゃん」
私:「え?そうなの? 私は、結構、「私」が好きだけどな」
長女:「パパは、例外、というか『論外』」
私:「・・・」
長女:「その子どもは、自分と同じような成長プロセスを辿るんだよね」
私:「外観形態としては、概ね同じような成長をしていくと思う」
長女:「子どもが、自分と同じ成長プロセスを経るのを見ながら、生きていくんだよ。予想できるんだよ。どんな病気に罹りやすいとか、とか、どんなアレルギーがあるかとか、自分で、全部分かっているんだよ」
私:「・・・気がつかなかった」
長女:「そうでしょう」
私:「凄く便利いいな! それ!! 病気に対して事前に万全の体制が取れるぞ」
長女:「そうじゃない! 」
私:「ん?」
長女:「育児というのは、自分の子どもの『予見できない未来』に、意味があるんじゃないの?」
私:「うーん。言わんとしていることは分かるんだけど、20歳以上も歳が離れれば、そりゃもう『別人』といってもいいんじゃないか? 自分と同一視できないと思うぞ」
長女:「・・・」
私:「そもそも、お前(長女)にしてもだなぁ、減数分裂によって、私の遺伝子のきっちり50%は、私の遺伝子を引きついでいる訳だが、私は、お前のことを『自分に似ているから気持ち悪い』などと、たとえ50%でも思ったことはない!」
長女:「当たり前だ! そんな親がどこにいる!!」
私:「では、ちょっと話を変えよう。AIDの話をしよう。AIDとは・・・」
長女:「省略していいよ。もう何度も聞かされたから」
私:「50%の遺伝子を占めることになる『見も知らない男』の精子の方がまだマシ、というロジックが分からん」
長女:「100%のクローンよりはマシだからだよ」
私:「その『見も知らない男』とは、性格最悪で、DV常習者で、麻薬中毒者で、低能で、ブサイクで、デブで、短足で、おおよそ、お前(長女)の好みと逆相で、社会においても、最低最悪の人格と言われる男の―― そんなドナーであったとしても、それでも、自分の100%クローンよりはマシと言い切れるか?」
長女:「言い切れる!」
私:「・・・ほう」
長女:「自分のクローンよりは、ずっといい!!」
長女:「そもそも、パパは、『子ども側』からのビジョンが欠けていると思う」
私:「それは、どういう・・」
長女:「目の前に、自分の将来の姿がある訳だよ。そこにあるのは、確定した未来だよ。多様性が否定された人生だよ。そんなものと毎日を生きる人生に、喜びがあると思う?」
私:「なるほど。『親父は息子のなれの果て』の強化バージョンと言いたい訳だな。しかし、それは外観形態だけの話であって・・・」
長女:「女の子にとっては、それだけでも、大打撃だよ」
私:「外観が確定している未来って、そんなに辛い?」
長女:「20年〜40年後の自分が映っている鏡を毎日見る『絶望感』って、パパには理解できない?」
そんなもの(結論)はありません。そもそも、ロジックで語っていないし、正解を出そうというつもりもありません。
しかし、長女の主張は、自分の意見ではなく、「個」を犠牲にして「種」を守らせようとする利己的遺伝子が、「長女に、そのように言わせている/感じさえている」ようにも感じるのです。
そう思うと、なんか利己的遺伝子に逆らってみたくなりませんか?
最近の人類は、「種」に対して闘いを挑んでいるようなところがあるような気がします(例えば、同性婚なんて、「種」に対する決定的な挑戦状ですよね)
私は、色々な愛の形態があるように、色々な子どもの形態があっても良いように思えます。
「お嬢ちゃん、お母さんにそっくりだね」
「うん、私、お母さんのクローンよ」
と言える未来を、それほど激烈に否定する必要もないんじゃないかなー、と私なんかは思ってしまうのですよ。
2014年2月18日 江端智一